代名詞と弁護士



 一ノ瀬は、くたびれた背広姿の穏やかな顔つきをした男と一緒に戻ってきた。

 中肉中背の平凡なという言葉が似合う。しかし、彼の目をみて印象を修正した。その目は面白がっており知性にあふれている。

 不思議と好感を感じる。


「倉方さんですね。イエス?」と、男はとぼけた表情で聞いた。

「Yes?」

「おおやっぱり、欧米で育った方は発音が違う。大学はベルギーで?」

「いえ、日本ですが」


 一ノ瀬が、あからさまに不快な表情を浮かべている。


「坂野上さん、ちょっといい加減にしてくださいよ」

「おいおい、一ノ瀬警部補。いい加減という言葉は、少しは無駄口を続けていいという意味かね? それともそれさえも全くダメなのか? 重ねて言及すれば何に対しての指定かを、うかがっておきたいものだ」

「それは……」

「また、代名詞だ。それはではなく、坂野上さんだよ」

「あのね、坂野上さん」

「言葉は正確に、わかりやすく。小学校で習ったかね。一ノ瀬警部補」


 一ノ瀬は渋面を作りながら、「全く、やってられない」と不平を口にした。


「今の言葉は独り言かな。もし、そうと仮定して、わたしに対する悪口であったならば、わたしの居ないところですべきであろう。君は失礼という言葉を知っているかな。ところで、倉方さん」

「はい」

「帰りましょう」

「えっ?」


 混乱しながら彼を見た。いったい何者なのか。


「いいのです」

「ちょっと、坂野上さん。困ります」

「さっきも言及したが、これは任意の取り調べということだ。ならば、倉方氏は十分に捜査協力をした。これ以上、この場にいる必要があるのかね」

「しかし、それは」

「代名詞の多い男だね、君は。それは、ちな、この『それは』は代名詞の多い男を指示している。更に言及するなら、君の『それは』は意味をなさない。なぜならば、君自身、僕に対する反論を先ほど論破されたばかりだからだ」

「だから、倉方さんに接見する許可は与えましたが」

「が? 否定語を使うとは何事か。なぜならば、君は先ほど、任意だと言った。違うかね? 任意とは倉方氏の意志によって、捜査協力を善意でしたということだ。そして、わたしは先ほど、帰ろうと彼女に述べた。彼女はいいのですか? と聞いた。つまり帰りたいという意志があるという推論が成り立つ。これは善意を持って言及している」


 坂野上は陽菜子に向かってニヤリと笑った。


「では、帰りましょう」

「あなたは?」

「申し遅れました。この、われら庶民の公僕である警察官が挨拶あいさつする時間を与えてくれませんのでね。わたしは紀伊国総合法律事務所のホープ、坂野上です」

「弁護士さんなのですか?」

「そう、弁護士さんです。ついでに言及すれば、あなたの弁護士です」

 当惑しながら「わたしの?」と聞いた。

「正確に申し上げれば、二時間程前に正式に依頼されました。では、一ノ瀬警部補、帰ります」

「いや」と、一ノ瀬は拒否しようとした。

「わたしは君に質問したのではない。まして依頼したのでもない。なぜならば、文末は『ます』で終わっていた。それ以上の質問は受け付けないという意味だ。では、倉方さん、行きましょうか」


 彼は陽菜子の腕を取ると強引に立たせた。あんぐりというのが、まさに一ノ瀬の表情だった。法律上、ここで帰っても問題はないということだろう。


「倉方さん」と、坂野上が小声で耳もとで囁いた。「彼が唖然としている内に逃げるが勝ちですよ」


 腕をつかまれたまま、坂野上弁護士に付き添われ警察を後にした。

 彼は建物の地下に行くと、いかにも年代物の車に案内した。車種がわからない。見た事もない車だった。


「いい車でしょ。ガソリンを振りまくので、エコとは正反対の車ですがね。スバル三六〇。大丈夫、まだ動きます」


 ギアチェンジが必要な車で、発進すると排気音がうるさい。アクセルとともに動き出したが、ガタガタしてシートのバネが堅く尾骨に響く。


「あの」と、大声で言った。

「はい」

「どういうことでしょうか」

「どういうことというのは、今回の弁護のことですか? それとも警察から逃げ出したことですか?」

「両方について、聞いています」


 彼は公道に出ると車を運転しながら、待ってというように手をあげた。


「オートマではないので、ちょっと待ってくださいよ。スロットルがね、優しくしないと、すぐエンコして……」


 今にも壊れそうな音を立てながら、スバルは走り出した。


「東雲氏から不適切な関係は忘却してくださいとメッセージを預かっています」

「東雲?」


 坂野上はニヤリと皮肉な笑顔を浮かべたが、何も言わなかった。先ほどの質問に答えるつもりはないようだ。


「彼は常に不適切だが。それにしても、奴から逃げ出したヒロインなら。正義のヒーローが助けるべきでしょう」

「ヒーロー」

「私のことです。ちな、不適切なのは東雲。が、あなたも大概ですな。警察がずっと張っているのも知らずに、不用意に自宅に戻るなんて。ホテルにいるべきでした」

「いろいろご存知なのですか?」

「だいぶ前から……、東雲から聞いてませんか? では、事務所に向かいますが、いいですね。これからの事をご相談をしましょう」


 壊れそうな爆音をたてながら、彼は皇居を横目に紀尾井町まで運転した。

 彼の事務所は紀尾井町の高層ビルにあった。スバルは地下駐車場に向かった。古い自動車やくたびれた背広とは裏腹に優秀な弁護士なのだろう。


「いま、この事務所の設置場所をみて、少し安心なさったね」と、まるで心を読んだように彼が言った。

「ええ」

「正直な方だな。ついでに言えば、警察で使ったホープという言葉は優秀だという意味です」

「そう思います」

「その、そうは優秀にですか、それともホープにつけましたか?」

「代名詞に、とても拘りがあるのですね」

「正確であることこそ、弁護士の命」

「そう……、それで、わたしの"そう"は曖昧です」

「つまり?」

「わたしは曖昧なことが好きなのです」


 駐車場に音をたてて車を止めると、「待っててくださいよ」と、言いながら急いで車を降りた。助手席の扉を開けてくれる。


「このドアは内部から開かないのです。なぜならば、依頼人が逃げるのを防ぐためです」


 思わず笑い出してしまった。平凡な外見とは裏腹に魅力的な男だと思った。


「一緒に来てください。この優秀でホープな弁護士が、全力で、あなたを守る手助けをしますから」


 地下駐車場から高速エレベータに乗って二十六階に上がった。


(つづく)

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