第29話 平行線
これは一体どういう状況なのか。
私は混乱の中にいた。
再会の喜びを分かち合った。のだと思う。
ザイは抱きこんだ私をそのまま抱き上げたかと思うとさっさと歩きだし、私ごとソファに座ってしまった。
あまりにも躊躇いのない自然な動作に一体何が起こったのか理解ができなかった。
腰かけたザイの膝の上、横抱きの姿勢で座らされた私はザイを見上げた。
じっとこちらの様子を伺っているのがわかる。
(これは、揶揄われているのだろうか…………?)
これはおかしいのではないかと訊ねたら、私がおかしいかのように返された。
何らかの必要があって抱き上げられたり、再会の抱擁はたまにある。
見ず知らずの手合いであれば、まず触れてこないし、触れようとはさせない。
見知った間柄の者は私にまず礼を尽くし、相応の態度で接してくる。
つまり、何が言いたいかと言うと、このように馴れ馴れしい態度を取られ、それを許してしまったのは初めてという事だ。
ヒトの子同士の親しい間柄、というのはよく目にするが、実際自身がその立場に立たされたとき、それが正しいものなのかが判断がつかない。よくわからないのだ。
ザイは可愛い。それは大きくなっても変わらなかった。
甘える時のザイは特にかわいい。
自身から触れたいと思うし、触れられるのも嫌ではない。
ただ、何というか、時折油断ならないと感じる瞬間がある。それが何なのかはまだわからない。
ヒトという存在を外側からしか見て来なかった私にはこういったザイの行動が何を意味しているのかがわからない。
こういう時こそ前世の記憶の出番だろうと思うのに、ゲームに関して以外は朧げなそれは全く何の役にも立っていない。
ザイはただ、私を膝にのせて機嫌がいいようなのでさせたいようにさせている。
何か悪さをする風でもない。
ザイの腕が私の肩を抱き寄せ、自然とその厚みのある胸に顔を埋める形になる。
背や腰に回された大きなての温かさや胸から伝わるザイの鼓動を感じ、何か、心が居心地わるそうにもぞもぞする。
突き上げるような激情には最近馴れてきたが、これにはどう対応していいのかがわからない。
嫌ではないのだと思う。しかし、とにかく妙な居心地の悪さを感じるのだ。
「ザイ」
たまりかねて声をかければ近い距離の深紅の瞳がこちらを覗く。
「その、お前、ゴウキから
言った瞬間ザイが固まった。
鬼は諱を明かす事を由とした相手でも、あまり気安く呼んではいけないのだとゴウキは言った。
先程、成長したザイの姿が嬉しくて、つい
幸い、その名を拾ったのはザイだけで、他の者は気づいた様子がなかったようで、次からは気をつけるように言われた。
三年前はまだザイだったが、今はそうではないのなら、やはり鬼の慣習に従って字を呼ぶべきなのだろう。
では字は何と言うのかと訊ねたら、本人から直接聞くように言われた。
ザイ本人からは固く口どめされているらしい。本人が字を明かすまでは諱で呼んでも良いと言われた。
ザイの眉がぐっと寄った。
「ザ……」
言いかけて口を噤む。
それを見たザイの目が険しくなる。
「ザイでいい」
「しかし……」
「
強い拒絶に哀しくなる。
字を呼ばせたくない程、ザイに嫌われてしまっているらしい。
「そうか」
肩を落とし、顔を伏せた。
最近の私の心は本当に忙しい。
けれど同時におかしいと思う冷静な私がいる。私はこんな些細な事で感情を揺らすような事はなかった筈だ。
それなのに、今、ザイに拒絶を示されただけで
ヒトの子と噛み合わぬ事にもどかしさと虚しさを感じている。
なんだ、これは?
内心の動揺と葛藤に戸惑っていると、ふいに顎を掴まれ顔を上げさせられた。
そこには焦燥に駆られたザイの顔がある。
「俺は、アンタに、
何処か必死な様子のザイを不思議な気持ちで見つめる。
「言っている、意味はわかる」
「だったら泣くな」
「…………なく?」
かさついた指が目尻を拭う。
「泣いてる」
なぜ、
今更ながらに疑問が湧く。
答えなどわかっている。
前世の記録でしかなかった筈の感情が、種の中の個に過ぎないザイとの出会いをきっかけに私の中で芽吹き始めたからだ。
これはゲームの記憶に紐付けられた感情ではない。
。
不変の存在たる私が変わり始めている。
それは堪らなく恐ろしい。
それなのに。
「泣くな、フェイ。俺の言い方が悪かった」
そう言って私を戸惑いながらも抱きしめる腕が心地よく、驚かされた子供のように跳ねる心は嫌いではない。
今まできょうだい以外の他の種にも個にも大きく動く事はなかったというのに。
ザイという個の存在に心を揺らすこれが変化の兆しであるなら、神がそれを私に求めているなら逃げる事も立ち止まる事すらかなわない
「諱は、不快な響きとなるのだろう?」
そっと目だけを上げれば、ぐっとザイが詰まる。
「フェイが、呼ぶ
思わぬ言葉に目をぱちりと瞬く。
「フェイに
「…………他人だろう?」
「名を交わしたろ」
声のトーンが一気に低くなった。
「だが、あれは……」
「偶然だ」
言い切った。
ザイが深紅の瞳をぎらりと光らせる。
「だが、俺は覆す気はない」
§
困ったものだと思う。
それはフェイに対してであり、己自身に対してのものでもある。
ザイの腕に収まる彼女は浮かない表情のままだ。
「俺の納得いくものならアンタに従う」
あまり見たい
それでもこれだけは言っておかねばならない。
「どうしても撤回させたくば俺を殺せ」
瞠った目が僅かに揺れる。
哀しげに顔を伏せるフェイを抱きしめる。
傷つけたくはない。悲しませたくはない。
けれど、どうにもならないし、どうにかしようとも思えない。
「お前と過ごしたのはたった3日だぞ? そんな相手に命を捧げるのか?」
「すでに角を捧げた」
「あれは……」
「意味を知ってても俺は角を捧げてた」
往生際の悪い。
事は成ったというのに彼女は尚も言い募る。
彼女の目はどこまでも他人事だ。
ザイとフェイの行く末が交わる可能性など最初から考えてすらいない。
「フェイ、アンタは俺の為を思っての言葉なのはわかる。だが、余計なお世話だ。俺の生き方は俺が決める。アンタが俺を受け入れる事がなくとも俺はフェイを諦めない」
「……もし、私が他の誰かを選んだらどうする?」
「そいつを殺す」
鬼の血とはそういうものだ。
これでは埒があかない。
何がなんでもザイを手放そうとする彼女を黙らせるにはどうすれば良いかと考える。
§
「……私は、ザイの事は気に入っているが、ヒトが番う為の情は持っていない」
「無理強いは、しない。その代わり、フェイも俺に無理強いはしないで欲しい」
「例えば?」
「俺は、フェイを諦めない。それは俺の意思だ。他を当たれと言われても俺には無理だ」
こうなれば平行線だ。どちらかがどこかを譲らなければ事態は収まらない。
「わかった」
私は了承するしかなかった。
ザイは私にこれ以上の強要はしないという形で譲歩を示した。ならば私も譲らなければならない。
これが我が神の采配だというなら名を交わすという事に関して受け入れるべきなのかもしれない。
こちらに無理に何かを求めてこないというなら、ザイの気の済むようにさせておけば良いのだ。
今、こうして私を膝に乗せている事を容認するように、勝手に夫を名乗らせておけばいい。
それを許す程度には私はザイを気に入っている。
天啓が降りる前の私ならそうした。
それなら彼も彼なりに落とし所を見つけて納得できただろうに、何故か私はそれを躊躇っている。
「フェイ、待つくらいの事はさせて欲しい」
「ザイ……」
「アンタが待って良いと言ってくれればそれでいい」
「無理強いはしないのではなかったか?」
「無理強いはしない。これはお願いだ」
ぬけぬけと言い放つ。
鬼の血の、何と厄介な事か。
「わかった。気の済むまで待てば良い。途中で気が変わればいつでも言え」
「……気は変わらないし、言わない」
そう言ってザイは私を抱え込んだ。
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