幕間 捨てた名

 §



「ゼノン様」


 魔導師の声にゼノンは我に返った。


「呪帯に緩みはなく、魔法陣にも問題はございませんでした」

「そうか」


 鬼将ゼノンは手短に返し、背を向けた。


「ゼノン様?」

「問題がなければ良い。時間も有限ではない、調整を勧めよ」

「はっ」


 魔導師が深々と頭を下げるとゼノンは足早に歩きだし、人の気配が完全に途切れたところで足を止めた。


 経過観察の報告を受けた限り、今回のような事はここにアレが運ばれてからは一度もなかった筈だ。本来ならば、些細な変化も見逃す事は許されない。再調査の上での再調整が必要だった。


 だが、ゼノンはそれを言えなかった。


 被験体が血の涙を流した瞬間に起こった現象。

 不穏なゆらぎを感じたかと思えば、今までそこにいなかった筈の者の姿を見て驚いた。


 艶やかな黒い髪、異国を思わせる整った顔立ちに小さな唇、夜を思わせる黒い瞳は深い悲しみに濡れ、力なく涙を流し続ける、少女からやっと脱却たばかりの無防備な美しい女の姿。


 その黒い瞳は確かにこちらを捉え、呟くように形の良い唇を動かしたのだ。




 嘗て、遠い昔に捨て去った、誰も呼ぶ事のない名を。


 まだ、大人の汚さを知った気になっていた子供の時分、高い報酬につられて黒の森に置き去りにされ、どうにか九死に一生を得たあの時に捨てた名だ。

 街に戻れば彼は死んだことになっていた。周囲が止めるのも聞かず、貴重な素材欲しさに勝手に・・・黒の森に入ってしまったのだと。


 ギルドに戻り報告すれば死亡は取り消されただろうが、彼はそれをしなかった。

 彼を陥れた者らを皆殺しにしなければ腹の虫は収まらなかったからだ。

 どのみち、真っ当な・・・・冒険者を相手取り、異議を申し立てたところで厳重注意が関の山だ。しかし、こちらは文句なしに死にかけたと言うのに。


 負担の軽減目的に声をかけ、彼らにとっては端金はしたかねだろう報酬惜しさに殺そうなどとは笑えない冗談だ。


 相手が殺すつもりであったなら、こちらが殺したところで文句は言えまい。

 生憎と国の定めた法律がそれを良しとはしないが、死人は法の外にある。


 そうして彼はザイという名を捨て人知れず自身を嵌めた人間全てを殺してまわり、その後にゴウキと出会い、ゼノンとなった。


 哀しみに濡れた瞳の中には確かに彼に対する親しみと優しさがあった。


(もし)


 ゼノンの赤い瞳が僅かに揺れる。


(もしあの時分、あのように恐怖も奇異の色もない真っすぐな瞳で名を呼ぶ存在がいたなら、俺は……)


 ゼノンは軽く頭を振った。


「馬鹿馬鹿しい」


 彼の捨てた名を呼び、かき消えた女の姿は力を奪われヒトの作った機械に繋がれ、呪帯に縛られ身動きも取れない、いずれ使い潰される女のなりをした何か・・の本来の姿だ。


 あれは女でも、ましてやヒトでもない。ただ、ヒトの姿を模倣しただけの神を騙る何かの端末にすぎない。


 あれは恐らくは精神干渉の一種だろう。


 だが、いくら自分自身に理屈を言い聞かせようと、垣間見た女の涙と小さく動いた唇が脳裏に焼き付いて離れない。ゼノンが剣を抜き放った瞬間に見せた憐憫。

 その存在そのものがゼノンの固く閉ざした心の奥深くを抉った。


 やもすれば、嘗て愛した女の姿すらかすみそうになる。


 彼が皇国に身を寄せたのは初めて愛した女とヴェストを奪った国への、黒の森の管理を怠ったあの出来損ないの女神への復讐だ。


 彼女を呪印の結界内に誘い込み、力を封じ、ゼノンが捕らえ抵抗を封じた。

 殺してやりたいと思ったが、上の命令で辛うじて思いとどまった。

 長く苦しみ続けるならそれも良いと思い直したのだ。


 平和な国だった。彼のような者が過ごしやすい国かと問われれば、そうでもなかった。

 しかし、愛した女がいた。己を理解してくれる気の良い仲間がいた。


 王もまた、他国の侵略など考えるような人ではなかった。

 そんな、忘れてはならない彼女彼らすら一瞬とは言え忘れ、全ての意識が目の前の女に奪われた。


「小賢しい真似をしてくれる。化け物め」


 ゼノンは忌々し気に吐き捨て、外への通路を歩きだした。

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