第7章 それぞれの戦い

36、ブユの石板

「ポリンチェロ」


 エシルバが呼び掛けても彼女は目を覚まさなかった。長かった髪は首元でザックリと切られ、制服はヨレヨレだ。ナジーンの後ろには恐怖で身動きができないリフとカヒィ、ジュビオレノークが見えた。誰一人、目の前の女に逆らおうとする者はいなかった。


「彼女になにをした」エシルバは冷静に話し掛けた。


「安心しなさい、少し眠ってもらっているだけだ。君の心を揺さぶるという目的には十分役立ったよ。私は君が長く閉ざされた道を開くと信じていた」

 ナジーンは微笑を浮かべながらいつもの調子で言った。


「道?」

「大樹堂のどこかに隠された、ブユの石板へと通じる道を」

「じゃあ、やっぱりこの先に石板があるっていうの?」

「その通り。長い間鍵の持ち主が現れなかったのは、われわれにとって不運なことであった」


 ナジーンは「われわれ」という言葉を強調して言った。


「じゃあ、あの手紙も、ポリンチェロを誘拐したのも、全部あなたがやったことなの?」ナジーンの整った顔には何の焦りも浮かんでいなかった。

「すべては私がしたことだ」

「僕らにうそをついていた。あなたの正体は……ジリー軍のメンバー、そうなの?」


 すると、ナジーンはニタリと不気味な笑みを浮かべた。


「でも、使節団に入る前は対ジリー軍防衛課で働いていた。どうして!」


「ジリー軍のメンバーである私にしてみれば、防衛課で働くことは非常に都合が良かった。使節団へ編入になったのは、少々私が知り過ぎていたせいもある。防衛課のある男が私を疑い始めてね。逃げるように部署を離れたわけさ。使節団ではそれなりに地位と名誉のある称号パナン=シハンに任命された。

 エレクンはジグが再びパナン=シハンの座に就くことを望んでいるようだったがね、私に言わせてみれば彼は過去の英雄だ。今さら彼を使節団に招き入れるなど許されることではない。私がシハンだったらそうしていたところだよ」

 ナジーンはそれだけのことを一切の間もいれずに言った。


「シハンはもういない。この使節団のどこにも!」

 リフが叫んだ。


「なににおびえているの?」エシルバは冷静な口調で言った。「リフの言うとおりじゃないか。あなたが恐れるシハン=グリニア|ソーソは10年前、姿を消した」


「私がおびえる?」ナジーンはあざけ笑った。


「あなたはパナン=シハンに納まるような器じゃない。ジグの方がふさわしいと、この僕でも分かる」


「あの男のことはどうでもいい」

 ナジーンは拳をギュッと握り締め、そのせいでポリンチェロの腕に爪が食い込んだ。


「その子を離せ」

 ジュビオレノークが声を上げた。


「ノルクスの息子か」

 ナジーンは冷酷な笑みを浮かべたまま彼のそばに寄った。長い指先を顎に当てられたジュビオレノークは恐れを悟られないようににらみつけた。


「かわいらしい子犬さながら使節団の番犬とでも言おうか? そしてこちらはオヌフェの息子。それで? こっちの生意気そうながきは機械オタクのカヒィくん。私はてっきりエシルバだけが迷いウサギのようにノコノコ足を踏み入れると思っていたが、とんだ誤算だった。だが、こんな子ども2人、小さな子バエにすぎない。大きなタカ一匹入れずに済んだのが幸いだよ」


「あなたは卑怯だ」エシルバは言った。


「卑怯な人間など、この世にあふれ返るほどいる。第一、君の父親がそうだったのではないか? 君にとっては憎たらしい存在であろう。だが、私にとっては最高の人だ。あの方ほど素晴らしい人はいない。私は彼がここで頭角を現したそのときからその人間性のとりことなった!」ナジーンは生き生きと語った。


「世界を壊そうとする人間のどこが素晴らしいの?」エシルバは言った。


「世界を壊そうと?」ナジーンの目には嫌悪さえ浮かんでいた。「違う、違う。そんな単純な話ではない。あの方は世界を創ろうとしているのだ。破壊はその過程の芸術にすぎない。みんなジリー軍のことを誤解しているんだ。われわれは世界に真の平和をもたらそうとしているだけなんだよ」


 その言葉は狂気じみていて、刃物のように鋭くエシルバの心に突き刺さった。


「そもそも破壊と創造は紙一重だ。世の中には破壊を非難するやからが多過ぎるのだよ。君の周りにいる人間は恐らく全員その部類に入るだろうね。君の師も――」


「なにがおかしい、なぜ笑う」ジュビオレノークが言った。「ジリー軍はこの世にあってはならない違法国家だ」


「残念だ。まぁ、無理もない。ジリー軍の崇高な美学など君たち子どもには理解できないだろう。ブルウメイスイ島は人々を救う国なのだよ。この腐りきった街を見たまえ。弱い者は冷酷な扱いを受け、強く権力のある者だけがのし上がれる格差の連鎖が続いている。だが、われわれ軍の統領ガンフォジリーは、弱い者にも強い者にも、同等のチャンスを与える」


「うそだ! 平気で人を殺すような人間の集まりでしかないじゃないか!」ジュビオレノークが憎しみのこもった声で訴えた。


「あと、頭のおかしい連中もね」リフが付け足した。


「最低だ」

 エシルバは静かに言った。


「これはこれは、私の敬愛するお方の息子から! まぁ、最低の王冠を頂けるのも悪くない話だ。この子を救いたいと思うか。それなら、ガインベルトとバドル銃を捨てるんだ」


 エシルバはポリンチェロの顔を見て、仕方なく腰に着けていたガインベルトを遠くに投げ捨てた。それを見てリフとカヒィ、ジュビオレノークも従わざるを得なかった。ナジーンは満足げにうなずいた。


「ガインベルトもバドル銃もない。さて、一体君たちになにができるというのだ。え? 哀れな子ウサギたちよ」


「これじゃあ対等じゃない」カヒィは言った。


「私はどんなことでもする」

 ナジーンは意地悪げに甲高い声でそう言い、エシルバの怒りを誘った。しかし、エシルバは聞き流して過ごした。


「さて、そろそろ始めようか。あまり時間がない。奥に進むんだ」

 ナジーンは真冬の大海原よりも冷たい目でエシルバたちをねめつけた。彼女は飽きたように意識のないポリンチェロをジュビオレノークとリフに預けると、エシルバが進もうとしていた通路を指差した。エシルバたちを先に通すとナジーンはその後ろに続いた。


「コンパスの針を見てごらん」

「どうしてそのことを?」


 ナジーンがふいに知っているはずのないことを言うのでエシルバは警戒した。金のコンパスを見てみると、針はこの先を真っすぐに示していた。


「その針はブユの石板がどこにあるのかを示している」


「そ、それじゃあ! そのコンパスを届けたのはあんただったのか」

 リフがどぎまぎしながら言った。


 ナジーンは自分のポケットから“銀”のコンパスを取り出してみせた。


「まるきり僕のと一緒だ……」


「そう、これは星宝具と呼ばれる古代ブユ人がつくりだした――いや、ブユが人につくらせた代物だ」

「なんだって? そんなものをどうして持っている」ジュビオレノークは言った。


「そうか」ふとリフが恐ろしい口調で言った。「数年前、古代ブユ人が拷問にかけられたって事件があったろう? そのときに墓が荒らされて、中から財宝が盗まれたって。それが、このコンパスだったんだよ」


「なんてことを」エシルバはショックのあまり嫌悪を顔に浮かべた。


「しかし、感謝してほしいくらいだ。シクワ=ロゲンより先に手を打ったというだけの話、この道具は元々彼らの探し物だったのだからねぇ。この二つのコンパスは連動しているんだ。ここまで来られたのも、エシルバ、君がそのコンパスを手にしたからなんだ」


 まんまとやられたと思った。全ては最初から計算済みだったわけだ。


 程なくして4人は異様な静けさに包まれた巨大ホールへ出た。ナジーンの携帯灯がうんと高く飛んでホール全体を照らし出した。そこには塗り壁のように分厚く縦に長い岸壁がそびえ立っている。あまりにも大きかったため、最初はそれがただの壁にしか見えなかった。


 ナジーンは感動の声を上げながら中央にある巨大な石に歩み寄った。


「見たまえ、これがブユの石板だ。あぁ! きっとそうだ、間違いない。どれほどこの日を待ち望んだか。実に興味深い。ブユの暴走に関する記述が書かれている大昔の石板だ。破壊もせずに残しておくとは。シクワ=ロゲンはなんとも頭の悪い連中だ。君にしか読めない文字だ。さぁ読みたまえ。口に出して。君は私なんかよりもずっと賢い。さぁ、なんて書いてある?」ナジーンは優しくおだてた。


 そんなことよりも、エシルバは石板の大きさに全意識を持っていかれていた。まさか、ここまででかいとは予想にもしていなかったからだ。しかし、ナジーンが言う文字は石板のどこにも書かれていなかった。それどころか、石板はくぼみ一つないまっさらなキャンバスのようで、これがうわさに聞いていたブユの石板だとは思えなかった。


「なにも、読めない。なにも見えない」

「そんなわけがない。君には見えるはずだ、なんて書いてあるんだ」

「文字なんてないよ!」


 エシルバが困惑して言うとナジーンは沸騰したヤカンのようにイライラし始めた。あぁ、この怒り方は尋常じゃない。エシルバは直感的に命の危険を感じ取っていたが、ここで弱みを見せれば相手の思うつぼだ。


「星に選ばれた者だけが読める文字が、あるはずなんだ」

 その言葉から若干の焦りが感じられた。ナジーンでも知らないことがあるということに、エシルバは少しだけ安心した。すると、彼女がするりとエシルバの腕にからみつき、石板の前に立たせ、読むように促した。


「君にできなくて誰にできるというんだ」

 ナジーンの目が攻撃的に変化し、エシルバの肩を爪が食い込むほど強くつかんで揺すった。「よく見るのだ。石板にはなんと書いてある?」


 エシルバは悲痛に顔をゆがめてもう一度石板を見た。その間ナジーンがエシルバの右手をがっしりつかんで鍵の文様をジッと見つめた。「私の目を誤魔化せるとでも思ったのか」そうブツブツ言い始めた。そのとき、エシルバの右手の甲が焼けるように熱くなり始めた。


「エシルバ」リフが心配そうに駆け寄ってきた。「エシルバから離れろ!」

 ナジーンはリフを地面になぎ払った。


 エシルバはナジーンから離れ右手を押さえて悶え苦しんだ。


「立て!」


 ナジーンはエシルバを強引に立たせ石板に頭をグイグイ押し付けた。エシルバは必死に抵抗したが、大人の男の力は驚くほど強かった。それでもエシルバはなんとか彼女の手から逃れ息を切らしながら膝に手をついた。右手がズキズキ痛む中、石板を支えになんとか立ち上がった。


「わっ!」エシルバは不覚にも叫んでいた。

 右手を泥に沈み込むような感覚が襲い、気が付くと右肩辺りまで石板がエシルバのことをのみ込もうとしていたのだ。


「助けて!」

 立ち尽くすナジーンの横を通り抜け、リフがエシルバの左手を力ずくで引っ張った。

「このままじゃエシルバが石に食われちまう!」

 リフは自分で言っている言葉が意味不明だとは思いながらも、引っ張る力を緩めなかった。カヒィもすかさず手を貸した。「ジュビオ! 君も力を貸してくれ!」


 カヒィの悲痛な声を聞きながら、ジュビオレノークは数秒間ポリンチェロのそばで動けずにいた。

「お願いだ! 頼む!」


 ついに動いたジュビオレノークはリフと力を合わせてエシルバを引っ張った。しかし、3人の力で引っ張ってもエシルバの体は石に埋もれたままびくともしなかった。このまま石に張りつけられたまま人生が終わってしまうのだろうか? そんな絶望感が襲い掛かったとき、石板の表面がトクントクンと気味悪く波打ち始めた。


「この石、生きているっていうのか!」

 ジュビオレノークが正気を失いそうなとき、リフとカヒィは波が天井から壁、床にまで伝染していることに気が付いた。


「まるでここは心臓の中だ。全部が動き始めた」リフは言った。

「いいか、パニックになるな。冷静になろう」

 カヒィは汗を拭いながら言った。


「目覚めたんだ」ナジーンは笑顔をにじませた。


 先ほどまでまっさらだった石板の表面も水面のように波打ち、やがて大きな三つの円が三角形状の位置に浮かび上がり、円の中に見覚えのある三体の生き物が現れた。上部の円には2頭の獣スワシとレシン(アマクの守護者)。左下の円には千の眼を持つマスチュート(海底の守護者)。右下には腕を持つ大蛇アカチュラ(地底の守護者)。


「見たまえ、三大界の守護者たちだ」ナジーンは芸術作品でも鑑賞するようにうっとり声を漏らした。


 3体の守護者を中心に、その後も石板の絵は変化し続けた。それぞれの円を回るようにして三つの太陽が現れ、石板の一番上には半円の中で口を広げる三つの首を持った鳥の絵が出現した。


「動きが止まった」リフは周囲を見渡しながら言った。


 埋まっていたエシルバの体は軽くなり、すぐさま石板から離れることができた。右手は圧迫されたせいか真っ赤に腫れていた。


「よかった! 石板の中に消えちゃうかと思ったよ!」


 リフは胸をなで下ろしながら言い、カヒィはエシルバを支え起こした。


 エシルバは石板がよく見える位置まで下がってその全景をまじまじと見つめた。これを古代ブユ人がつくった? そんなはずがあるだろうか。だって、これらの模様はたった今、どこからともなく現れたのだから。


 ナジーンが左手の袖をまくり、腕にくっきりとつけられた目の文様を石板に掲げた。それは、エシルバとリフがトロベム屋敷で見た炎の目とまったく同じ形をしていた。ナジーンはいとおしい表情とうっとりした目で自分の腕を見ると、ぶつぶつ聞いたこともない言葉を話し始めた。


「なにを話しているんだ?」リフが漏らした。


 すぐそばでゴソゴソ動く気配がして振り返るとポリンチェロが目を覚ましていた。ジュビオレノークが彼女に上着をかけようとすると、カヒィもちょうど全く同じタイミングで動作がかぶった。2人は一瞬ムッとしてにらみ合った。


 ポリンチェロは遠目に見えるナジーンを見た途端サッと顔を青くした。「逃げて! そいつはジリー軍の手下よ!」


「落ち着いて」

 カヒィは手のひらでジェスチャーしながら何度もそう話し掛けた。


「僕らもあいつに捕まったんだ。ここは大樹堂の地下深くだ。分かるか?」

 ジュビオレノークの呼び掛けにポリンチェロはやっとうなずいた。


「よかった、無事目覚めたみたいだ」リフが笑顔になった。


「ナジーンが君を誘拐して僕らをこの地下空間まで追い詰めたんだ。全てはそう、この石板を見つけるためにね」エシルバは言った。


「私のせいだわ」

 ポリンチェロは元気なく言った。


「君のせいなもんか!」リフは懸命に言った。

 ナジーンの腕にある目のマークを見たポリンチェロはドキリとしてジュビオの肩にすがった。


「あれはジリーマーク。私、あの男がマークに話し掛けているのを何度も聞いた。もうじき石板を見せられるとか、エシルバを利用するとか! 本当だったんだわ」


 エシルバが出方をうかがっているとナジーンがギョロッとした目を向けた。

「なにか分かったのだな?」


 エシルバは反射的に口をつぐんだ。


「そうか、言いたくないのか。でも君の口を開く方法ならいくらでも思いつく」

 ナジーンは猫なで声でポリンチェロの目の前まで踏み込むと、彼女をかばおうとしたジュビオレノークとカヒィを払いのけて彼女の顔を手で覆った。


「なにするんだ!」リフは起き上がりながら叫んだ。

ナジーンはさっきと同じ意味の分からない言葉をブツブツ言い始めた。彼の手が外された後、ポリンチェロは糸の切れた操り人形のように気を失って倒れた。ナジーンはポリンチェロから離れながら石板の後ろ側に回った。


「ポリンチェロ!」

 エシルバはポリンチェロを抱き起こして必死に名前を呼んだ。彼女の眉がピクリとわずかに動いたが目は閉ざされたままだった。


「違うんだ、全部僕のせいなんだ。君を助けたい。だけど、どうしたらいいのか分からないんだ」

 エシルバは無力な自分を恨みながら動かないポリンチェロに力強く話し掛けた。


「さぁ、来るぞ」ナジーンが言った。


 ある変化が起こった。ポリンチェロのつぶらな瞳がカッと見開かれ、白目の部分に血管が浮いて見えた。彼女は不自然に立ち上がってしばらくボーッと覇気のない視線を空中に向けていた。


「ポリンチェロ?」


 エシルバが恐る恐る尋ねるも返事はなかった。フッフッフッ――奥でナジーンの笑い声が聞こえた。ポリンチェロがヨタヨタ歩き始めた。なんと、手にはいつの間にか鋭い短刀が握られていた。エシルバは思わず後退りして首を横に振った。


「ポリンチェロ、君はそんなことしない」

 エシルバはゆっくり近づいてくるポリンチェロに呼び掛けた。


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