知らない妹

 案内された食堂は柔らかな絨毯が敷き詰められ、大きな円卓には汚れ一つない白いクロスがかけられていた。初めて見たとき牢獄だと思った寂しいあの部屋とは比べ物にならない。壁際には価値があるらしい絵画や陶芸品が飾られているが、僕の記憶を呼び起こすものはなかった。元々知らないのか忘れているのかさえ判断できない。


 勧められた席になすがままに座ると、すぐに湯気の立つスープが運ばれてくる。肉汁のしたたる大きなステーキに香ばしい香りのバゲット、ルビー色に輝くワイン。次々に僕の目の前に並べられていく。


「お好きなだけお召し上がりください。すべてあなた様のためにご用意させていただいたものでございます」


 その言葉を聞き終わるかというところで、もう僕は口に食べ物を詰め込んでいた。白衣の話など聞く余裕もない。空っぽになっていた胃の中に続々と栄養が流し込まれ、満足感が脳髄の先から先まで満たされていく。


 二枚目のステーキを食べつくしたところで、ようやく僕の目に向かいに座った白衣の笑顔が映った。


「僕はいったい、何者なんですか?」


「はい。あなた様のこれまでの献身と功績を一つの言葉で形容することは大変難しく失礼ではありますが、英雄、という言葉がお似合いになられるかと」


「英、雄?」


 やはり僕の失われた記憶はその言葉に少しもピンとこなかった。


「そうでございます。あなた様は我が国のためにご尽力され、一月ほど前に我が国の、いや世界の仇敵とも呼ぶべき魔将をご討伐なされたのです。

 しかし、その際にあなた様は大きな衝撃に巻き込まれ、路上で倒れているところを見つけられました。その時にはすっかりと記憶を失われ、頭を痛めるばかりでした」


「そんなことが」


 まるで物語か何か、自分ではない誰かの話を伝え聞いているようだった。そんな大それたことを僕がやったなんて信じられない。


「あなた様のご功績によって我が国は太平を取り戻しました。国王はその功績を高く評価していらっしゃいます。あなた様には一人娘の姫君の婿となり、この国を治めてほしいと願っておられます。

 しかし、一つ問題があるのでございます。その魔将の猛攻の前に我が国の軍隊は進行を阻まれました。最前線まで辿り着かれたのはあなた様おひとり。ゆえに魔将を本当に討ったかは、あなた様のみがお知りになることです。

 脅威は去っておりますが、本当に魔将を打ち倒したのか、と疑問を持つ輩もおります。ひどい流言を申す者には、あなた様は魔将から逃げ出してきた、魔将と取引をしてこの国を奪おうとしているというものまである始末。あるいはよく似た他人の空似であり、記憶を失ったふりをして、栄誉を奪おうとしているという声もあります。

 平和を等しく享受していながらなんともひどい戯言でしょうか。ですから我々はこう考えたのでございます。あなた様が自らのお名前と魔将を討ったことを思い出し、果たして英雄たる証言をいただければ、我が国をもってその功績を認めよう、と」


 白衣はそこまで言って、手元のカップを乱雑につかむと、中身を一気に口の中に流し込んだ。一つとして僕には理解できなかった。今しがた僕に向けられた言葉の一掴みも僕の頭の中には入っていない。


「私のことは五十一番とお呼びください。あなた様のお名前を思い出すにあたり、私の愚昧ぐまいな名前が絡まないようにするためでございます。他の者も同様に。胸元の番号でお呼びください。

 何も失礼などございません。すべてはあなた様がその身で成された数々の偉業を思い出していただくため。そのためにお力添えできるのであれば光栄こそあれ、不満など」


 白衣、改め五十一番はそこまで言って円卓に額を擦るように礼をした。もしかすると五十一番は僕と何かの縁があったのかもしれない。そう思うと、覚えていないことが悔やまれる。


「あの、あなたは僕と」


 どういう関係なのか。そう訊ねようかと口を開いたが、僕の疑問は強く開け放たれる扉の音にかき消された。


「お兄様っ!」


 誰、と尋ねる前にその少女は僕の胸元に飛び込んできた。甘く柔らかな香りが鼻をくすぐる。少し赤みがかった茶色の髪が肩のあたりでくるりと自然に巻いている。栗色の瞳に涙を溜めて、映し出された僕の顔が揺らめいていた。


 一目見ればきっと忘れないほどの可愛らしさを持っているのに、僕の脳裏には少しも彼女に対する情報は書き込まれていない。


「失礼しました。お兄様がお目覚めになったと聞いて飛び出してきましたの。でもやはり、私のことは少しも覚えていらっしゃらないのですよね」


 寂しそうに目を伏せる彼女に、僕はどんな言葉をかけてやればいいのかわからないまま立ち尽くしていた。


「わかっています。お兄様は記憶を手放すほど過酷な戦いを越えていらしたのでしょう。本当なら今すぐにでも私がお兄様の名前を呼んであげたい。


 でもそれではダメなのですよね。ですから私もお兄様が私の名前を思い出していただけるまで我慢します。私のことはただ『妹』とお呼びください。私はお兄様なら必ずやまた私の名前を呼んでくださると信じています」


 そう言って、僕の妹を名乗る少女はもう一度僕を強く抱きしめた。


「兄妹の再会はどのような形でも素晴らしいものです。本来ならばあなた様が凱旋し、全国民の前で行われるはずだったものが、このような場所でということだけが口惜しいことです。

 いかがですか? あなた様の妹様のことも今はまだ思い出せないのでしょう。しかし、この方はただ血の繋がったご兄妹というだけではありません。ご両親に捨てられた後、あなた様が傭兵稼業に身を賭してまでご立派にお育てになったたったお一人の肉親なのでございます」


 五十一番の言葉に妹が何度もうなずく。それでも僕の記憶にやはりこの少女の姿はない。


 本当に僕は記憶を失っているのだろうか。元々僕には妹などなくて、僕と同じように記憶を失って、兄がいると思い込んでいるこの少女の精神を壊さないように五十一番が嘘をついているのではないだろうか。そんなことさえ頭に浮かぶ。


 ただ僕の体に身を寄せている妹を無下に振り払うこともできず、僕は身を任せたままにしている。その理由が本当の妹だからなのか、この状況を僕が楽しんでいるだけなのか。今の自分にすら自信がなくなってくる。


「そうです。私が一つ、お兄様との思い出をお話ししましょう。そのくらいなら構わないでしょう?」


「はい、兄上様は我が国の英雄たるお方。妹様の知る英雄譚をお聞きになれば、きっと思い出すきっかけになりましょう」


 妹は僕の目を見た。吸い込まれそうな栗色の瞳が僕を射抜いている。とても記憶が混乱しているようには見えない。甘えるように僕の手を握りながら、彼女は僕に語りかける。


「お兄様は今は国の英雄になってしまいました。でも私にとってはもっと以前から私だけの英雄だったのですよ。もう十年以上前のことですけれども、私ははっきりと覚えています」


 頬が赤く染まり、その表情は恋をしているようにさえ見えた。こんな美しい少女が恥ずかしげに語るようなことをしでかしたのか。


 考えても彼女との思い出は出てこない。今の僕はただ彼女の話を聞くことしかできないのだ。

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