飛ぶの?

栗須帳(くりす・とばり)

第1話 生と死


 雲一つない青空を、男が見上げていた。




 子供の頃はよく、こうして空を見上げていた。

 澄み切った空を見つめ、それが希望に胸躍らせている自分を祝福しているかのように思い、笑ったものだった。


 しかし時が経つにつれ、思い描いていた未来、それがただの夢だったことを思い知らされた。

 現実という壁によって。


 ひとつひとつ、無残に潰されていく夢。


 そしていつしか男は、空を見上げることをやめた。

 気が付けば、自分の足と地面しか見ない、そんな男になっていた。




 砕け散った数々の夢に絶望した男は今、雑居ビルの屋上に立っていた。

 恨めしそうに空を見上げ、呪いの言葉を何度も吐いた。


 これで終わりだ……俺の人生はここで、俺の手で幕を下ろす。

 男は柵を乗り越え、足元に視線を移した。


 恐怖を感じることはなかった。それが不思議だった。

 俺の人生で最後にすること。

 それはこの場から飛ぶこと。それだけだ。


 落ちていく時、たくさんの感情が沸き上がるのだろう。

 恐怖心、後悔、そして……死への渇望。

 様々な思いが交錯し合いながら、俺はただの肉塊になる。


 どれだけの苦痛に襲われるのだろう。

 人は死ねばどうなるのだろう。

 そんなことをずっと考えていた。


 その思いが生への執着となって、自分の足を動けなくするのではないかと思っていた。

 しかし今、飛び込もうとしているその先を見下ろした時、不思議なぐらい穏やかな気持ちになっていた。

 吸い込まれていく様な感覚とは、こういうことなんだろうか。

 大地が自分を抱き締めてくれる、よく頑張ったなと慰めてくれる、そんな気さえした。


 何だ、こんな簡単なことだったのか。

 そう思うと、生に執着していた自分が滑稽に思えて来た。






「飛ぶの?」


 突然聞こえてきた声に、男は振り返った。

 柵の上につま先立ちで座っている、少女の姿がそこにあった。


 少女は頬杖をつきながら、好奇の眼差しで男を見ている。


「誰だ」


「私?そうね、説明が難しいんだけど……どうでもいいんじゃない?」


 蔑むように笑う少女に、男は苛立ちの声を上げた。


「……そうだ。ここから飛び降りるんだ」


「ふーん」


 男の感情を逆なでするように再び笑うと、少女はつま先立ちのまま立ち上がり、男に近付いてきた。


「……止めに来たのか」


「止めに?まさか。私はただ、あなたの最後を見たいだけ」


「……」


「今までこうして、たくさんの人の最後を見て来たの。もがき、苦しみ、そして負けていった人たち。彼らが絶望に侵され、自ら人生の幕を引く。その瞬間がね、たまらなく好きなの」


 唇に舌を這わせ、ゆっくりと近づいてくる。


「……人じゃないな」


「うん、人じゃない。でも何者なのか、それは誰にも分からない。だって、私にも分からないんだから」


 そう言って男を見下ろし、口元を歪めて笑った。


「私はただ、あなたの最後が見たいだけ」


「なら、ここじゃないだろう。お前が見たいものは、これから俺が落ちる場所にこそあるはずだ」


「ここでいいの。私は別に、バラバラになったあなたを見たい訳じゃない。そんなもの見たって、気持ち悪いだけだし。それに品がないでしょ」


「なら、何が見たいんだ」


「あなたが自ら、人生を終わらせようとする瞬間。その思い。それが見たいの」


「……絶望に潰されるところを見たい、そういうことか」


「当たらずとも遠からず、かな。あなたは今、絶望に支配されてる。人ってね、絶望に侵されちゃうと、何も出来なくなるものなの。あなたなら分かるでしょ?」


「……」


「でも、人間は面白い。何もしたくない筈なのに、何も出来ない筈なのに、ある意味一番大変なことをしようとする。人生の幕を、自分で降ろそうとする」


「……その瞬間の、暴発する感情ってことか」


「うん、そう。それはね、私にとって最高の愉悦なの」


 そう言って少女が、身軽に飛び跳ねて男から遠ざかった。


「さあ、見せて頂戴。あなたの最後の輝きを」


 男に両手を捧げ、少女が目を輝かせる。



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