第 三 章 過ぎる時の中で

第十話 変わってしまった男幼馴染とあの娘

 社会人になってから二年目の夏、今年も、去年と同じ様に仕事のない休日で、宏之が仕事中のときは幼馴染の詩織と一緒に過ごしていた。

 彼女の恋人であり、私たちの幼馴染だった貴斗の奴は詩織をホッポリだして、バイト中。

 どうせ、暇な大学生なんだから、バイトなんかしないでこの子と一緒にいてやればいいのに・・・、これじゃ、何のためにアイツを詩織にくっつけたかわかんないじゃないの・・・。

「ねえ、香澄?どうですか、これわたくしに似合っているかしら?」

「ハイ、ハイ、しおりンなら何、着たって問題ないでしょう。それにどぉ~~~せ、一番に見せたいはずの貴斗の奴はそれを着る場所になんかあんたと二人っきりじゃ行かないだろうしね」

「うぅうう、かすみのぉ、いじわるぅ」

 私にしか見せる事のないすねた顔を小さく笑ってやり、そんな幼馴染の頭をなでていた。

 宥め終わったあとはお互いにハンガーにかかっている色々な種類の水着を手にとって胸元に当てながら、見せ合い、気にいったものがあったら、ちゃんと試着して、変じゃないか意見のやり取りをしていた。

 ほとんどこんな女物の水着が置いてある場所に男が来る事なんかないんだけど、たまにどう見ても恋人に無理やり連れて来させられたって奴が目に見えたとき、ちょうど私も詩織も試着した水着のまま試着室の前に立っていて、私が悪戯にその男にウィンクすると詩織も真似するように私と同じ動作をその男にしていたわ。

 それで、男の表情がしまらない形になるのと同時に痛そうな顔をして足を抱えうずくまっていた。

 それを見た私と幼馴染は直ぐに試着室の中へ入ると私たち二人にしか聞こえないようにクスクスと笑っていたの。

 笑い終わった後は心の中で知らないその男に謝ってもいたわ。

 それから、その場所で三時間以上もの品定めの末、ようやく私も詩織も気に言った物を見つける事が出来たわ。

 ちょっと早めの夕食を『アリアン・ロッド』と言う英国風のカフェ・レストランで取っていた。

「しおりン、あんた、なでそんなに食べれんのよ?おかしいわ、絶対おかしいわよ」

 私の言葉に彼女は何の事か分からないようで、スプーンを口にくわえたまま、頭上にひしめく様にはてなマークを浮かべていた。

 昔から、この幼馴染は男の子にも負けないくらいの量を食べていた。

 見た目はこの細さ・・・、『天は二賦を与えず』って言うけど詩織は三賦どころの話じゃないわね・・・、ずるい。でも、それでも詩織はその才能以上に・・・、辛い目にも・・・。

「ねえ、香澄?先ほどからお黙りしてしまいまして、どうしたのですか・・・、うぅ、なにするんですかぁ、かすみぃ~~~」

 まったく暢気な顔している詩織の額に口に付けていたストローを刺してやってから、頭によぎった幼馴染の辛辣な過去を追いやる様に怒った風な表情をわざと作って、言葉を出して私の思っている事を口にしてやったわ。

「うっさいわよ、あんた。なんでそんなにばくばく食べて太んないわけ?あたし、たべたいけどがまんしてんのにさぁっ!」

 そしたら、詩織の奴なんて返したと思う?事もあろうに、

〝香澄も気にしないでお食べになったら〟だって。しかも、〝太ったら貴斗の所為にするから〟って訳、わかんない事言うし。

 最後には〝我慢して食べていると余計に太りますわよ〟だってさぁ~~~っ!ちょっと癪に障ったから、小突いてやると、可愛らしく口を尖らせ、反抗的な目を私に見せた。

「なによ、その目は?あたしに逆らう気?ふぅ~~~んそうなんだ。あんた、誰のおかげで貴斗と一緒にいられると思ってんの?今の貴斗にみんなが知らない、あんたのいろんな秘密、こっそりばらしちゃおうかなぁ」

「かすみぃ~~~、そんなこというのひどいよぉ。うぅうぅ」

 詩織のさっきまで作っていた表情が一変する。

 そんな彼女の顔を見ながら、私は悪戯な笑みを返してやっていた。本当にこの幼馴染は扱い易いは、私にとってはね。

 アリアン・ロッドを出てから私たち二人は、街中を歩き、ウィンドショッピングを周りのお店が閉まり始めるまで楽しんでいたわ。そして、今は私と詩織の家の前。

「香澄、明後日ですからね。絶対にお忘れしないように」

「あんたと違ってあんまし、暇作れないけど、いいわよ。大丈夫、ちゃんと休暇とるから、そんじゃ、お休み、しおりン」

「ハイ、おやすみなさい、香澄」

 そういって私たちは別れの挨拶をしてお互いの家に入って行った。それから、詩織との約束の日が訪れる。

 私も彼女も、水着に着替え、南海Jパークって言うアトラクションプールに遊びに来ていた。

 お互いにその姿を見せたい人は傍にいなかった。

 私たち、二人だけだった。

 まあ、居ないのはしょうがないから、二人だけで楽しむ事にしたわ。

 私は詩織が泳ぐ先を付いて行くように泳いでいた。

 彼女の動き、昔と変って居ないスタイル、泳ぐ事を楽しんでいる彼女の動き。

 そんな幼馴染の泳ぎを見ていると、私の所為でその世界を止めちゃったんだと思うと・・・、なんだか・・・。

「香澄、そんな顔しないでくださいませ。私が競泳を止めたのはわたくし自身の意思です。香澄が気に病む事はないのですよ。だから、その様な顔を私に見せないでくださいね」

「しおりン、あたしの気持ちわかっちゃったんだね」

「ハイ、長い付き合いですから、わたくしも香澄も。香澄だってそうでしょう?私の言葉に出したくない気持ちを察してくれますのは」

 詩織はそう言葉にしてにっこりと笑い、私の手を取って水中を泳ぎ始めた。

 私は彼女の手をとったまま同じ速さでその中を息が切れるまで泳ぎ続ける。

 同時に浮上し、二人して大きく息を吸い込んでいた。まさに息ぴったりって奴。

 お互い、顔を合わせ、今の行動に笑っていたわ。

 私はそこで悪戯な笑みを浮かべ、詩織に襲い掛かってじゃれ始めた。

 嫌がるそぶりを見せるものの顔は笑っていた。

 暫く、じゃれあい、つかれた頃に、プールサイドに上がってパラソルの上で横になって多愛もない会話を始めていた。

 詩織の場合はやっぱり貴斗の愚痴と惚気や最近良く慎治にからかわれていること。

 嫌じゃないみたいだけどね。それと大学生活の事も。

 私は宏之の事と私の職場の事。

 そんな話が一、二時間続いていたわ。

 それから、再び、プールの中に入ろうとしたときの事だった。

 見た目はカッコいいけど、いかにも軟派しに来ましたって言う軽そうな連中、三人が私たちの所にやってきて声を掛けてきた。

「もしかして、君たち、二人だけ?」

「ええ、そうよ。それがどうかした?はっきり言うけど、あたしも、しおりンもあんた達になんか興味ないわよ。さっさとあっちにいきなさい」

「かっ、かすみぃ、その様な挑発するようなお言葉は・・・」

 私は詩織がそれ以上言葉を出さないように目で威圧していた。

 しかし、私のその挑発も相手は笑って返すだけだった。

「まあ、そんな事言うなって、君たち二人だけで遊んでるより、俺たちと一緒の方が全然楽しいって、なっ、だから、一緒に楽しもうぜ」

「勝手に私の手にぎんないでよっ!それとしおりンに触れたら、ただじゃおかないからね」

「あんた見たいな、強気な女好きだぜ、ボク。何せ、そんなコに限って結構内面弱かったりするからね、ふふっ」

 別の男が嬉しそうな顔で私のそんな事を口にするし、別の奴は詩織に隠すことなく厭らしい顔を向けていた。

「はなせっっていってんのっ!」

 私は強引にその手を振り払うと、その相手の目の色が急に変ったような気がした。

「ちっ、いい気になりやがって」

 言葉にすると拳を振り上げていた。

 私ははっとして、直ぐに行動出来なかったんだけど・・・、その男は拳が私の所ではなく、水面に落ちて行っていたの。

「だれだっ!この俺さまを蹴り飛ばした奴はっ!」

 私も詩織もその男が言葉を向けた方を見ると、その男の連れも水面の中に飛び込んでいたわ。

「悪いな、目の前が邪魔だった。沈みたくなかったらそのままどっかに行け」

「軟派なら、他の女にしてくれ、俺の女に手を出しら、こいつがゆるさねぜ」

「おい、おいなにをいってんだってぇ。まあ、隼瀬に手を出そうって言うなら許せ無いけどな。ああ、勿論、藤宮もだ」

 その三人組から威圧的なオーラがそのプールの中に投げ込まれた男たちに向かっていた。

 すると、おびえ笑を見せながら、どこかへと消えていったの。

「えっ?なんであんたたちが?タカト、なであんたが」

「貴斗、どうして、今日はお仕事がある日ではなかったのですか?それに八神君も、柏木君も」

「人違いだ・・・、行くぞ」

「何で、あんたそうやってあたしを避けようとすんのよ~っ!」

 擦れ違って行こうとする男幼馴染の前に立って力強く、そんな風な事を言葉に出していた。それでも過ぎ去ろうとする彼の腕を掴む。

「放せ、人違いだ。俺はお前なんか・、・・、・・・、・・・・、しっ、しぃ・・・、しらない」

 貴斗がそんな事を言うせいで、私の男幼馴染は無理にそんな言葉を出しているように思えたわ。だから、私はありもままの感情をぶつけてしまっていた。

「どうして、そうやって他人の振りするのっ?わかるけど・・・、わかるけど・・・、理由は知ってるけど、でもっ!」

 私のその言葉に貴斗はサングラス越しの顔を私から逸らして、嘲る様に口を動かす。

「ふんっ、俺の何を知っているって言うんだ?他人のくせに、俺の何を・・・」

 その言葉を聞いて私は愕然として、その場にへたれこんでしまった。たとえ、こいつの過去の記憶がなくなっていて私や詩織の事を忘れている事を分かっていたとしても今の言葉は余りにも私の心をえぐるものだったわ。

「何で、なんでそんな事言うの、貴斗?どうして・・・」

「貴斗、言いすぎです。香澄にお謝りしてください。そうでないと、ここで私泣いてしまいますからね」

「おいっ、貴斗。お前の事はよく分かってるけどよっ、そんなあからさまに言う事ないだろう?隼瀬のこれの宏之が居るって言うのによ」

「貴斗、最近お前おかしいぜ。何で香澄のそんな風な態度とるんだよっ!」

「分からん」

 貴斗はただ一言そう返してくるだけだった。

 私はそれに何も答えられなかった。そして、本当に彼は私たちの所から居なくなってしまった・・・、と思ったんだけど、直ぐに宏之と慎治に連行されて戻ってきた。

 貴斗をまるで、何処かで捕まった大型宇宙人みたいな感じに。

 そんな姿の彼を見たらさっきの落ち込んでいた気分も何処かにとんじゃっていて、笑っちゃっていたわ。

「なによ、そのかっこう、ぷっ、くくく」

「黙れっ!」

「笑うなって、隼瀬。まったく、こいつ捕らえるの苦労した。何せ、怪獣並だからな」

「まあ、いいんじゃんか、取り敢えずどっかで休もうぜ、流石に疲れたぜ。こいつ捕らえるの。化け物並に暴れやがって。はぁ、マジで疲れた」

「クスッ、貴斗、その格好似合っておりますよ、ウフフフッ」

「わらうなっ、しおりっ!」

 私の男幼馴染は宏之と慎治にそのまま連行される形で売店の近くに設置されているビーチ・パラソルの方へ向かって行く、私は詩織の手をひいて、その三人について行っていたの。

 その場所にある椅子に座ると、直ぐに私は三人がここに来ている理由を聞き始めていたわ。

 答えてくれたのは慎治と宏之だった。貴斗は黙ったまま。

 昨日、私は詩織と今日の事を電話越しで話していたの。

 私は自宅、そして、彼女は貴斗の所。

 私たちの会話を耳のよい、貴斗は聞いていたようだった。だから、今日、私と詩織がここへ来る事を知ったようだったわ。

 男幼馴染の心配性は記憶喪失になっていても変らないようだった。

 女の子の私達だけでは、確実に軟派されると思ったみたいで、独りでは来るのが恥ずかしかったらしくて、慎治と宏之に声を掛けたらしいの。

 なんだかんだ言っても、こんな態度とっても、詩織の事だけでなく、私の事も心配してくれていた事を知って、嬉しかった。でも、どうしてか、複雑な気分。

 それと宏之も貴斗と一緒で今日はバイトだったはずなんだけど、実は宏之、私に嘘を吐いていたみたいで本当は休みだったみたい。でも、どうして、嘘を言っていたのかその理由を教えてくれなかったわ。だけど、その理由を簡単に慎治が宏之に分からないように教えてくれた。・・・、その内容は寛大な私でもちょこっと許せないものだったから後でとっちめてやらないと。

「あんたも、わかんない奴ね、貴斗。何でそんなにひねくれた行動するわけ?まったく。まあ、ちゃんとしおりンの事、心配してくれてるからいいけど・・・、それと私の事も」

 最後の言葉は誰にも聞こえないように呟いていた。

 そんな私の口の動きを敏感に感じとっていぶかしげな表情をサングラス越しに見せる貴斗。

「ねぇ、タカト、なんであんた何時もこんなところに来るとそれ付けてる訳?そんなに恥ずかしい、私やしおりンのこの姿を見るの、クククッ」

 言葉と一緒に貴斗のそのサングラスをすばやい手で奪って見せた。

 すると、貴斗の表情が見る見るうちに紅くなっていった。

 そんな表情を見せる彼をげらげらと笑う、宏之と慎治。

 嬉しそうに微笑む、詩織。そして、悪戯な笑みを浮かべる私。でも、昔のこいつだったらありえない。こいつがこんなに恥ずかしがる処を見るなんて今だけなのかもしれない。

 閉園時間まで、私たちはくたくたになるまで遊んでいた。

 宏之と慎治は一緒に泳いでくれたけど、貴斗はほとんどプールには居る事はなかった。それでも、楽しかった。彼が近くに居てくれるだけで、宏之とは違う安心感をくれるアイツ。

 記憶喪失の貴斗、昔の彼とは違った部分も多いけど、やっぱり、大事な部分はそんなに変ってない事を知って嬉しかった。

 いつかきっと、こいつの記憶も戻って昔のように付き合えたら、宏之と私が恋人同士でも、それをちゃんと理解してくれる彼に戻ってくれたら、どんなにいい事か、って思うような日だったわ。

 変らない関係のままでこの輪の中に春香と翠がいてくれたら、私にとってどんなに嬉しい事かって願うような日だった。でも、私はまだ知らない。

 私たちの未来がどんな風になっていくかなんて・・・。

 この現実を生き抜くことがどんなに辛いのかなんて。

 これからバイトがある男達とはJパークの正門でお別れしていた。だから、帰りは来た時と一緒で詩織だけがそばに居た。

「しおりン、貴斗のヤツ、なんだか、相変わらずね」

「はい、記憶喪失でありますことを除けば・・・」

 その後お互いに会話が続かなかった。

 乗客の少ない車両に暫く沈黙が訪れていた。

 聞こえるのはレールの上を走る電車の振動。

 顔を向けている場所は別だったけど私も彼女もただ、じっと窓の外に見える夜の街を眺めていたわ。

「ねぇ、しおりん?」

 私が彼女の声を掛けると〝はっ〟とした表情でこっちに向く。言葉は返してこない。

 そんな彼女の顔を見ないで言葉を続けていた。

「あのさぁ、今日久しぶりに・・・、その・・・」

「春香ちゃんのお見舞いに参りましょうか・・・、・・・、・・・、この時間ですと、もう面会時間は終わっていますけど。調川先生にお許しを貰えば大丈夫でしょう。確証は出来かねませんが、クスっ」

「うんっ、さっすがぁ~、しおりんわかってるぅ」

『次はぁ~、三戸ちゅうおぉ~、三戸中央~。東京方面、三東線。埼玉中央方面、三埼線。つくば・土浦方面、区城線。群馬前橋方面、三馬線へお乗換えの方は・・・』

「香澄、それでは次で下車いたしましょう。そこから乗り換えませんと」

 詩織はそんな言葉を私に向けながら、私の手をとって座席から立ち上がる。

 中央駅でローカル線に乗り換え、国立病院がある双葉方面へと向かった。

 電車から降りて、小さめな駅のホームから、外へ向かうとそこには翠、彼女と友達らしき二人が居た。

 周りにそれほど人がいなかった。

 午後九時ちょっと過ぎのこの駅周辺、車通りも少なく静かなほうだった。

 十数メートル先の彼女たちの話し声が少なからず私達のほうへ流れてくる、彼女たちの足音と一緒に。

「弥生ちゃん、お姉ちゃんのお見舞いなんかにつき合わせちゃって迷惑掛けちゃったね。はっきり言って将臣は邪魔でしかなかったけど」

「うっせぇなぁっ、こんな時間まで妹独りほっつきあるかせるわけにゃぁ、いかねぇんだよっ、こいつの保護者として」

「将臣おにいぃちゃん、いつまでも弥生を子ども扱いしないでよぉっ!」

「そういう意味で言ってんじゃねえぇの。俺くらい強そうなヤツが居れば、悪い連中も二人に手を出せないだろ?感謝しろよ、わっはっはっは」

「良くそんなことがいえるわね。将臣なんかいなくたって・・・???ハッ」

 翠が駅の入り口付近に顔を向けた時、私達と目が合った。

 驚きの表情を一瞬作ると、彼女の瞳は荒々しく揺れていた。

 向けられるているのは私だけ。彼女の双眸が怒りに満ちていた。

「あなた、何しにこの街に来たんですか」

「翠ちゃん・・・」

「いいのよ、しおりン。何を聞くと思えば、翠、きまっているでしょ?春香の見舞いよ。そんなことも分からないの。それ以外、双葉に来る用事なんてないわ」

「よくも、ぬけぬけとそんな事を平気な顔で言えますね?おねえぇちゃんを裏切った人が、よくそんなこといえますねぇえっ!それに貴女なんかに私の名前を気安く呼んでもらいたくないですっ、虫唾が走りますっ!」

「おいっ、よせよ翠。お前の藤宮さんの隣の人がどんな関係かしんねぇけど」

「みぃちゃん、けんかはよくないよぉ」

「ふたりともだまっててっ!これは私個人の問題なの。あなたは春香お姉ちゃんを裏切っただけじゃ、飽き足らず・・・、私の期待も裏切って、詩織先輩から泳ぐ事をやめさせたあなたなんかにっ、お姉ちゃんの見舞いになんかする資格なんてありませんっ!今の貴斗さんに嫌われて当然ですっ」

 翠は顔を下に向け、だらりと垂らした両腕の手を握り締めて、それを震わせた状態でそんな風な言葉を私に向けていた、強く言い切った。

 私はそんな彼女から視線だけをそらせる。

 そんな私に翠が顔を下に向けた状態でどんな表情をしていたのかなんて分かってやれなかった。

 彼女の本当の気持ちなんて分かってやれなかった。

「翠ちゃん、私が、競泳の道を続けませんでしたことと香澄は関係ないのです。無関係なのです。ですから、今の言葉だけはご訂正していただけませんと、翠ちゃん、あなたのことをお許ししますことはできませんよ」

「詩織先輩っ、嘘は吐かないでくださいっ!私知ってますっ!今一緒に部活のコーチしてくれる先輩を見ていて一緒に泳いでくれていて、詩織先輩、本当に泳ぐの好きなんだなって、なのに・・・、そうなのに、好きな事のはずなのになんで続けなかったんですかっ!・・・、それはあなたのせいでしょっ!」


「翠、言いたい事はそれだけ?あたし達もこんなとこで無駄に時間を過ごしたくないの。春香の見舞いに行かなくちゃ行けないから」

「なにさっ、大人風を吹かせちゃって、詩織先輩ならまだしも、あなたなんかっ、あなたなんか、だいっ嫌いです。消えてくださいっ、春香お姉ちゃんの見舞いなんかも行かせません」

 私は彼女のその言葉を聞き流すように詩織の手を引いて花屋がある方向へと歩き出す。

 そんな私たち、正確には私だけだろうけど、阻むように翠が動き出した。でも、彼女のそばに居た二人が彼女の動きを止め、私たちに頭を下げていた。

「はなせぇ、ばかまさぁっ!弥生ちゃん、アンタまで何するのよっ、どこ触ってんのよっ、バカマサッ、はなせっ、お邪魔ツインズっ」

 過ぎ去り際、翠が大きな声で、そう叫んでいた。

 詩織の手を繋ぎながら歩く。そして、その手を強く握り締め・・・。

「辛いよ、しおりン。翠にあんなこと言われるなんて、思われるなんて、辛いよ・・・」

「香澄・・・、贅沢ですよ。これはあなたが選んだ道の一つの結果です。香澄のそばには柏木さんが居るじゃありませんか。貴女の愛する。それに八神君、綾さん、職場の同僚の方々・・・、無論私も。確かに私達にとって大切だった翠ちゃんが貴女から欠けてしまったのは大きなマイナスでしょうけど、それでも私達、わたくしが居るのですから・・・」

「きついコというのね、しおりン。でも、しょうがないのよね、あんたの言うとおり。・・・、・・・、・・・、このままずっと、分かり合えないのかな、翠と・・・・・・、それと貴斗とも・・・。あははハハッ、アタシなにいってるんだろう?つらいのは、辛いのは、アタシだけじゃないはずなのに・・・、つらいのはアタシだけじゃないのに何、あたしったら弱音吐いちゃってるんだろう」

「そっ、それは・・・」

 幼馴染の表情が翳り、それ以上の言葉を聞かせてくれることはなかった。

 辛い部分を持っているのは私だけじゃない。詩織だってそう。

 なのになに愚痴っちゃってるんだろう、私。

 気分を持ち直して生花店に入って、春香の好きそうなものを幼馴染と選んで買って出た。

 病院についたころは既に午後十時近くを回っていた。

 さすがに通常面会時間は終わっていたし、受付窓にもカーテンが掛けられていた。

「はぁ~、ヤッパリ遅かったみたいね、しおりん」

「香澄、仕方がありませんわ、時間も時間ですし。次の機会にいたしましょう」

 お互いに小さなため息を吐き、病院から出ようとすると、長身の白衣を着た人に呼び止められた。

 それは私も詩織も知っているここの医者、調川愁だった。

「今晩は、お嬢さん方。もしかしたら、涼崎春香さんのお見舞いでしょうか?それとも別の方の?そうでなければ、お二人のどちらかのご容態でも・・・・・・、は悪くなさそうですね。その花束を見る限りでは私が先に口にした言葉のほうが正解でしょう」

 先生に事情を説明すると彼は背中を私達に向け歩き出す。

 背中を見せながら手を上げ、言葉を介さないで一緒に来いと手招きをして見せた。

 歩きながら、先生に春香の容態の事を聞いた。返ってくる答えは〝

現状維持〟。

 次にいつになったら彼女は目を覚ましてくれるのか。先生は顔を左右に振る。

〝分からない〟。でも、こういってくれた。

『確かに、それは分かりませんが。私達は諦めません、世界にある症例の中に手がかりはあるでしょう。それを調べ尽くすまでは諦めません。尽くしてしまっても新たな何かを探すだけです』と。

「さあ、つきましたよ。私はここでお待ちしておりますので、何かありましたら声を掛けてください。そうですね、面会時間は多くても三十分までとしておきましょう。では、どうぞ」

 先生に促され私たち二人は春香の寝ている病室へと入っていった。

 病室の窓にカーテンはかかっていなかった。

 夜の闇がこの部屋を支配していた。

 窓の外上空、月の光が煌々と優しく眠る春香を照らす。

 口を小さく開け呼吸する彼女。

 そのたびに動く彼女の胸。彼女は生きている。死んじゃいない、ちゃんとこの世界に存在している。でも、私達の今の輪の中には居ない。

 自然に春香の額に手を当て、その部分にかかっている髪を掻き揚げ、ゆっくりと髪をなでる。そして、彼女の頬を。

 そうしていると、急に目尻が篤くなって来てしまっていた。

 目尻から、春香の頬へ、ポツリ、ポツリと雫が滴り落ちる。

 泣いてしまっていた。

 いつまでたっても起きてくれない彼女を見てしまったから。

 私自身が犯してしまった罪を償えないままで居るから、翠にあんな目を向けられ続けているから・・・。

 他にも理由はあるでも・・・。

〈お願いっ、春香っ!早く目を覚ましてっ、今なら、今なら、まだ引き返せる。今ならまだ引き返せるから、今目覚めてくれれば、宏之を・・・、宏之を・・・、・・・、・・・てもいい。だからおねがいよっ!はるかぁぁぁぁあぁっぁぁあっぁ〉

 心の中で叫ぶ、春香の着ているパジャマを掴み彼女の胸の中で涙を流しながら。

 詩織はそんな私の肩に暫く手を置いていた。

「香澄、もう、それ以上お泣きにならないで・・・、わたくしまで泣いてしまいそうですから。春香ちゃんが目を覚ましてくださらなくて、悲しくお思いしますのは貴女だけじゃなくてよ。私も、柏木さんも、八神さんだって、貴斗だって・・・、でも一番辛いのは春香ちゃんのご家族の方、肉親の翠ちゃんたち・・・、ですから・・・」

 私達は調川先生に呼ばれ、春香の元を後にしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る