おまけ① 大人になる男達

 通勤ラッシュのこの時間はもっとも人間の浅ましい姿が見れる時間で、俺は喧騒とするホームを辟易とした気持ちで歩いていた。

 明け番で仕事に就いた今日、ようやく長い仕事が終わりそうだと言うのに、ホームでお客同士の喧嘩が勃発したことが俺のやる気を削いでいく理由だった。


 喧嘩現場に勃発し、知的そうなスーツ姿の中年男性と若人が揉み合いになっていた。駅員の仕事に就いてまもなく五年。今となればこんな光景、珍しくもなんともなかった。


「お客さん、そんなところで喧嘩してたら他のお客の邪魔でしょう。こっち来て」


 頭に血が昇った連中が俺の言葉に耳を貸すことは滅多にない。そもそも、駅員の言葉に耳を貸すような賢い人なら、公共の場で喧嘩なんて繰り広げないのだ。

 そんな彼らに浴びせる魔法の言葉は、警察を呼ぶよ、だった。

 ほら見たことか。今回の二人も警察の名前を出した途端、さっきまでの威勢はどこへやら。大人しく俺に着いてきてくれるようになったのだった。

 駅舎の事務室に連れてきて、ようやくゆっくり連中の話を聞きだせることになった。そして、そのくだらない喧嘩の理由に露骨なため息を吐いていた。


 喧嘩の理由は、二人が乗っていた満員電車の中で若人のビニル傘がサラリーマンの足をつついたからだそうだ。


 若人はそんなことをした気はないと言うし、サラリーマンは若人がわざとなんでも嫌がらせで俺の足を小突いたという。そうして堂々巡りになり、口論に発生し他の乗客に迷惑をかけた、と。

 そんな、くだらない話だった。


 ただこれも、この業界に勤めるようになってからは別に珍しい話でもなかった。


 地元にいた時は想像もつかなかったが、どうやらこの国の人は心が貧しい人らしい。寛容とは程遠い感情を持ち、些細なことに目くじらを立ててムキになる。

 その結果、周囲の目も気にすることなくこんなバカげたことで駅員に連れて行かれるだなんて、普通の神経なら恥ずかしそうなものだが……我が物顔な彼らを見る限り、どうやら当人達はそんな気は一切ないようだった。


「おい、駅員さん。もういいだろう。俺仕事があるんだよ」


 しばらく彼らの話を聞いて、挙句の果てにサラリーマンにそんなことを言われた。

 そもそも誰のせいでこんなことになったと思っているのか。

 貴重な作業時間をこんなくだらない客間トラブルに割かれる身にもなって欲しい。


「いいですよ。ただそれはつまり、あなたは今回一切この男の人に傘で小突かれていない、ということでいいんですよね?」


「はあ? そんなこと一言も言ってないだろう」


「じゃあ、何も解決されてない。私はあなた達が小競り合いを起こしたからこうしてあなた達の仲裁に時間を割かれた。私の仕事は、ここであなた達のトラブルが解決せずに解放することではないでしょう」


「時間がないんだよ、もういいよ」


 サラリーマンが呆れたように言った。


「だったら、最初からもっと寛容的な気持ちで電車に乗れば良かったのでは?」


「なんだお前。そもそもお前達が満員電車なんか生み出すからこういうトラブルが生まれるんだろ」


「だったら電車なんて乗らなければいい」


 そう言い切ると、サラリーマンは黙った。


「失礼ですが、あなたサラリーマンですよね。役職は?」


「……部長だよ」


「じゃあ、職場でよく現場から声が上がりません? 人が足らない。こんなに仕事をこなせない。なんとかしてくれ。

 あなた、そういう声に応えたことはありますか?」


 サラリーマンは静かだった。


「そもそも現場レベルにそんな話をして、どうにかなると思っていますか? 自分が出来ないことを他人にお願いするなんて、おかしいことだと思いませんか?」


 若人は、俺達の成り行きを不安そうに見守っていた。


「そもそも私が言いたいことはそういう話じゃない。私が言いたいのは……大人であるのなら、責任を取りたくないなら、自分のケツも拭けないなら、問題なんて起こすなと言いたいんです。

 そのために寛容的な心を持って欲しい。

 そして、問題を起こしたならどっちが悪いか徹底的に討論しないと駄目じゃないか。大人なんだから、同じ問題を二度と起こしちゃいけないでしょ?


 あなたも部下に、よくそういう話しているんじゃないですか?」


 そういうとサラリーマンは完全に黙りこくった。多分この手のタイプは後々お客様センターに文句でも言いに電話するかもしれないし、キチンと手回しをしておこう。

 そして、とにかくさっさとこんなくだらない話は終わらせよう。

 

 引継ぎ開始の三十分前くらいに、俺はサラリーマンに若人と俺に謝罪をさせることに成功し、ようやく今日最後になるだろう仕事を完遂させた。

 手短にお客様センターの知り合いに電話して、事情を説明して暇を潰そうとホームに出た。


 ……そう言えば。

 昨日から仕事場である地下にいたせいであまり気付くことはなかったが、今日は濡れた傘を携える乗客が多かった。

 多分、外では雨が降っているのだろう。


 傘、持ってきていたかな。

 雨の日は駅間トラブルも増えるが、もう一時間もすれば引継ぎも済んで一日の終わる俺は、既に仕事をこなす気はあまり残されていなかった。




 吞べえの先輩に付き合い居酒屋をはしごして、家に着いたのはすっかり陽も沈んだ夜だった。

 

 明日は休み。

 何をしようかと考えながらふと思い出すことがあった。


 俺はスマホを操作して、電話をかけた。


 相手は……。


「こんばんは」


『うっす。どしたい』


 宗太だった。


「ご機嫌いかがと思ってさ」


『普通かな、ボチボチ』


「宗太のぼちぼちじゃぼちぼちじゃねえからな」


 そう茶化すものの、最近変わりつつある友人は最早そんな言葉が当てはまらないような気がするのは気のせいだろうか。


 宗太と電話することは、あいつが大学に進学した頃から始まった恒例行事だった。電話で話す内容は大した内容ではなかった。テレビを見ながら話し、タバコをふかしながら話し、暇だからと世間話をする。そんなことばかりだった。それでも、一時は毎日一時間くらい電話をしていたこともあるくらい、あいつと話す時間は多かった。

 基本的に……というか間違いなく、電話をかけるのは俺から。どうせあいつなら暇だろうと高を括って、それからあいつには俺の愚痴の聞き手に回ってもらうのが基本的な電話で話す内容の形式だった。


 多分、いや俺なら、そんな愚痴電話を延々と聞くことは堪えられないのだが……その点あいつは、中々辛抱強く電話に応じてくれた。

 多分、基本的に物ぐさな性格をしているから、話半分に電話を聞いているのだろう。たまにあいつと電話をするとゲームのピコピコ音が聞こえることがあるから、多分相槌を打つ必要のある作業BGMくらいに思っているのかもしれない。


 ただそんなわけで俺もあいつのご好意に甘えてこうして今でも暇を見つければ電話をするのだが、最近のあいつは少しだけ変わったように思えた。


 そう思ったのは、今朝駅であったくだらない話をあいつに話し、あいつの所感を聞いた頃だった。昔であれば、思えばこんな話、あいつは大変だったねと流すような内容であった。


 それをキチンと聞いてくれて、共感を示してくれる。


 さっきのサラリーマンにお見舞いした大人感。

 いつの間にか宗太は……それを体現するような人になったのだなと思った。


 そして、そんな大人な宗太に甘えて愚痴をこぼす俺は、さっきのサラリーマンと変わらないガキだな、と自己嫌悪に陥っていた。




『……そう言えばさ』


「ん?」


 宗太が話を振るのは、滅多にないことだった。聞き手に回り、胸騒ぎを覚えたことでそんなことに気が付いた。


 ……そう言えば最後に俺が聞き手に回ったのは、宗太を無理やり飲みに誘い、駅のホームであいつの現妻の容体を聞いた、そんな時のことだった。


 今回も、嫌な話かもしれない。

 あいつはいつも、そう言う話を事の寸ででする、そういう男だった。




『ありがとう』




 ただ宗太は、やはりどうやら……大人になっていたらしい。


「んあ?」


 突然のお礼に、俺は間抜けな声を出していた。


「……何のお礼だよ」


『うぅん。……なんだろうな』


 電話口から、宗太の苦笑する声が漏れた。


『色々、大友さんにはお世話になっているので』


「それはこちらの台詞です。いつもありがとうございます」


 恐縮し畏まると、宗太の声は中々明るくならなかった。


『そう言うんじゃないんだよ。その……直近ではご祝儀くれたこともあったし、元はそれに関するお礼だったんだけど……思えば俺は、お前をないがしろにしすぎていた気がしていてだな』


 そうだと言うなら、自分のことを過小評価しすぎだ。どこに同性の電話に毎日応じ、気軽に一時間超の時間を空けてくれる奴がいる。


『……いつかは、お前に渚の件で、救われた。お前はずっと俺の憧れだったんだ。……そんなお前の姿を見て、誤解して曲解した運命を辿るところだったんだ。一生後悔するところだったんだ。

 それを正してくれたのは、憧れだったお前だった。

 何と言うか、これほど嬉しいことはなかったよ』


 珍しく饒舌な宗太に、俺は羞恥だとか誤魔化しだとか、そういう感情が湧くことがなかった。


 嬉しかった。

 小さい頃から宗太のことは知っていた。田舎で農家を営む両両親が交友関係にあったから、生まれる前、両者が母の腹の中にいた頃から俺達は出会っていたそうだ。


 小さい頃のあいつは情けない奴だった。だけどほっとけない奴だった。


 それからずっと一緒に成長し合った。確かにあいつを遊びに誘うのはいつも俺だったし、あいつは自己主張の薄い男だった。

 ただ、優しい男だった。

 あいつは誰よりも、優しい男だった。


 そんなあいつの人となりを知っていた。




 ……だから俺は、あいつとの繋がりを今でも大切にしているのだろう。


 誰もが手放しに羨む才ではない。

 でもあいつのそれは間違いなくあいつの長所で、誰にも引けを取らない、まるで宝石のように磨けば光る才だった。


 そんな才を持つあいつに、俺は憧れていたのだろう。


 


「奥さんの容体はどうだ?」


『すこぶるいいよ。そろそろ一旦退院しそうで、俺のスマホの暗証番号を調べることに最近躍起になっている』


「なんだそれ」


『退院した後、俺がいない隙を突いて調べる気なんだろう。まあ、見られても恥ずかしいものは何もないし、それで彼女の気が済むならそれでもいいかなって』


 それでも良いと思うあたり、中々凄いことを言っていると思った。


『……あぁと、ただ結構怒られることがあるんだよな』


「なんだよ」


『大友との電話だ』


「……は?」


『あの人、お前のことを相当敵視している。更には嫉妬もしている。女の子の後輩との電話は報告しても怒らないのに、お前との電話を報告するとすぐに怒るんだ。

 本当、怖い。


 だから、早く身を固めてくれ』




「余計なお世話だ」


 微笑ましい……? と、とにかく微笑ましい宗太夫妻の話をそれからもしばらく聞き、俺達は互いの明日を進むために電話を切った。

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