海底トレイン 展望台前

Lie街

海の底へと続くトンネル

 毎日九時ちょうどに三番線に電車がやってくる。この電車は一日に二度この駅と、蔵直ぐらちょく駅、にだけ止まる。あとはただ、鉄の体をぐらぐら揺らしながら、海底約七千メートルの海へと潜っていく。

 私は静かな山中に暮らしているので、この駅に来るのにもバスで二十分ほど揺られないといけない。バスの中には誰もいない。運転手と私の二人きりである。全くウキウキしないドライブである。私はいつもこの古臭いにおいも駅までの辛抱と考えることにしている。

 だいたい、半分ほど来た時に窓の外に海が見える。太陽の光が反射して、きらきらと輝いて見える。波が立つ度に反射の具合が変わって、モデルか何かの写真撮影のようにも見える。私は目をつぶって、瞼の裏の残像を見つめてみる。そうしていると、いつの間にか駅の前まで来ているのである。

 バスを降りると、大きなモニュメントが見える。朝日を差すように伸びた円柱の上に、イルカやらアザラシやらサーファーやら海に関係のある生物の形をした小さな石像が乗っている。円柱から、地面に向かって知らない国の国旗が伸びている。

 あと、五分で電車が到着する。私は重たいリュックを背負いなおしながら、足早に改札に向かった。 

 切符売り場で高い切符代を払うと、急いでホームに降りた。赤茶けた古い車体は、もうホームに到着していた。


「速くしないと、乗り遅れる」


「エレーナ?あ、待ってよ!」


 エレーナは私に声をかけると、私を追い越して電車に乗り込んだ。

 車内はがらんとしていた。昔は六両編成だった電車もいまとなっては二両編成になっている。赤いビロードでできた座席に腰かけ、肘をついて顎を乗せた。

 エレーナは、人魚と人間のハーフだ。目が海のように青く、巨大な真珠みたいにつぶらである。普通、人魚にはヒレがあるのだが、彼女にはその代わりに足がついている。よく見るとくるぶしの辺りと首にも少し鱗がついていて、その鱗が胆礬の色味を纏ってそれこそバスの車窓から眺めた海のように光を受けて光るのである。

 彼女はその鱗があるがゆえに人類になじめず、その両足があるがゆえに人魚族になじめなかった。彼女はいつも長い靴下を履いていて、隠すように首を手のひらで覆うのが癖になっていた。

 ほんの数年前までそのような人魚・魚人差別が横行していたが、今となっては世間に受け入れられ、手のひらを反すように人魚・魚人を受け入れる体制が整えられてきている。

 エレーナは無口であるが、綺麗な褐色肌をしていて僕よりもずっと健康そうに見えた。

 ふと、窓を見るともう海の中に入っていた。水の中に入った日差しが、ゆらゆらと形もなく漂っていた。小さな魚が泳いでいるのが見えたが、ハタタテダイ以外の魚の名前はよくわからなかった。遠目にウミガメが見えた。注意してみると、海月が見えた。サンゴ礁や貝殻が張り付いてるのを見て、地上の岩は案外つまらないものだと感じた。


「朝ごはんは、食べた?」


 私はエレーナと何となく話したくなって、そんな風なつまらないことを聞いた。彼女は首を軽く横に振った。


「いつも、食べないの」と彼女は言った。


 彼女の声は水のように透き通っていて、水のように冷たかった。しかし、彼女の言葉は水みたいに、確かに生きていた。

 寡黙な人は、饒舌な人よりも多くのことを語る、という私の持論があるのだが彼女の存在はその裏付けになっているような感覚さえも覚える。

 水深が深くなるにつれて、いろいろな魚を見た。海がどんどん青く深くきらめきだして、海溝に近づくにつれてひらひらと雅な印象を受けた魚たちが、スタイリッシュにまた、凶暴性を増していくような印象を受けた。

 水深五百メートルを過ぎたあたりで、シロナガスクジラの鳴き声が聞こえた。ふわふわとした鋭い音が海の中に響いていた。

 九百メートルほど来ただろうか。辺りは、もうすっかり暗くなり車内の電灯が輝いていた。

 誰もつかむことのないつり革が所在なさげにゆらゆらと、外にいる海月のように独り言みたいに揺れていた。


「デメニギス」とエレーナはつぶやいた。


 私は車窓を見つめた。自分の顔がガラスに反射していて、その向こうに何かが光っているのが見えた。深海の暗闇に目が慣れてくると、その光の正体は一体の奇妙な魚だということが分かった。

 エレーナはあの魚のことを言ったのだろうと思った。


「初めて見た」と私が言うと、


「私も、久しぶりに見た」とエレーナは言った。


「魚は何が好き」と私が言うと、


「リュウグウノツカイ」と彼女は言った。


 私は案外べただなと内心思った。


「スイは?」


「メンタマクモかな。気味悪がる人も多いけど、目玉に触手が生えたみたいな見た目がシンプルで面白いんだよね」


 エレーナは軽く返事をするように鼻を鳴らした。

 深海はやっぱり静かでちらほら見える光る海月や、チョウチンアンコウのような近くで光っている深海魚を除けば何も見えなかった。

 ここはいつでも、夜のようであった。きっと、人類が火や電気を発明するよりも前の夜は、こんな風に光一つない闇が、目隠しをするように覆っていたのだろう。唯一、星がないのが寂しいと思ってしまうのは、私が空ばかり見て歩いているからだろうか。

 私はいつの間にか目を瞑っていた。眠気によるものではなく、海溝と瞼の裏の暗闇の区別がつかなくなったのだ。


『展望台前、展望台前、お降りの際は忘れ物に注意してお降りください。また、駅をお出になる際は、超耐圧潜水服の着用をくれぐれも忘れないようご注意ください』


 私が目を開けると車掌がちょうどそのようなことを告げた。この文章は車掌によって微妙に異なる。かっちり丸暗記しているものもあれば、後半の文章を読み飛ばすものもある。

 電車が少しづつ減速していくのがわかる。なんだか、まだ先があるのに旅が終わってしまうような感じがする。気になっていた漫画のシリアスシーンやバトルシーンが終わり、たいして展開のない日常編に突入してしまったような興ざめを感じる。

 ふと、エレーナの方を見るとエレーナの姿はそこにはなかった。

 私はあわてて立ち上がると、辺りを見渡した。エレーナは扉の前で静かに手招きをした。私は安堵のため息をついた。


『この電車は、三十分ほど停止いたします』


「三十分で帰ってこれるかな?」


 エレーナは殆ど誤差のような小さな動きで頷いた。私はリュックを背負って電車を出た。




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