第30話 思わぬ本番の場所

 僕はそれからというもの、このモーツァルトのソナタにすっかりはまり込んでしまった。毎日のように奏佑の家に通い、一緒に練習をしては笑い合った。ピアノを弾くことが本当に楽しい。ピアノってこんなに楽しいものだったんだ。僕はやっと元のように音楽を楽しむ心を取り戻していた。


 もう、劣っている自分を気にしてピアノを弾けない、なんてことはなくなった。そんなことよりも、今、この瞬間に奏佑と心を合わせてピアノを弾けていることが楽しくてたまらなかった。息を合わせて、たまに丁々発止やり合って、互いに目配せしたりして、その掛け合いが楽しくてたまらなかった。


 僕らは楽しみながら、一週間でこの曲をモノにしてしまった。


「それで、コンサートの本番っていつなの? 場所は?」


僕は練習を終えた後、奏佑に聞いてみた。


「あ、うん。それが、実は今週末、東京でやるんだ」


おいおい、そんな遠い場所でやるなんて初耳だぞ。僕はてっきり地元の小さな市民ホールでやるものだとばかり思っていたのだ。しかも、今週末だなんて、そんな急な話ないよ。


「と、東京⁉ そんなの聞いてないよ。しかも今週末って」


「ごめん。でも、今週末、時間あるよな?」


「あ、いや。まぁ、あるっちゃあるけど・・・」


「よし! じゃあ、決まりな」


奏佑はいつも僕を驚かせるようなことばかりをしてくれる。でも、今週末のコンサート、なんだか楽しそうだ。僕はいつになく心がウキウキしていた。


 だが、僕が驚くのはまだ早かった。金曜日の夜には東京に乗り込んだ僕らは、久しぶりに一夜を共に過ごし、翌朝から「いきたい場所がある」という奏佑に付き合って東京の街に繰り出した。コンサートは今日の夜だと聞いているが、リハーサルもやらずにこんな遊んでいていいのだろうか。というか、リハのスケジュールも何も聞いていないんだよな。大丈夫なのかな、本当に。そうは思ったものの、奏佑と一緒にいると自然と大丈夫だと思えて来るのが不思議だ。


 一体どこに行くのか、田舎者の僕にはわからないような複雑な地下鉄の路線を乗り継いで奏佑はどんどん僕をとある場所にいざなう。だが、この路線、僕は見覚えがあることに気が付いた。そうだ。奏佑の通っていた前の高校じゃないか。僕はにわかに不安に駆られて奏佑の服の袖を引っ張った。


「ねぇ。奏佑、もしかして僕たち・・・」


「そうだよ。今日は芸大付属高校のピアノ科のやつらが出るコンサートの日なんだ。ちょっと覗いて行きたくてさ」


やっぱりそんなとこだろうと思った! 弦哉ともし鉢合わせでもしたらどうしよう。僕は不安でたまらなくなった。


「僕は外で待ってるから、奏佑だけ行って来なよ」


そんな不安がる僕を、


「心配しなくていいから。俺がちゃんとお前のこと守るよ」


と奏佑は優しく説得した。だが、いくら奏佑に守ってもらえるといえど、弦哉に会ったら僕はどう反応すればいいのかわからなかった。もし、また何かを言われたら・・・。僕はすっかりウキウキしていた気分が吹き飛んでしまった。


 僕は奏佑に手を引かれ、そのコンサートに乗り込んだ。奏佑は旧友たちに次々に話しかけられ、久しぶりの会話を楽しんでいる。しかし、僕はそれどころではなかった。弦哉に出くわさないか、常に周囲をキョロキョロ見回してはビクビクしていた。こっちの気も知らないで、呑気すぎだよ、奏佑は!


 僕は、隠れるようにホールの脇に座って俯いた。その時、


「律くん!」


と話しかけられて振り向くと、なぜかそこに彩佳がいる。僕は驚いて飛び上がった。


「彩佳! なんでここに?」


「津々見さんに誘われたの」


彩佳のその答えに僕は奏佑の方を振り返った。奏佑は頭をかきながら、


「いやぁ、せっかくだし、みんなで楽しく音楽を楽しんだらいいかなと思って」


と言った。


「はぁ? どういうこと?」


 だが、奏佑も彩佳もそれ以上のことを何も教えてくれなかった。僕は仕方なく静かに座って開演を待つことにした。プログラムを眺めていると、出演者の中に国本弦哉の名前があることに気付いた僕は、更に心を乱した。何て場所に奏佑は連れて来てくれたんだ。恨めしそうに見上げる僕の顔を見ても、奏佑はただ微笑むだけだった。


 コンサートが始まっても、僕は奏佑と彩佳に挟まれ、音楽を聴くどころではなかった。これからどうなってしまうんだろう。その不安ばかりが募る。弦哉の演奏も、僕は彼の演奏を聴くどころの精神状態ではなかった。弦哉を見た瞬間、あの彼に初めて出会った日のことがフラッシュバックし、まともに彼の姿を見ることができなかった。そんな僕の手を奏佑は優しく握った。僕の隣ですっかり恋人気分に浸っているらしい。本当にノー天気なやつ!


 何が何だかわからないうちにコンサートは最後の出演者の演奏になっていた。最後のプログラムは、何と、僕と奏佑が練習していたモーツァルトの『二台のピアノのためのソナタ』ではないか! しかも、演奏者のうちの一人はあの弦哉だ。一体、これはどういうことなんだ? 奏佑はどういう意図があってあの曲を一緒に練習しよう、なんて言い出したんだ? そもそも今日の僕らのコンサートって一体・・・。


 弦哉たちの演奏が終わり、客席から拍手が鳴る。僕はもう拍手どころではなく、奏佑を引っ張り、


「ねえ、これはどういうことなの?」


と問い詰めた。だが、奏佑はそんな僕の疑問には答えず、


「よし。行くぞ」


そう言うなり、奏佑は僕の腕を強引に引っ張って、ステージの上に駆け上がった。


「そ、奏佑!」


僕は叫んだ。会場がどよめく。半年前にこの高校を去った奏佑とどこの馬の骨かもわからないこの僕が、なぜかステージの上に立っているのだ。


「えーと、ちょっと皆さん、帰る前に一ついいでしょうか」


奏佑が会場全体に向かって呼び掛けた。どよめきが一瞬で静かになる。


「俺、もうこの学校の在校生じゃないけど、ピアノ弾かせてもらってもいいかな?」


その奏佑の一言で、僕はやっとこの事態が飲み込めた。一体、奏佑はどういうつもりなのだろう。こんな場所で僕と一緒にピアノを弾くだなんて。


「奏佑!」


僕は奏佑の腕を引っ張った。


「いいから、さっさとピアノの前に座れ」


奏佑は僕にそう言うと、勝手にピアノの前に座って僕にも早く座るように目配せした。ああ、もう! どうなっても知らない!


 僕はやけになってピアノの前に座った。だが、いざ弾き出すと、今までのゴタゴタなどまるでなかったかのように、僕はいつも奏佑と一緒にピアノを弾いていた時のあの楽しさが甦って来た。自然と顔がほころぶ。僕は奏佑と何度も笑顔でアイコンタクトを取ながら、ピアノを弾き続けた。モーツァルトの美しい旋律に身を委ねながら、大好きな奏佑とまるでコミュニケーションを取るかのように、互いの呼吸を感じ、掛け合いながら曲を弾いていく。


 あまりにも楽しすぎて、あっと言う間に僕らは第三楽章まで弾き終えた。その瞬間、この日一番の喝采が僕ら二人に降り注いだ。僕はまるで夢を見ているような気分でピアノの前に放心状態で座っていた。奏佑がそんな僕の方へ歩いて来ると、片手を差し出した。


「律、ほら、手を貸せ」


 僕は奏佑に手を取られて立ち上がると、聴衆に向かって何度もお辞儀を繰り返した。奏佑の手が温かくて、聴衆の前で奏佑と一緒にピアノを弾けたという事実も嬉しくて、僕は舞い上がっていた。だが、聴衆に頭を下げながら、僕はふと気が付いた。ああ、これで奏佑と何かをするのは最後なんだ。これで奏佑はこの高校に戻ってしまうのだと。

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