困惑する日
「肋骨下部から心臓に向かって、ナイフでひと突き……、ほぼ、即死だったと思います」
病院の青白い蛍光灯の下で若い医者はそう告げた。研修医のようで、傍らにベテランの医師が付き添っている。
「なぜ?」と、言葉を振り絞った。
「なぜといいますと?」
その答えがわからない。理不尽な感情が理由を求めて発した言葉に過ぎない。強いていえば、なぜ彼が刺されたのか教えて欲しいと思ったのかもしれない。
「なぜとは?」
若い医師が困ったように繰り返すと、隣の医師が彼の肩を叩いた。
「本当に残念です」と、ベテラン医師が落ち着いた声で言った。
「お辛いところを申し訳ございませんが、警察の方がお話を伺いたいそうで、あちらでお待ちいただいております」
三人の男がいた。五十代の男と少し年代の下がる背の高い男、それに若い制服警官。彼等が近づき、警察の誰々と紹介されたが、頭に入ってこない。
「ちょっとお話をお伺いしたいのですが。ご親族の方に連絡されましたか?」
「親族? 夫の……」
「そうです」
「彼、の、両親は他界しています」
「ご兄弟とか」
「義理の兄と姉が、つまり、母親の違う兄弟がいますが。もう何年も親交はありませんので。私は一度もお会いしたことがありません。連絡先も存じません」
両親になんと話せばいいのだろうか。この事実を知れば、母が感情が高ぶって泣くだろうと思うと
「折り入った話になりますので、こちらに来ていただいても」
年配の男はそういうと病院の待合室へ案内した。深夜の病院は静かで物音もない。
「夫は……」
「司法解剖をさせていただくため、これから施設に搬送させていただきます」
夫が路上で刺されたことを改めて突きつけられた。不思議なことに、それが事実だと思えなかった。さっきまで煙草を吸って、いつものように少し肩を
唇が震えるのを感じる。しかし、涙が出てこない。
「大丈夫ですか?」
誰かがそう言った。叫び声を上げそうになり、天井を見上げて両手で口を押さえた。息を整え、「大丈夫です」と言った。
「所轄警察署の一ノ瀬といいます。どうぞ、おすわり下さい」
背の高い男が自己紹介してソファを示した。彼は隣に腰を下ろした。ソファがその振動で揺れる。
「なにがあったのか、お話いただくことはできますか?」
陽菜子は頷いた。
「お名前は倉方陽菜子さん。ご主人のお名前は倉方玜介さんでよろしいですね」
室内の柱時計の音が耳障りだった。
「お二人は、なぜあそこにいたのですか?」
「なぜ? わたしの会社に近くて」
「つまり、それはご主人がお迎えに来られたということですね」
答えを求められていたが、声がでなかった。
「いつも来られるのですか?」
「いえ……」
玜介が迎えに来た理由を話さなければならない。彼は刺されたのだ。誰かに。そして、その誰かを陽菜子は見ていない。これは殺人事件の捜査で、被害者の妻だという事実に思い至った。
陽菜子は指を神経質に、そして小刻みに動かしていた。動きを止めるためには、かなりの努力が必要だった。
一ノ瀬はただ答えを待っていた。
「たまたま、わたしたちに、というより、彼はわたしに謝りたいと思っていたようで」
「なにをですか?」
「今朝、夫の携帯に電話したら女の子が出て」
一ノ瀬は次の言葉を期待して黙り、それから要約するように言った。
「それは、朝、ご自宅にいなかったという意味でしょうか?」
陽菜子は頷いた。
「ご主人の携帯に連絡されたのですね」
なぜ、彼は答えを期待しているのだろうか? なぜ、こんな質問に付き合っているのだろうか?
「ご主人はどちらにいらしたのですか?」
「知りません」
いったい彼の居場所を知っている人間がいるのだろうか。あの女の子は誰だったのか。そんな事実はどうでも良いことに思えた。頭を整理するために、あるいは悲しむために、一人になりたかった。
「よく言われている意味がわからないのですが…」と、一ノ瀬は言ってから、少し逡巡するように続けた。
一ノ瀬という刑事は人を感動させる何かを持っていた。こんな状況であってさえ、あるいはこんな状況だからこそかもしれない。夫と似ていると感じた、彼等は同じ種類の人間なのだと気付いた。
「つまり、ご主人は昨夜、ご自宅に帰らず、携帯に電話したら若い女性といて、そのことを謝りに、迎えにいらした。と理解してよろしいですか?」
彼は言葉を丁寧に一言ずつ区切って言った。
「ええ」
「では、会社でご主人とお会いになって、それからどうされたのですか?」
「自宅に帰るために、駅に向かって歩きました」
「喧嘩をされたわけではないのですね」
「喧嘩?」
その言葉に驚いてから、それに驚く陽菜子が普通の常識から考えれば変だということに気がついた。
「その、主人のことを、そういう風には見ていなくて、説明しづらいのですが」
「ご結婚して何年ですか?」
「十二年……」
「十二年ですか」と、彼は感心したように言葉にした。あたかも、それが大切なことのように。「十二年」と繰り返して、それから、何かを言いかけてから止めた。
陽菜子は滅多に感情的にならない。そんな風にしか生きて来なかった。だから、この永遠とも思える質問に、答える義務があるのかどうかもわからないが。もし、これが母であったらと思った。おそらく、母なら夫を亡くしたばかりでと怒鳴っているだろう。
「まだ、お話が続きますか?」と、聞いた。
「もう少し、深夜まで申し訳ないのですが。記憶が鮮明な内にお聞きしたいのです。今後の捜査の助けになりますので」
「わかりました」
「ちょっと、コーヒーを買ってきて」と、一ノ瀬は指で二つと示しながら、警官に言った。
彼はうなずくと待合室を出ていった。自販機で缶が落ちる音が白々しく響いた。
(つづく)
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