誓いの魔法を、あなたに

夕霧ありあ

序章 幼き逢瀬

幼き逢瀬 (1)

 そろりそろりと、音一つなく。つやのある革靴で、赤の絨毯を踏みしめるのは、真昼の日差しのような金髪の、年八つのソルシア王国第二王子だ。しわ一つないブラウスと半ズボンに身を包んだ少年王子は、冬の肌寒さを感じながらも、家庭教師が部屋を出た隙をついて、外の空気を思うままに味わっていた。彼女が部屋に戻った時、顔が真っ青になっていることだろうと、彼は口角を上げる。

 軽い足取りで少年王子――ダリルが散歩を楽しめたのはわずかな間だった。進む道の目の前には、黒くて丸い、蝙蝠のような羽をはためかせる魔物が二匹。魔物たちはダリルに気が付くと、彼に向かって、一直線に突進してきた。

「何だよ、こいつら! 僕の邪魔したいの!?」

 ダリルはまとわりつく魔物を必死に払いのけるが、彼らの勢いには通用していない。

 家庭教師から出された宿題をさぼって、部屋を抜け出すんじゃなかった。ダリルの胸には、小さな後悔があった。

「ならば、こいつで!」

 ダリルはとっさにうろ覚えの魔法陣を描き、ひたすらに風の魔法を放った。けれども、魔物たちにはあまり効いていない様子だった。

 怒られることを覚悟した上で、誰かに助けを求めるか――ダリルが二の足を踏んだ所。

「危ない!」

 澄んだ少女の声と共に、光の球が二つ、魔物へと向かった。そして、球は魔物を捕らえ、籠状に変化する。魔物たちは光の籠の中で、外に出ようと暴れ回っていた。

「ごめんなさいね。元の住処にお帰り」

 少女は窓を開けてから、光の籠を窓の外に運び、籠から魔物を解放すると、すぐに窓を閉めた。

「こんにちは、お姉さん。助けてくれて、どうもありがとう」

 ダリルは恩人に向けて、ぺこりと頭を下げる。彼の災難を救ったのは、灰色の衣装を纏う、波打った長い黒髪をおろした少女だった。寄宿学校に遊学中の兄王子と同じほどの年齢――十四、五ほどに見える。ぱっちりとした、アメジストのような瞳が綺麗だと、ダリルは子供ながらに感じていた。

「あら、あなたは……?」

 少女は、ダリルの姿を見て、紫の瞳を瞬かせる。

「僕がここにいたって、誰にも言わないで!」

 ダリルはとっさに両手を合わせて、懇願した。ダリルの正体が彼女にばれたかは、定かではない。けれども、焦りが先行していたのだ。

「言いませんよ」

「よかった」

 微笑みと共に答えた少女に、ダリルはほっと胸を撫でおろした。この人は子供心をわかってくれるのだと思いながら。ならば、少しわがままを言っても許されるだろうかと、ダリルは一瞬企みの表情を浮かべた。

「ならさ、お姉さん。僕の探検の仲間になってくれない?」

「ええ!? 私めでよろしいのですか?」

 ダリルのお願いに対して、少女は困惑していたものの、怒りは見せなかった。

「なかなかこうして遊べないし、お願いだよ!」

 ならもう一押しと、ダリルは頭を下げて、頼み込んだ。

「少しだけですよ」

 少女は困ったように微笑んで、応えた。

「本当? ありがとう、お姉さん!」

 ダリルは目を輝かせ、少女に向けて再び深くお辞儀をする。しかし、

「どうか、顔を上げてください」

 と、少女は懇願するのだった。

「うん、そうするよ。……ところで、お姉さんの名前を聞いてもいいかな?」

 顔を上げたダリルは、少女に向けて尋ねた。仲間になってくれそうな人を見つけたのだから、その機会を逃すわけにはいかなかった。

「アシュレイです。あなたは……」

「僕がダリル」

「あなた様が……」

「だけど、僕が王子だからって、そんなに気負わないで。よろしく、アシュレイ!」

 ダリルがアシュレイと名乗った少女に手を差し出すと、彼女は躊躇いがちに手を伸ばした。そして二人は、固い握手を交わした。アシュレイの手がひんやりとしていたことが、どうしてかダリルの心に残っていた。

「じゃあさっそく行こうよ。ついてきて!」

 ダリルは、忍び足で歩き始める。アシュレイも恐る恐る、ダリルの後についてきた。


「さっきの魔法、すごくかっこよかったよ。アシュレイは、魔法士になりたいの?」

 慎重に廊下を歩きながら、ダリルは小声でアシュレイに尋ねる。

「はい。まだ修行中の身ではありますが」

「へえ。いつかきっとアシュレイは、すごい魔法士になるんだろうなあ」

「そうなれれば良いのですが……」

「魔法はかっこいいけど、魔法の勉強はちんぷんかんぷんだもの。だから、アシュレイはすごいよ!」

「お褒め頂き、光栄です」

 わずかに頬を赤らめながらも、アシュレイは嬉しそうだ。彼女の笑顔に心が温まると、ダリルは感じていた。勉強に剣や魔法の鍛錬、マナーのレッスンに食事まで、細かく予定が決められた日々から解放された気がした。

「それなら、アシュレイが僕の魔法士になってくれたらいいのになあ」

「途方もない夢ですね。ですが、あなたにお仕えするのは、楽しそうです」

「うん、きっと僕も楽しい。……ねえ、見て、アシュレイ」

 少し歩いてから、ダリルは立ち止まり、窓の外の景色を指す。

「まあ。見習いの騎士様たちですね?」

 窓ガラスの先、外の広間では、アシュレイと年が変わらないくらいの見習い騎士たちが剣を打ち合っていた。剣戟の金属音が、わずかに屋内まで届いていた。彼らは正式な騎士として叙任されるために、鍛錬を重ねているのだろう。

「僕も混ざりたいけどなあ」

 ため息交じりに、ダリルはつぶやく。

「大騒ぎになりそうですが……あなた様と剣を交えられる騎士様はさぞ光栄なことでしょうね」

「なら、剣の先生が厳しくても、騎士たちに負けないくらい強くならなきゃだね……」

「期待していますよ」

 その後、二人の間に言葉はなかったが、騎士たちの鍛錬を眺めながら、微笑み合っていた。こんな時間がいつまでも続くといい―そう、ダリルが思ったのも束の間。

「ダリル様! 何処にいるのです!?」

 どこからか、大人の女性の声がした。ダリルにとっては聞き覚えのある声。家庭教師だ。

「やばい、逃げよう!」

 アシュレイだけに聞こえるよう囁いて、ダリルは一目散に駆け出す。やはり音はたてないように、足取りは軽く。アシュレイも黙って頷いて、彼の逃避行についてきた。

「待って、アシュレイ」

 あることを思い出して、一瞬、ダリルは足を止める。

「どうしましたか?」

「ここに隠れてて。僕がいいって言うまで出てきちゃだめだよ?」

 空き部屋の存在を思い出したダリルは、そこへ続く扉を指し示した。

「ですが、あなたにお付き合いしたのは私です」

「僕が誘ったんだ。だから、アシュレイは悪くない」

「……わかりました」

 アシュレイが空き部屋に入ったことを見届けると、再びダリルは一目散に駆け出した。

「見つけましたよ、ダリル様!」

 家庭教師は、黒い服に身を包んだ、髪をきっちりまとめた生真面目そうな女性だ。彼女はダリルが逃げる姿を目にするなり、颯爽と彼を追った。

「ここまでおいで!」

 ダリルは汗が流れるほど全力で走ったけれども、家庭教師に距離を詰められてゆく。

 もう限界だ―そう思った矢先、ついには追い抜かれてしまった。

「貴方という方が、また何をやってるんです」

「だって、宿題、つまんなかったし……」

 ダリルを捕らえた家庭教師はお説教をする体制だったが、そんな彼女に抵抗するように、ダリルは息を切らしながら不平を述べた。

「今日勉強した所をわかっていないというのに?」

「一人で勉強しても、飽きちゃうよ」

「いいですね、教科書を読み直すことですよ?」

「それは嫌だなあ」

「黙って部屋を抜け出したのは誰だと?」

「僕です」

「ならば、大人しく勉学に励みなさい」

「ちぇー」

 家庭教師による、強い語調の説教を話半分で聞き流し、ダリルはしぶしぶ部屋に戻った。

 不本意だが、宿題はどうにか片付けよう。けだるさを抱えつつ、ダリルは教科書を開いた。


 一方、空き部屋に忍んでいたアシュレイに出来た行動といえば、扉の近くに立って、家庭教師に連行されるダリルの様子に聞き耳を立てることだけだった。宿題をさぼっていた彼も彼ではあるけれど、気の毒だと心が痛くもあった。

 アシュレイにとっても、ダリルと過ごしたひと時は心躍るものだった。母のもとで魔法士としての鍛錬を積む毎日では、同世代、ましてやその下の世代の子供と遊ぶ機会はなかったからだ。

魔物の調査のために宮殿を訪ねた母について、客人として過ごすわずかな日々。その中で自由な時間はさらに少ないものだった。それでも、一握りの自由時間のなかで、また彼に会えたのなら、どんなに幸せなことだろうか。

 密やかな願いを胸に、彼女はそっと、空き部屋から抜け出した。

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