或る女の人生

只野夢窮

第一部 コンタミネーション

引っ越し、絶望、あるいはどんな小説にも付き物の舞台説明

 孤島がある。せいぜい数百人の居住者に、田んぼと二つの港。しかし一方は廃港になっている。あの災害の折に破壊され、それ以来修復の予算がついていないのだ。だから書類上では二つ港があることになっている。しかしもちろん書類上のことで、そんな港を使うものはいない。

 さてこの島というのは、シンプルに説明すると御椀のような形をしている。上陸して即座に目の当たりにするのは、高さこそ1,000mもないものの、極めて切り立っており、掴みどころもなく、まあいったいどうやって人がこの島に入植したのだろうというような拒絶の山々であり、港はその山の麓にピタリとくっついている。港から山を越えるために、平成になってやっとトンネルが通ったが、それまでは比較的傾斜の緩い道を、四本足の生き物のように慎重に進むほかになかった。

 そんな道をなんとかかんとか乗り越えてしまえば、内側には肥沃な平地がある程度、とは言ってもせいぜい二百人ほど養える程度ではあるが存在していて、そんなところにここの村人たちはたいてい田んぼなり畑なりを持っていて、自給自足しつつ暮らしていた。

 たいてい、というのはつまり、そうでない者も居る、ということである。

 この島のたった一人の教師は畑を持っていない。その教師の娘、高倉相根こそが、この物語の主人公である。

 高倉相根と言う人間を説明するには、その父親である高倉両馬から説明するほうがわかりやすい。この両馬と言う人間は、義務感の強い教師である。教育を自らの天命だと考えている。だから孤島の小中学校への赴任などというのは二つ返事で引き受けた。彼からしてみれば孤島の子供たちにもあまねく教育を行うというのはもちろん素晴らしいことだし、たった一人の教師となる、と聞いて、自分も一つの学校を丸ごと任されるほど信用されているのか、と意気に感じたということも多少はあった。そこで孤島に移住することを告げるといよいよ妻に見放された。前からの、自分の子供よりも他人の子供という態度についていけなかったのである。そこで妻は離婚し親権のために裁判を起こしたが、転勤という正当な理由があることや、専業主婦のために恒産がないことが不利だった。一人娘である相根は父親である両馬についていくことになり、自然この孤島に降り立つこととなった。それが相根の6歳のころの話である。

 6歳だから何が起きているか、朧気には理解している。好きな母と、学校の友人たちと、東京の豊かな環境から引き離されて、何もない無慈悲な孤島に連行されるのだと知った日には随分泣いて駄々をこねたが、それは当然ながら無益に終わった。彼女は自然豊かな秘境に隠遁するにはあと六十年は早かった。そして彼女は無力感と強烈なストレスを感じながらこの孤島の土を踏んだ。

 そんなだから、数少ない島の子供たちと仲良くなることなどできようはずもない。彼らは自然両馬の教え子たちにもなるわけだが、彼らと相根の間にはやはり見えない壁があった。教師としても父親としても両馬はそれをなんとか解消しようとしたが、そもそも原因が自分なのだからいかんともしがたい。そんな相根は学校の貧弱な学級図書(数十冊しかない)を友に、豊かな自然を忌み嫌いながら成長してきた。本に夢中になっている間は、自分が孤島にいることなど意識せずとも済んだ。しかし一旦読み終えてしまうと、雨の降った後の土の匂いや、ゲコゲコというカエルのおぞましい鳴き声、多すぎるセミのミンミンというよりはむしろミ゛ンミ゛ンというほうが正しいような騒音が聞こえてくるのであった。

 かといって相根が勉強熱心な子供であったかというとそれは間違いである。あまりにも退屈で刺激の少ない日常から逃げるためにという実用的な理由と、私はお前らのような田舎者とは違う、という精神的優越感のための傲慢な理由とで、彼女は真面目に勉強をしていた。だから他の島の子供たち、夏休みには宿題よりもカエルやカブトムシ、クワガタを取ることを好むような子供たちよりは勉強ができた。勉強ができたといっても別に感覚的なものにすぎない。同学年の子供は2人しかいなかったし、正確に理解度を測れるようなテストなど彼女の父親は作らなかった。そうはいっても、精神的優越感を得ようとした彼女を責めることが誰にできるだろうか。彼女の身に降りかかった不幸からすれば致し方のないことであったし、何より内心に留めて口に出さないだけ偉かったと言える。

 同じ小中他学年も含めた子供たちのほうでは相根をことさら暴力的に殴る蹴るということはなかった。なかったが、それはいじめないようにしようと考えたわけではなく、いじめるという概念がこの島になかっただけのことである。最初のころこそ、珍しい転校生と言うことで学年を問わず群がったが、相根の側にその気がないと知るや、ほうっておいて以前通りに遊ぶことにしたのだった。

 もちろん何事にも例外があって、彼女にしつこく構い続けた男子が一人いた。名前を白沖一郎と言い、相根の同級生であるのと同時にこの島の村長の孫であって、田舎名家である白沖家の跡取りであった。このような孤島に民主主義の学校たるご立派な地方自治なんてものはなく、だいぶ昔にこの島に人が入植して以来ずっと白沖家は名士として島を統べてきたのだし、戦後GHQが選挙システムを導入したところで、誰も白沖家に逆らってまで出馬しようとは思わなかったのである。まあ、日本の他所の地域だって似たようなものである。だから周りの人間はみな、一郎のことをいずれは村長となる人間だと考えていたし、一郎のほうでもおよそそのつもりでいた。しかしだからといって一郎が甘やかされた嫌な子供だったわけではないというのは当然書いておかねばならない。両親は適切に一郎をしつけたし、一郎のほうでも、自分の立場を笠に着て周りの人間に言うことを聞かせるようなことはなかった。かえって一郎は自分には責任があると考えるようになってきた。つまり白沖家の人間としていずれは島民をまとめなければならないし、そうであるならば、まずは自分と同世代の子供たちをまとめられるようにならないといけないと。彼はよく自分自身を運動によって鍛え、律し、同じ小中校の学友たちと年齢の上下を問わず遊び、そして彼らの間のもめ事にはよく気が付いて解決した。その上この島の人間には珍しく、自分の家に多少ある本を読みさえした。これはこの島では相根や両馬と並んで最上級の知識人であることを意味する。もっともその中には島民をよく統治するための秘訣やこの孤島の歴史を記した私家本などもいくらかは含まれ、本土で彼らが読んでいたような本とは少し趣が異なるのだが。ともかく、そういう人物なのであるから、一郎のほうからしつこく相根に話しかけるというのも、全く嫌がらせとかいう話ではなく、ましてや下心ではありえず、むしろ義務感からくるものなのであった。彼からしてみればこの島に住んだ時点で自分が庇護すべき民なのである。しかしこれが島育ちの彼の限界であるのだが、彼は相根が一人でいたいのだということを理解できなかった。否理解しても受け入れることはできなかったろう。彼にとって島民はみな仲良くするべきものであって、何かがあれば総出で協力して遊び、働き、死ぬべきものであった。それは何も一郎に限った考え方ではなく、この島の人間は大半そうであった。そこで幾度も相根を誘ったところで、もちろん出来る限り一人でいたい相根からしてみればたまったものではないし、その試みが成功することはほとんどなかった。

 両馬と一郎の関係性は極めて良好であった。両馬からしてみれば、ただでさえ面倒を見るのが大変な小中校の学年の異なる子供たちをまとめてくれるのは非常に助かったし、この島独自の風習や方言、行事、果てはこの子とあの子の親どうしが極端に仲が悪いという噂まで教えてくれる一郎が赴任直後にいてくれたことは助かるどころの話ではなかった。また一郎からしてみれば、孤島で教育を行うべく豊かな本土からわざわざ来てくれ、こちらの風習や方言になじもうとする熱心な教師は当然歓迎と感謝の対象であった。

 そんなわけでむしろ教師と生徒のほうがその娘よりも仲が良いというありさまであった。両馬と相根の関係は良好とは言い難かった。相根は両馬との会話を絶った。両馬は関係を良好なものにしようと何度も大自然に遊びにつれて行ったが、それは子供特有の相手の好意を慮らない強力な拒絶に遭うばかりであった。まるで老婆が親に連れられて渋々帰省した現代っ子に、お手玉を教えようとするようなものである。そこで両馬のほうがついに折れてしまった。両馬は自分にこう言い訳をした。なに、別に不良になってるわけじゃあない。反抗期がちょっと早く来ただけだ。家にちゃんと帰ってくるし勉強もきちんとしているし、そう困りはしないだろう。もちろん心の奥底ではそれが誤りだとわかっていた。母親や慣れ親しんだ土地から急激に引き離されたこと、それに対する抗議が何一つ受け入れられなかったこと、いささかの物的、心的な補填がなかったこと、それらに対する怒りと悲しみと嘆きと、成長過程の一般的な反抗期を同一視することは無論できない。しかし両馬とて新しい土地の風習に慣れ、住民に受け入れられつつ、一人で9学年も持たなければならなかったのであるから、その苦労を鑑みるに、両馬にも三分の理はあるとは言える。しかし親としての責務を十分に果たしたとは言い難い。

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