16話 信頼





またお会い出来て光栄だ。今回の話者も、五樹だ。



やりやがった。時子の奴、やりやがったのだ。


彼女は糖尿病を持っていて、先月病院で血糖値を測った時には、460くらいという、医者も焦り出す高血糖状態だった。


しかし1カ月間食べる物もろくに食べず、さらに毎日1時間のウォーキングを続けた結果、今月の診察で測った空腹時血糖は、155に下がっていた。


どのくらいなのか分からないという方に説明すると、空腹時の血糖値は70~110までが大体正常で、満腹時に上がっても、140までが正常な値だ。つまり、ほぼ基準値に近づけてきたのだ。たった1カ月で。


とにかく「血糖値を上げたくないし、血糖値が上がって倦怠感でぐったりするのも嫌」と食事をほとんど拒否し、その上きちんと運動を続け、薬も飲んでいたので、糖尿病はかなり改善された。彼女が常に感じていた体の怠さは、ほとんどなくなっている。


やはり時子の努力は並大抵ではないと俺は思う。この1カ月、ほとんど俺が出てこなくてよかった。


そして、さらに俺が良かったと思うことがある。




初めの頃は、時子は俺達別人格の存在に怯えて、「早くいなくなって欲しい」と口にしては拒否する事ばかりだった。


しかし俺は、長い間彼女の生活スタイルに合わせる事にチャレンジして、暴飲暴食をやめたり、なるべく彼女の意に反しないように行動した。


俺が目覚める前に彼女が散らかしていたテーブルの上を片付けたし、無茶をして疲労感が強かった彼女の体を眠らせた。


時々には、どうしても食欲に勝てずにたくさん食べてしまう事があり、それは今でも強く止められている。ちょっと不甲斐ない。




でも、時子にも俺が彼女を傷つけるつもりはないと分かってもらえたのか、それまで「別の人」と呼ばれていた俺が、最近では「五樹さん」と名前で呼んでもらえるようになった。


それに、彼女は俺の痕跡を全く怖がらなくなり、ツイッターに俺のつぶやきが残っていても興味を持って読んでくれた。


俺が彼女のツイッターアカウントに書き残した、「フラッシュバックに悩まされる事がなくなった君を見て、安心していますよ」という文言を見て、時子は「五樹さんは私を守ろうとしてくれてるみたいだけど、彼には、自分の人生の望みはないのかなぁ」と、俺自身の心配までしてくれた。やはり優しい子なのだ。


言ってしまえば俺の人生には、自分だけが得られるような望みは本当にない。時子に感謝されたり、時子と良好な関係を築くことも、俺は別になくてもいいと思っている。


あくまで、彼女の疲労をさらい、彼女に降りかかる災難を避けるのが、俺の望みだ。


悠の名前も時子は覚えてくれたようだが、悠は俺のように時子を理解しているわけではないし、勝手気ままに振る舞う人格なので、時子は悠に怯えている。


でもまず第一歩として、俺達別人格は彼女が破壊された“結果”ではなく、彼女を壊さないように現れた存在であるという印象を、時子は持ってくれたように思う。




そう。俺達はただ途上にあり、一時的にショックから主人格を遠ざけるため、そのショックを凍結させた者たちだ。


でも不思議なのは、その過去の記憶について、俺が嘆き続ける事は全くない。


俺は時子が友人の死に耐え切れなかった事で生まれたはずだが、俺はその友人について考える事はないし、むしろ時子自身の事を考えている。


悠はひっきりなしに「ママに会わせて」と言うし、桔梗は「この子が死にたいと願うなら叶えてあげたい」と口にする。彰は怒りを担う者として、とにかくいつもイライラとしている。


なぜ俺だけが、時子の記憶について無頓着でいられるのだろうか。俺には分からない。


ただ、俺には他の奴らと違って、やるべき事があるような気がする。


時子に伝える事。



君はすでに安全である。


君の過去はいつか「ただの過去」となり、君を大きく傷つける事はなくなる。


君は必ず幸福になる。



時子は今、少しずつ自分を幸福にしてくれた環境を受け入れつつある。


夫が口にする愛を罪悪感など感じずに受け止められるようになったし、あまりそこに疑問を差し挟まなくなった。とても良い事だ。


俺達の存在を拒否し続ける事は、多分彼女が良くなる道ではないから、俺だけでも認めてもらえたのも、良かったのだろう。


ただ、悠や桔梗などについてもすんなりとそれが行われるはずがないのは、分かっている。




俺は今、カロリーを低めに抑えた食事も終えたし、食後のコーヒーも楽しんでいる。ゼロシュガーのコーラなら自由に飲めるし、この生活も満足がないわけではない。


毎度お付き合い頂く方には感謝する。少しずつ、良い方に向かっているようだ。それではまた。





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