砂漠渡りと長月

錦魚葉椿

第1話

 国土のほとんどをしめる砂漠には大小無数のオアシスと町が点在する。

 数年に一度、街がそっくり消滅することがあった。

 人も建物もすべてが跡かたなく。

 地図を見誤るキャラバンが遭難する原因にもなっていた。

 おそらく魔物の仕業だろうと思われているが、どんな魔物なのか全く解明されていない。

 いつしか、人々は町が消滅すると「砂漠渡りにやられた」と言うようになった。

 だが、極まれに、その消滅から逃れるものがいる。

 消滅したひとつの街で多くてもひとりだけ。

 その生き残りも『砂漠渡り』と呼ばれる。

『砂漠渡り』は幸運の象徴であるとされ、それを囲う者は繁栄を約束されると言い伝えられていた。



「ザフィーラ姉上は少々気が強いが、情の深いいい女だと思うぞ」

 王太子の言葉に、男はにっこりとほほ笑んでいる。

 ほんの一刻前、彼はその縁談を完膚なきまでに拒絶していた。

「私にもお前を義兄とする覚悟はできているのだが」

「ありがたいことでございます。国王様と王太子様に心からお仕えする気持ちに変わりはございません」

 王太子は彼の仮眠用の寝台の上に座り込んで書類を読み始め、執務室に居座る様子を見せたので、男も一切遠慮をしない。

 大きな作業台机いっぱいに図面を広げて、次の離宮の都市計画図を引き始める。

 男の名はヤミル。

 家名は失われている。

 この地域の者とは質の違う、絹糸のような黒髪をしていた。

 肌もいくらか色素が薄い。

 すらっとした細身の体躯を飾り気のない古い官服で覆っている。身を飾るのは彼の身分をたどる証拠となった右腕の入れ墨だけだった。

 正確な年齢はわからないがおそらく王太子より5歳程度は年上だと思われている。

 彼は有能な官吏であった。

 特に都市整備に優れた能力を発揮している。

 幼いころに『砂漠渡り』となり、キャラバンに拾われて長い間旅をしたらしい。遠く海の町まで行ったことがあるそうだ。この国で誰も思いつかないような素晴らしい風景を作り上げる能力に長けている。街や建物を設計する能力だけではなく、キャラバンのネットワークを利用した資材を集める力、設計者や労働者を集める能力、また語学力。いずれも群を抜いていた。

 彼はどこの国に行っても大臣になる男だ。

 あらゆる勢力が彼を取り込もうと、彼の興味を引くものはないかといろいろな財宝や贈っているようだが、彼は受け取った金品類は国庫に納め、そこから次の都市計画につなげる荒業を繰り広げていた。

 国王ですらヤミルを確実に掌中におさめ、逃がさないために心を砕いている。

『砂漠渡り』であることを除いても。

 王女との縁談を持ち出したのも一度や二度ではない。

 十五人いるどの王女であっても、彼は娶ることが許されるだろう。


 ヤミルの執務室は小さな応接とその奥に壁面すべてが本棚になっている事務室の二部屋。

 彼はほぼこの部屋で生活している。

 ほぼ正方形の三方の壁の天井までうずたかく積みあがった資料。部屋の中心に大きな事務用の机と窓脇に簡易的な寝台があって、それが彼の私有する財産のすべて。

 もともとは政治的に失脚した重鎮の一人が軟禁のように押し込められていた部屋で、その重鎮が亡くなった時に、ヤミルは望んでこの部屋を賜った。

 珍しく彼が具体的に望んだことを国王は喜んで叶えたものの、この部屋は国王の部屋からもその他の大臣の部屋からも遠い、密談をするのに不便な場所にあった。

 誰の目にも止まらずに呼び出すことも、忍び込むことも、逃げ出すことも難しい場所。

 窓には格子を嵌め込まれている。

 ヤミルはこの部屋で静かに籠城している。

 空は次第に色濃くなり、落ちていく太陽の色が雲をバラ色に照らす。

「腹が減らないか」

「夕飯はいただかない習慣でございますので」

 ヤミルは紙から顔も上げずに答えた。

 日は落ち、薄暗くなった部屋にランプを灯す。

「何故、そんなに頑ななのだろうな」

 王太子の独り言に彼は答えず、静寂のなかに彼がまっすぐに線を引く音だけが響く。

「ザフィーラ姉上の嫁ぎ先が決まった」

 王太子は、ヤミルの反応を見逃さぬようまっすぐ彼を見据えて、それだけの言葉を叩き込んだ。

 線を引く音が乱れ、二秒後、再び線を引き直す音がした。

「姉上も二十をだいぶ越えた。嫁がねばならぬ歳だ。今日の打診が最後の機会だった」

 紙と黒炭がすれる音が続く。

 賢く強く美しい自慢の姉。

 ヤミルと引き合わされた幼い日から、姉がずっと思慕の念を抱いていることを知っていた。溌剌とした彼女がしおれた花のように泣き崩れているのをみて、どうしても一言言ってやりたくてこの部屋に来たのだ。

 無表情で図面を引き続ける。

「他に気に入った者がいるのであれば――――」

 王太子は作業台に掌をたたきつけたが、その先の言葉を飲み込んだ。

 淡々とひかれていると思われていた図面は、掻きむしるように黒く塗りつぶされていた。

 どのくらいの時間がたったのか、ヤミルが低く呻いた。

「私は何かを手に入れるのが恐ろしいのです」

 月明かりの陰影が格子窓から差し込み床に長く伸びる。

「世界は存外、簡単にすべて壊れてしまうものです。昨日と同じ今日が明日も続かないことを私は知っています。私が作る街も『砂漠渡り』の前には一瞬で消え失せる霧にすぎません。私は『砂漠渡り』に抗いながら、あれが再び現れた時には、今度こそ消える準備をしているのです」


「生き残ったことを幸運だとはどうしても思えないのです。消えたのが自分でないことを申し訳ない気持ちで生きてきたのです」

 筆で引いたような眉をわずかに寄せた。

 ヤミルは表情をとりつくろわず、無表情だった。


 ザフィーラは北の隣国に嫁いでいった。

 主だった臣下が輿入れを寿ぐ席で、彼女はヤミルに向けて高らかに言い放った。

「私にこれほど恥をかかせたお前には、誰も娶ることは許さぬ」

 ヤミルは失われた故郷の礼をとり、彼女の足元に両手をつき、額を床に押し付けて深く深く身を伏せた。

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