第2話 花嫁として

 アリシアが馬車でドラゴンの棲む山のふもとに到着したのは、日が傾き始めた頃である。

 いまが初夏で日が長いのは幸いだった。これから山の中腹にある洞窟へと目指して歩く助けにもなるからだ。


 留守でなければ、その洞窟にドラゴンはいるだろう。


 アリシアは花嫁衣裳の裾が土で汚れないようにしながら注意して歩いていた。

 べつにドラゴンが汚れた裾を見て何かを思う訳もないのだが、わざわざ難渋してでも人に不快な思いをさせたくないと思ってしまうのがアリシアなのだ。


「お嬢様、まことに心苦しいのですが、これより先はお一人でお行き下さりませ。我らが共にいるとドラゴンに敵対と勘違いされかねませんので……」


 従者たちと共に山の中腹まで来た頃には、空にはもう三日月が昇っていた。途中から松明たいまつを頼りに皆で進んできたが、どうやら彼らともここでお別れのようである。


「わかりました……ここまで共に来てくれてどうもありがとう。どうぞ皆さんお達者で」


「は、はい……どうか、どうかお嬢様も……」


「ええ、気をつけてお帰り」


 従者たちに言葉が無いのは当然である。アリシアはこれからドラゴンの花嫁とは名ばかりの、ただの餌になりにいくのだから。

 そんな人間にかけられる言葉など有りはしなかろう。


 相変わらず花嫁衣裳の裾を気にしながら、アリシアは松明を片手に暗い山道を独り進んでいく。

 すると突然目の前にぽっかりと口を開けた洞窟の入口が見えた。


 これでようやく運命に見放され、翻弄され続けた人生をおしまいにすることができるのね──


 そう淡々と思えてしまうなんて、どれだけこの世に未練がないのかしらとアリシアは少し驚く。

 そんな自分に苦笑いをしたあと、入口から中へと歩きだそうとしたのだが……


 なのに足がすくんで動けない。


 それは死への恐怖のせいではない。もっと単純で直近の恐怖だ。アリシアはいまこの入口の先にいるだろうドラゴンが、ただただ恐ろしかった。


 どれくらい動けずにいただろうか? いつの間にか松明の火も消え、時間の感覚さえも忘れて立ち尽くしていたアリシアに何者かの声が届く。


「誰か、そこにいるのか?」


 それは優しい声だった……


「俺に用があるのなら遠慮しないで入っておいで」


 人間のようで人間ではない声だ。おそらくドラゴンの声なのだろう。

 アリシアはあんなに恐ろしかったドラゴンであったはずなのに、その声を聞いただけで急に恐怖が消えて身体の緊張がとれたのが不思議だった。


 ドラゴンは魔法を使うと聞く。もしかしたらその声にも魔法がかかっているのかもしれない。

 だがいまさらそれが何だというのか。どうせ死ぬためにここに来たのだ。こうして身体が動けるようになったのだから、さっさと終らせてしまおう。それがアリシアの正直ないまの気持ちである。


 アリシアは何のためらいもなく洞窟へと入っていった。


「あの……私はアリシア・ロマーダと申します。領主の娘です。お邪魔してもよろしいでしょうか?」


「ああ、お入り。私はそこよりもっと奥にいるよ、いま灯りをつけてあげよう」


 ドラゴンとおぼしき者がそう言うと、洞窟内の岩肌がぼんやりと光りはじめる。

 これは魔法だろう。やはりドラゴンは魔法を使うのだなとアリシアは納得したのだが、さっきの声が魔法かどうかはもう考えてはいなかった。


「ありがとうございます。屋敷のランプより明るいのですね、それにとても綺麗です」


 アリシアはゆっくりと辺りを見回しながら奥へと進んだ。


「はは、そうだろう? 綺麗なのはね、岩に混じった水晶の欠片が光を反射しているせいなんだよ。俺はそれが気に入ってここに棲んでいるという訳なんだ」


「そうなのですね……」


 つまり私はこの水晶の欠片のせいでドラゴンの捧げ物になるという事なのかと、アリシアはそう思ったらなんだか妙に可笑しくなってしまった。


「ウフフ……」


「なんで笑うのかね?」


「いいえ、なんでもありませんわ」


「そうか、だが笑い声は好きだ……おっと到着したようだね」


 ドラゴンが言ったようにアリシアはいまドラゴンの目の前に辿り着いていた。白銀色をした鱗に覆われ翼をたたんで横たわる大きな身体は、幼い頃に本で見た恐ろしいドラゴンの挿絵によく似ている。

 

 なのに少しも恐くはなかった。


「はじめましてドラゴンさま」


「ああ、はじめましてアリシアさん。俺の名前はラフィンドルだ。ラフィと呼んでおくれ」


「わかりましたラフィンドルさま、あ、いえ、ラフィさま」


「うんうん、長い名前は呼びづらいからね。それで、アリシアは何の用でここへ来たのかな? 道に迷ったかい? それにしては花嫁衣裳というのは珍しいけれど」


 ラフィンドルはいかにも物珍しそうにアリシアを見ている。好奇心が刺激されたというところだろう。元来ドラゴンというのは好奇心が強い生き物だと言うが。


「珍しいでしょうか? ラフィさまのところにやって来る人間の娘はみな、この様な花嫁衣裳なのかと思っておりました」


「ははは、君は面白いことを言うね。それじゃまるで俺が何人もの花嫁を持っているかのようじゃないか」


「違うのですか? 私はここへ『ドラゴンの花嫁』として参ったのですが……」


 アリシアは念のために、和平を望む証として自分がここへ来た事を説明した。

 説明していくうちにラフィンドルの顔が驚きへと変わるのを見たアリシアは、何か自分が過ちを犯してしまったせいなのかと心配になったようだ。


「な、なんと言う事だ……俺はドラゴンとして千二百年は生きている。確かにこの国に留まるのは初めてではあるが、今までそのような慣わしに御目にかかったことなどは一度もないぞ!?」


「そうなのですか?」


「だいたいドラゴンに人間の花嫁というのが馬鹿げている。異種族間の婚姻はたまにはあるが、ドラゴンと人間とでは話にならなかろう」


「あ、いえ……それは」


「ん? それは、なんだね?」


 アリシアは自分は本当の花嫁ではなくてドラゴンの餌なのだと説明しようと思ったが、それを話すと何とも気まずい雰囲気になりそうで少し困惑する。


「はい、あの……つまり私はラフィさまへの捧げ物という意味で……」

 

「捧げ物?……あ、それはまさか……」


 こくんと無言で頷いてみせたアリシアに、ラフィンドルは大きな目を更に大きくさせた。


「なるほどな。かつてこの国に棲み付いていたドラゴンたちは、かなり程度の低い野蛮なものたちであったようだね」


 そして溜め息をつき、どことなく居づらそうにし始めたアリシアを気遣ってその声を和らげた。


「いいかいアリシア、ドラゴンにも色々な者がいるのだ。おそらくその低俗なドラゴンどものせいで、この国に悪しき慣わしが出来てしまったのだろう──だからね、君は俺の花嫁になる必要などないのだよ」


「ラフィさま?」


「確かに俺とて昔は人間たちと戦い、その命を奪ったこともある。それも決して少ない回数ではない。だが、あくまで戦う理由があってのことだ、ましてや人間を食べる為に殺すなど有り得んことだよ!」


「す、すみません……」


 少々語気が荒くなってしまいアリシアを恐がらせてしまった事に気づいたラフィンドルは、慌てて謝罪した。


「いやアリシアが謝ることはない、俺こそ恐がらせてしまってすまなかった」


「いえ、そんな……あの、それより先ほど仰った、私が花嫁になる必要がないというのは……」


「うむ、俺は花嫁などなくともはなから和平を望んでいる。アリシアよ、帰ってそう皆に伝えてくれぬか?」


 だが、アリシアはそれには応えずにただ黙って俯き続けた。


「どうした? なぜ黙っている?」


 ラフィンドルがそう訊いてもアリシアは黙っていた。

 その娘の心をはかりかねていたラフィンドルもまた、少し困り顔で黙っているしかなかった様であった。


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