第二話 おはよう、私の先生



 私は足音を忍ばせて先生の書斎へ向かった。ふすまをゆっくりと開け、わずかな隙間からそっと部屋を覗く。

 先生はいつものように机の前で屈んでいた。腰が悪くなると伝えたのに、あいも変わらず背の低い机で執筆に励んでいる。床に散らばる原稿用紙を見る限り、今日の先生は作業がはかどってないようだ。


 例によって食事は要らないだろう。


 そう思いながらも、私は丸まった背中に見惚れていた。

 鈍色にびいろに染められた小紋こもんの着物。先生のこだわりで履く紺色のはかま。あまりくしを通さない癖っ毛。

 先生の服は常に和服で変わらない。

 しかし今は新聞配達の方から聞いた話によると、世間では洋服が流行っているようだった。加えて着物と洋服を合わせたようないきな服装が主流になりつつあるとも言っていた。

 かくいう配達員さんも、書生服なる最先端スタイルでめかし込んでいたのを思い出す。


 先生はお洒落しゃれしないんですかね。


 私は自身の菖蒲柄しょうぶがらの着物を眺めた。藤紫と素敵だが、先生の横に並ぶには少し物足りない気がする。


 お洒落しゃれをした先生と、頭から足元までめいっぱい身繕みつくろった私。

 並んで歩く姿は容易に想像できた。


「素敵……——ええ、素敵、ですけれど」


 ——きっと叶わないんでしょうね。


 先生が滅多に出歩かないからか、はたまた私が敷地外に出たことがないからか、想像通りにならないことが分かった。


 それでも口にするのは自身の勘を認めた気がして、ですけれど、で言葉を呑み込む。


「……失礼します」


 不意に物寂しくなり、私は苦悩する先生の背中を満足するまで眺めてから、ゆっくりとふすまを閉じた。


 が、すぐにぴしゃん!と勢いよく開く。


「ひゃっ!せ、先生!?」


 肩を揺らして振り返ると、先生が腕を組んで私を見下ろしていた。


 どきどきと鼓動が速くなる。

 身体が熱くなるのを感じ、感情に任せて先生の足にしがみついた。

 

「お、驚かさないでください!」

 

「別にそのつもりは微塵みじんもないが。ただ私のことを覗く不届き者がいるみたいだから、少し悪戯いたずらしただけだよ」


「いたずら……!?そ、それも驚かすって言うんです!」


「はっはっはっ。まあ、気にするな」


「気にします……ええ、気にします!今ので私の寿命が十年縮みました!なので先生は……」


 私を褒めてくださらないと、と言いかけて口を押さえた。


 危うく願望が飛び出るところだった。

 そんな図々しいこと、言えるはずがない。


 眉を寄せた先生を見て、慌てて取り繕う。

 

「い、いえ。その、ご無理はなさらずに……と言いますか、先生は無理なさらないように、ですね」


「はぁ」


「…………ぁ、えっと」


 一体私は何を言っているのだろう。泣きたくなる。

 案の定先生は眉を寄せて「理解不能」と言わんばかりの表情をにじませていた。

 足りない頭で全力で考えるが、私の思考は『逃亡』の一色に染まる。


「あ、お、お邪魔しました。私はまだ掃除が済んでおりませんので、この辺りで失礼致します。私のことは、お気になさらず」


 早く逃げ出したい。と言うか、逃げよう。


 脳内会議が一瞬で結論を出し、私は行動に移ろうとした。しかし、先生に「待て」と呼び止められて身体がぴたりと止まる。

 私の身体は都合が良いから、先生関連を一番に優先してしまうのだった。


 まぁ、止まって後悔はありませんけど。

 先生と話せるのが、今の私の一番の楽しみですから。


「は、はい」

 

 強気に考えながらも、私は先生の方を振り向く。先生は首を傾げてからしゃがみ、私に顔を近づけた。

 ずいっ、と寄せられる先生の端麗なお顔。

 緊張で息が詰まった。


 それに、これは……あの、とやらができてしまう距離では……!?


「せ、せんせ?」


「……待て、動くな」


 先生はあくまで真剣な顔で、じっと私を見つめている——それこそ、穴が空きそうなくらい。

 私が我慢できずに目を逸らしたところで、先生が身を引いた。


「よし、取れた」


「え、っと。取れた……?」


「ほら」


 先生が少しだけ手のひらを開くと、小さな蛾が手の中で羽ばたいているのが見えた。

 先生は得意げに口角を上げる。


「お前の背中から飛び立ったんでな。早く逃がすには捕まえた方が手っ取り早いから引き留めた。すまんな」


「いえ、いえいえいえ……」


 私が動揺してるのに、当の先生は全く気にせず立ち上がった。


 ……先生にとって、私との触れ合いはお遊びなんでしょうか。そもそも、私には魅力がないんでしょうか。


 きっと先生は鈍感なだけ。でも、もしも私に好意をお持ちじゃないなら——そう思うと居ても立っても居られず「あの」と私は先生の袖口を引っ張った。


「わ、私、てっきり先生が私に、その……あの、私に……」


 自分から言うなんて恥ずかしい。

 はっきり言わなきゃ、と思えば思うほど体温が上がる。

 でも、私があまりに渋るから、先生は不満そうに口を曲げる。一度は私に向けた温かな視線が、冷たくなっていった。

 

「何が言いたいんだ、お前は。はっきりと言え」


「は、はい。わ、私っ。失礼ながら先生に、せ、せせ、せっぷんなるものをされるかと思い、つい身構えてしまいましたっ」


「な……」


 よしっ、勢い任せに吐き出せました!


 謎の達成感を味わうも、徐々に興奮と羞恥に呑み込まれる。

 顔が熱い。とても熱くて、茹で蛸になってしまいそう。でもとりあえずは先生の反応が怖くて、ちらりと目線を上げた。


「お前、それは……——」


「もっ、申し訳ございません。言われずとも自覚しております……大変、申し訳ございません。私は下品な女です……」


 絶句する先生を見て、私は不相応な己の失態を恥じ、頭を下げる。

 先生に今以上に失望されるかもしれない。

 もしかしたら、私は不必要と切り捨てられるかもしれない。


「…………先生?」


 しかし、数分経っても先生からの反応はない。

 恐る恐る顔を上げると、先生は片手で顔を覆い、呆れたように首を振っていた。


「……はぁ、もう良い、今はもう良い。さっさと向こうへ行け。顔も見たくない」


 深い溜め息を吐き、蛾を掴んだ手でしっしっと私を追い払う先生。


 雷が落ちたようなショックに私は項垂れるが、斜め下から先生の隠した顔がチラリと見えた。

 お顔は少し赤くて、目が泳いでいる。歯痒そうに口元を引き締めてもいる。


 まさか……!


「——!」


 私は声にならない歓声をあげた。

 初めて見た、先生の表情。


 これは。








 ————まさか照れているのでは?

 あの、先生が。恋愛にうとい先生が。

 ……私の言葉で照れているのでは……?


 確証はないが、それは不思議で、ふわふわとした感覚だった。これが「浮かれる」気持ちかもしれない。


 ですが……もし先生が照れているなら、私は——。


 呆然と先生を眺めていると、先生は私をきっと睨み、ふすまの引き手をがっしり掴んだ。


「ほら、さっさと行け!」


 そして強い口調で言い放つなり、先生はふすまを勢いよく閉めた。


 まるで照れ隠しみたいじゃないですか。

 

 と、言うことはもちろんできず、私は先生の書斎を後にした。ふすまが開くことを期待して何度も振り返ったが、書斎からは物音一つしない。 

 でも、私はご機嫌に口笛を吹く。意外な先生の姿があまりにも素敵だったから。


「やっぱり可愛いです、先生」


 ……口には絶対できませんけど。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る