8ー1 重ねる手、繋がる手(1)

「陽哉さんッ!!」

 勇刀が叫んだ瞬間。

 --パン、パン!と、乾いた破裂音がした。熱を含む一条の空気の流れが、耳たぶの横を掠め通り抜ける。勇刀は反射的に身を小さくした。

 刹那に、目の前で怯え震えていた陽哉の体が、弾かれ大きくブレる。目を見開いたまま、壁つたいにズルズルと床に伏す陽哉を目の当たりにし、勇刀はハッと息をのんだ。同時に陽哉の腕から解放された市川は、弛緩した体の支えを失った。ゆっくりと、時間の概念が無くなったと思うくらいの緩慢とした速度で、市川の体が陽哉の上に折り重なっていく。

 目の前で起きた、あまりにも一瞬の出来事。勇刀は拳銃を構えたまま、全身の筋肉を強張らせた。重い足を無理矢理引きずるように動かすと靴の先がコツンと何かに当たり、靴の中の親指にギュッと力が入る。嫌な予感しかしなかった。その〝何か〟を確認すべく、勇刀は目線を素早く足元に動かす。

「!?」

 勇刀の足元には、黒い大きな塊。次第にそれが黒い服を着た人であるとわかり、頭がキンと冷たくなる。勇刀の感じた嫌な予感が的中した。怒りややるせない気持ちが増幅し、勇刀の腹の底が熱くなる。

(……切田さんだ)

 ぼんやりとしたオレンジ色の灯りが、血の気を失った切田の表情と見開かれた目を浮かびあがらせる。背中に残る数個の銃創が切田の体に深く抉るような傷までもが、はっきりと確認することができた。その傷が意味するように切田の体は、勇刀の足先が強く当たってもピクリとも動かない。床に転がる陽哉と切田の生きる鼓動を感じない姿に、勇刀はたまらず唇をギュッ噛み締めた。

「……本当、余計なことばっかり、すんなよッ!」

「ッ!?」

 冷たい氷の刃の如く刺さる声。勇刀は咄嗟に振り返る。

二階の出入り口付近に現れた人影は、ぼんやりとしたぬるい光に照らされニヤリと笑う。その人物こそ--。

 市川を誘拐し、霜村や切田、陽哉の人生を狂わせたあの男。勇刀や遠野、サイバー犯罪対策課の皆が、血反吐を吐く思いで追いかけ追い詰めていた、あの男--佐藤ルカに相違なかった。

 ルカの左手には、横向きに握られた拳銃が見える。部屋の中で揺れる微かな光が、地面と並行に傾けられた銃口から立ちのぼる硝煙を浮かび上がらせ、ハッキリとその形状を現した。青白く燻る煙は、今まで目にしたことがないくらい美しい。無意識に、勇刀の目は儚く幻想的な煙でさえも深く焼き付けてしまった。陽哉をたった今撃ち抜いた拳銃に、何故か惹きつけられる。勇刀は捉われた思考を消滅するように頭を振ると、強く拳銃を握りしめた。

「銃を下ろせッ!!」

 勇刀がルカ叫ぶ。その声に反するように、ルカは右側に体を傾けてゆっくりと歩きだした。

「銃、だけでいいの?」

 インターネットで配信していたとおりの、癪に触る声と話し方。記憶に残る不快な声に、勇刀の全身の毛穴が泡立つのが分かった。そんな勇刀を煽るように、ルカは右手を高く掲げる。その右手には、刃先が赤黒く滑る短剣が握られていた。

(血だ……!)

 短剣の刃先からしたたる血に、勇刀は異様なほど寒気を覚えた。視線だけを動かし、周囲を確認する。この二階の部屋に立っているのは、勇刀とルカのみ。共に突入した遠野と稲本の姿を、確認することができなかった。湧き上がる怒りに、勇刀は思わず撃鉄を引いた。ルカに向かって銃口を構える。

「止まれッ!!」

「……あんたさぁ、誰に向かっていってんの?」

 真っ直ぐに拳銃を構える勇刀に、ルカはニヤリと笑って言った。傾き不恰好に歩いて勇刀に近づくルカは、左手の甲でゆっくりと口元を拭う。そして、無造作に短剣を大きく振った。刃先に纏わりつく赤黒い血が水滴となって飛沫ひまつする。その飛沫しぶきに、勇刀はたまらず顔をしかめた。照門と照星が重なる、照準。構える拳銃の一ミリも狂わない照準器の向こう側にあるルカの姿に、勇刀は間合いを保ちながら後退りをした。互いに拳銃を突きつけ合う緊迫した状況に、二人を包み込む灯りは、相反するようにあたたかい。あたたかなその光を纏い、ルカの様相が次第に明らかとなる。勇刀は絶句した。

「……おまえッ!?」

 黒い洋服を身につけているルカの右半身が、肉眼でも分かるくらいじっとりと濡れている。勇刀は反射的に目を凝らした。ルカの衣服の一部の繊維が放射状に解け、解けた部分からじんわりと血が滲み出ている。体を傾かせて歩くものの、ルカの表情は痛みすら滲ませていない。動きがままならないはずであるのに、どこか他人事に見えるルカに薄寒い恐怖を感じ、その戦慄が勇刀にのしかかる。たまらずゴクリと喉を鳴らした。

「しぶとかったなぁ、あのオッサン」

「……何、だと!?」

「一発、くらっちゃったじゃん。腹立つ」

 人の命など何とも思わない、さらには自分の命にすら無頓着と思えるルカの言動。ルカという存在に、改めて背筋が冷たくなった。違和感と焦燥感に手先が震える。勇刀の身に重く入り込む底知れない恐怖。負の感情を押し殺し、強張る筋肉を無理矢理に動かした勇刀は、ルカににじり寄った。

「どうして……こんなこと、するんだ!」

「……あんたに関係ある?」

「あるッ!! あるに決まってんだろ!!」

「はぁ?」

「仲間を……警察官を利用して、使い捨てて! どうして市川さんに拘ってるんだ!! いい加減にしろッ!!」

「言ったら……」

 ルカは、勇刀を挑発するように笑う。そして短剣を持つ右手を口に持っていくと、カリッと親指の爪を噛んだ。

「言ったら、市川さんをオレにくれる?」

「はぁ!?」

「市川さんをオレにくれたら、あんただけは助けてあげるよ?」

「……何?」

「オレは、嘘をつかないから」

 〝あんただけは、助けてあげるよ?〟と、ルカの言葉が、頭の中を刹那に巡る。

 勇刀のすぐ後ろを走っていたはずの遠野と稲本は消えてしまった。一瞬、想像した最悪の事態を裏付けるルカの一言。それは全身の血を沸騰させ、心臓が破裂してしまうほどの動揺を生んだ。途端に二人の安否が気になってしまう。

 目の前にいるサイコパス--。予想を遥かに超えるルカの一挙手一投足が、勇刀の心身を乱し集中を削いで、疲労感を助長させた。

(余計なことを考えるのは、止める!)

勇刀は下唇に歯を立て、汗ばんだ手で銃把を強く握る。

「ふざけるな……ッ!」

「ふざけてないよー? 正直、あんたらが悪いんじゃないか?」

「ッ!?」

「あんたらは嘘をつく」

 ルカは再び左手を横に傾けて、銃を地面と並行に構える。その銃口は的確に、勇刀があわせた照準の真正面に入り込んだ。点と点が線で繋がる互いの照準。引金をどちらが早く引くのか。一秒でも引き遅れることがあれば、どちからによって放たれた銃弾は、どちらかの頭が確実に貫くのだ。

 銃把をにぎる勇刀の手が、緊張を孕んで冷たくなった。拳銃を抜くとを良しとしない、警察組織の中。一体誰が、銃口と銃口が重なり合う尋常じゃない状況を想定しただろうか? 実践的射撃訓練でも遭遇することがないであろう。現状の逼迫した空気が、冷たい汗を勇刀の額につたわせる。一筋流れる冷たい汗は勇刀の体温を奪っていくようだった。一方、同じ状況下にありながらもルカの表情は涼やかで、信じがたいほど落ち着いてみえた。

 --ガチャリ。

 勇刀が、ルカが。ほぼ同時に親指で撃鉄を引く。弾倉が回る音が室内に重なって響いた。

「いつも、善人ヅラして。平気で嘘をつくんだ」

 ルカが一歩、勇刀の方に近づいた。

「シモムーだって、切田さんだって。ルナだって。たくさんの嘘をついて、結局オレを裏切った」

「……だからって! 殺していいはずないだろッ!!」

「殺さなきゃ、治んないでしょ? 嘘つきは」

「ッ!!」

 自分より、小さく華奢な男の雰囲気に気圧される。ルカが前に進む一歩に合わせて、勇刀が一歩下がった。間合いを保つのが精一杯な勇刀は、内側から湧き上がる極度の緊張に必死に抵抗する。拮抗した心身のバランスは、次第に勇刀の手先がカタカタと震えさせた。そんな勇刀を嘲笑するように、ルカはまるで新しいオモチャを見つけた子どものみたいに嬉しいそうな表情を浮かべる。

「市川さんは、違うの。嘘をつかないんだよ」

「……だからって!!」

「だからなんだよ」

「……」

「だから、オレ……市川さんがずっと……ずっと」

 にっこりと笑うルカの左手から、拳銃が滑り落ちる。

(暴発する……!)

 落ちる拳銃に気を取られた勇刀に、一瞬の隙がうまれた。カシャン--と、落ちた拳銃は暴発することなく、金属が擦れる音を響かせながら、床の上を滑る。ホッと安心したのも束の間、勇刀の目の前に突然、閃光が迸った。瞬きも追いつかない、ほんの僅か時間に。短剣を振りかぶったルカが、勇刀の目の前に入り込んでいた。

「うわッ!!」

 短剣の光がスッと、鼻先に向かって垂直に振り下ろされる。勇刀は咄嗟にその右腕を掴んだ。瞬時に間合いを詰め、面前に迫るルカがニヤリと笑う。

「!!」

 気圧されて咄嗟に身を引いた勇刀の右腕を、ルカが鋭く蹴り上げた。極度の緊張から指が離れないのではないか、と思うほど拳銃を強く握りしめ硬直した勇刀の手から、最も簡単に拳銃が離れた。金属の塊が弧を描いて飛んでいく。その着地点を確認する間もないまま、さらに容赦なく追い詰めるルカに勇刀は防戦一方となった。ルカが無駄のない動きで短剣を勇刀に繰り出す。そのまま、勇刀に体重をかけて、一気に襲いかかった。

 一瞬で発火した攻防の炎。どちらも引かない炎の塊は、互いの命の熱量をぶつかりあわせ、目には見えない火花をちらす。瞬間、不意に足元を掬われた勇刀がバランスをくずし、二人はドッと床に倒れ込んだ。

 背中から倒れた勇刀は、倒れた衝撃で息が止まった。しかし、ゆっくりと息を整えている余裕はない。倒れた拍子に勇刀に馬乗りになったルカが、力に任せて短剣を勢いよく突き立てる。

「ッ!?」

 勇刀は必死でルカの腕を掴んだ。華奢な腕からは想像もできないくらいほどの強い力。ルカの右腕を必死で抑えていた勇刀の腕が、力に耐えきれず小刻みに震え出した。

 圧倒的なルカの力に、勇刀は狼狽した。柔道訓練で寝技をかけられても、ひっくり返せる。さらには形勢逆転で寝技をかけ返すほど、力には自信があったのだ。それにも拘らず、ルカの攻撃を受け止めた腕が震えるほど、自分より遥かに小柄なルカの力に押されている。

(なんで……こんな力!!)

 勇刀が渾身の力を持って押し返そうと、歯を食いしばったその時。ドン!! と、左脇腹に鈍く重たい痛みが走った。

「ぐッ!!」

「離せよー! 今度は本気で蹴るよ?」

 ルカが軽く体を再び捻る。膝が勇刀の脇腹を的確に捉え、勇刀は呻き声をあげた。その僅かな間に、ルカの力を蓄えた鋭い刃先が、勇刀の鼻先寸前にまで迫っていた。

(このまま、やられてたまるか!)

 勇刀は歯を食いしばった。

「うぉぉぉッ!!」

 雄叫びを上げ、勇刀は必死に腕を押し戻す。全身の力が勇刀の両手に集中した。ギリギリと筋肉が軋む雑音が、体の奥から響いてくる。雑音が大きくなるにつれ、ルカの握る短剣が勇刀から離れていった。

(よし! かえせるぞ……!!)

 制圧できると確信して、勇刀が上体を起こそうとしたその時。ガツンという衝撃と共に、勇刀の視界がグニャリ大きく歪む。体が支えられないほどに、視界が回り出し、脳が頭の中で暴れているのではと錯覚するくらいの強い衝撃が勇刀を襲う。同時に右頬に強烈な痛みが走り、ルカの腕を支えて強張っていた手が途端に軽くなった。全力を注いでいた対象が急になくなり、行き場を失った勇刀の腕が、痙攣しガクンと床へ落ちる。

「……手間、とらしてんじゃねぇよ」

 筋が浮き上がるほど強く握りしめた左の拳を緩め、残る痛みを逃すようにルカは大袈裟に手を振った。ルカは再びゆっくりとした動きで勇刀に馬乗りになる。怪我を追っているとはいえ、それを感じさせない執拗なルカの攻撃。荒い呼吸そのままに、肩を上下に揺らして勇刀を睨みつける。そして、右手に持つ短剣を高々と掲げて勇刀を見下ろした。

 その姿を、勇刀は息を乱しながら見上げていた。短剣の刀身が反射する光。勇刀の目をジンジンと刺激する。眩しくて顔を背けたものの、痛みを伴う目眩に余計グラグラと頭が回り始める。

 混濁する意識下、まるで死神のようだと勇刀は思った。ルカの黒い服が、右手に持つ短剣が。勇刀を地獄へと誘う死神に見えたのだ。

 ところが、不思議と恐怖は感じなかった。絶体絶命の状況下であることは変わらない。それにも拘らず、勇刀は自分を守ってくれている気配を察知していた。

(なんだ……? 夢? いや……いや、違う)

 幽霊やUMO、幻視や幻覚の類に傾聴することはあっても、それらを信じる勇刀ではない。ルカに殴られた強烈な衝撃により引きおこされたものかもしれない。

 しかし、今。勇刀の背中をじんわりと温める手のひらは、記憶にはっきりと残る懐かしい父親のそれだ。勇刀の肩に添える堅い手のひらは遠野のそれに、柔らかな感触の手は稲本のそれだ。力強さを含むたくさんの手が、勇刀を守るように、幾重にもその体に重なっていく。

 実際には、勇刀を守る無数の手などない。それでも見えない手の存在から、鮮明に感じる温もりが、勇刀に大きな安心感を与えた。

 手を重ねる、手を繋げる。

 血に塗れた手では、手を重ねられない。武器を持っていれば、手を繋げない。

(こいつの手を握ってくれた人は、いたのだろうか……)

 華奢で綺麗なルカの手。綺麗な見た目とは裏腹なその手は、いくつもの命を握り潰してきた。真っ赤に染まったその手に。ルカの穢れた手に躊躇なく、手を差し伸べた人物がいたのだろうか? 

 勇刀は真っ直ぐルカを見上げて、言葉をゆっくりと放った。

「おまえに……。おまえに、手を差し伸べてくれた人は……誰だ?」

「!?」

 ルカの握る短剣が、今にも勇刀に向かって振り下ろされようとしていたその時。勇刀の言葉に反応したルカが、ビクッと体を大きく震わせた。

「市川さん、なのか……?」

「……」

「市川さん、なんだろ……?」

「……」

「だから、市川さんを……」

「だから……なんだよッ!!」

 直前まで作っていた余裕綽々な笑顔が、瞬時に引き攣るり、感情のリミッターが爆発したようにルカの表情が一変する。短剣を握りなおすと、ルカは勇刀の喉元めがけて振り下ろした。

 鈍く光を放つ短剣が、勇刀に向かって迫る。勇刀はその軌跡を追って、息を小さく吐いた。

 ルカの腕に向かって、勇刀が手を伸ばした瞬間。あたたかな明かりが波紋をなして震える。

 --パァン!!

 暗闇を引き裂く一発の銃声は、決して止まらない時間を止めた。

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