知らない逸話

 自分のことがすっかりとわからないというのはあまりにも不便だ。そう考えるとさっき食べた食事も僕の好物ばかりだったのかもしれない。


 脱衣所から廊下に戻ると、少し退屈そうに五十一番が腕時計を眺めていた。僕の顔を認めるとすぐに微笑みを作ってゆっくりと歩み寄ってくる。


「お待たせしましたか?」


「いえいえ、お気になさらずに。久しぶりのお風呂は気持ちよかったでしょう」


「僕はそんなに長く眠っていたんですか?」


「正確にはわかりません。魔将が斃れたと思われるのがひと月ほど前と言われておりますが、あなた様がその戦いから倒れていたのか、その後に何かがあったのかは、他ならぬあなた様しか知らないことでございます。もしかすると、近い記憶から思い出すことで記憶の糸口が掴めるやもしれませんが」


 歯切れ悪く答える五十一番は記憶障害の専門家というわけではないのだろうか。それとも僕のような事例は初めてなのか。


 何か思い出されましたか、という五十一番の問いに首を振る。一瞬残念そうに目を伏せた五十一番はすぐに表情を戻して、廊下の先に目を向けた。


「あなた様の記憶を取り戻すために役立つかもしれないものがあります。どうぞこちらへ」


 飾り気のない廊下をまた連れられていく。すでに何度か通っているが、どこも似たような造りで一人で歩くとすぐに迷ってしまいそうだ。今しがた出てきた浴場も扉の周囲を見ても何の部屋なのかわからなかった。それなのに僕以外の人間は目的地がはっきりと見えているように迷いなく歩を進めていく。この中をすっかり覚えてしまえるほど長くここにいるのだろうか。


「ささ、こちらでございます」


 どこまで行くのか、と僕が聞く前に、五十一番は一つの扉の前で立ち止まった。先ほどの浴場の扉よりふた回りは大きい。観音開きになっていて、高さは僕の背丈の倍に届きそうだった。


 やや重そうに開けられた扉の中を覗き込むと、目に飛び込んで来たのは宝石がいくつも埋め込まれた銀色に光る鎧だった。切り傷がいくつも刻まれ、ところどころ欠けているところもある。一目に実際に戦場で使われたものだと分かった。


「もしかして、これは」


「はい、あなた様が見つかったときに着ていらっしゃったものでございます。魔を払うという銀に種々の保護呪文をかけた宝石を使い強化されております。天下無双と呼びたたえられたあなた様でさえも魔将との戦いは決死のものであったのでしょう。傷つき、効果の失われた宝石も混じってはおりますが、そのまま保存しております」


 数十分前に見た鏡に映った細身の自分には少し大きくも見える。体を守るためによほどの厚みを持っているのだろう。


「触ってみても?」


 五十一番に問いかけると、彼は無言のまま厳格にうなずく。その返答を見てゆっくりと手を伸ばすと、冷たく硬い、至極当然の感触が返ってきた。どこか懐かしいような、はたまた初めて触れるような。どちらつかずの鎧は、僕の知りたい答えを知ってか知らずか黙ったままそこに立ち尽くしている。


「いかがですか?」


 期待に満ちた五十一番の瞳に僕は首を振って返す。やや考えるように視線を逸らした五十一番は視線を部屋の一角にある書架へと向けた。僕の背丈よりも高い書架は三組。中には当然に本がひしめくように押し込まれている。


「あちらはあなた様の活躍を我々が調査し、人々から聞いて回ったものを編纂してあるものでございます。先ほどお話しくださった妹様のように世界にはあなた様に助けられたものが大勢おります。一つとして取りこぼさぬよう集めてまいりました。もしかすれば、あなた様の記憶の手がかりになるやもしれません。どうぞお手にとってお読みください。私は雑務がありますので一度ここで」


 僕を書架へ押しやるように案内すると、五十一番はすぐに部屋から出ていってしまった。未だにどこかわからない場所で一人残されるのは少しばかり心許ない。とはいえ他にすることも見つからず、言われるままに僕は書架の背表紙に目を向けた。どれも丁寧にカバーがかけられていて、タイトルは書かれていない。


 厚い表紙に包まれた一冊を手にとる。刺繍の施されたカバーにはやはり文字は一つもなく、ただ中に秘めた一冊の壮大さだけを語っている。


 生唾を一度、二度飲み込み、僕は部屋の中を見渡した。五十一番はまだ戻ってきてはいない。他に人の気配もするはずもなく、部屋の中は僕に関わるという武具や戦果と思われる牙や角。そしてこのみっしりと詰まった書架があるだけだ。


 それなのにずっと感じているこの誰かの視線のような違和感はなんだろうか。起き上がってから今この瞬間まで。浴室にいたときにもかすかに感じていた。またあの二十八番がどこかで覗いているのかとさえ思えたが、人が隠れるような隙間などありはしない。それどころか窓すらないこの部屋の壁には入ってきたときに使った扉以外はきれいに隙間なく塗り固められている。


 視線から逃れるように僕は指のかかった一冊の表紙を開くとタイプライターで打ち込まれたらしいタイトルが並んでいる。


「二五一一年八月、洞穴の山賊オークを狩ること」


 僕の戦いを記録したものだと言っていたから、この年月は最近のものなのだろう。どちらにしても僕にはあまり聞き覚えのない数字だった。


 手記のようにまとめられた文面は五十一番が書いたのだろうか。堅苦しい文体で淡々と調査結果が記されている。




 山岳地帯の小さな村にあのお方がやってきたという話を聞いて、我々は山を二つ越えてやってきた。


 急坂に馬車を走らせて丸三日。馬の顔にも疲労が見えるほどだった。この道をあのお方は幾日で越えられたのだろうか。道中を知らない我々にはそれが過酷な旅だったのか泰然として勇猛であったのかは定かではない。とにかく村の中でも特別に口の回る夫人に話を聞くことができた。


 あの方が村にいらしたのは夏の盛りの頃でした。太陽が照り付ける暑い日でしたが、汗ひとつ浮かべずにいらしたことを覚えています。


 えぇ、お一人でした。重そうな鎧に身の丈ほどの剣を背負っていながら、羽でも生えているかと思うほど軽やかな足取りでした。この村には酒場や食堂などありませんから、たまたま目が合った私に声をかけられたのだと思います。


「この辺りにオークが巣にしている洞窟があると聞いたのですが」


 とても丁寧なお言葉でした。各地でモンスターを狩り、人々を救っているというのに、少しも高慢なところはなく、むしろこちらが恥ずかしくなってしまうほどでした。とても驚いたことを覚えています。


 私は近くの坑道跡にオークが住み着いていること、時折村に来ては食べ物を奪っていくことをお話ししました。それを聞くとあの方はお礼を言って休むこともなく村を去ってゆきました。


 それからオークが村にやってくることはなくなりました。えぇ、あの方は村には来ておりません。少ないながらも村中からお金を集めて準備はしていたのですが、お礼などあの方にとっては必要のないことなのでしょう。


 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。私にはわからないような深謀遠慮がございますのでしょう。


 魔将を討ったあのお方は目標だけに頓着することなく、目の前に苦しむ者あれば見返りも求めずこれをお救いになる。


 あのお方の足跡を辿るたびにその偉大さが深みを増してくるようだ。




 最後のまとめまで読んで寒気を覚えながら本を閉じた。徹頭徹尾、心がざわつくほどの賛美しか書かれていない。裏返って僕を小馬鹿にしているようにすら感じられた。


 この本棚に入っているすべてが同じような内容で埋められているのだろうか。そうだとすれば、僕はどれほどの時間を他人に使ってきたというのだ。まるで想像がつかなかった。


 それが少しも思い出せない。目の前に整然と並んでいる書架の壁が大きなプレッシャーを放っていた。

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