4ー1 跡形もなく(1)

「あ、もうこんな時間か……」

 執務室の壁に掛けれた時計の針が、カタッと動く。時刻は午後八時半。

 独り言を呟いて、勇刀は大きく伸びをした。執務椅子の背もたれが傾いて、ギィと音を立てる。いつもは気にもとめないくらい小さな音が、誰もいない執務室に厭に大きく響いた。

 勇刀の机上にはパソコンが二台。一つのパソコンでは忙しなく移り変わるSNSを、もう一つのパソコンでは忙しなく切り替わる監視カメラの映像を注視する。

「なーんも、動きねぇなぁ」

 犯人に係る情報収集に、髪の長い人物の特定。一刻も早く、その動きを捉えて捕まえなければならないのだが。未だ掴めぬ犯人の姿に、精鋭気鋭の捜査員達も疲労の色が隠せない。かくいう勇刀も、連日連夜こうも目を酷使した作業が続くと、流石に疲労が蓄積しているのが分かった。聞き込み等で誰もいない執務室。ふと、勇刀は市川の席に目を向けた。珍しく、机上にあるパソコンの画面が開きっぱなしの状態で放置されている。

(あれ? 市川さん、帰ったのかな?)

 勇刀は席を立つと、市川の席に近づいた。勇刀が見ても、到底分かりそうにもない書類が几帳面に並んでいる。整然としながらも、まだ仕事半ばであることが如実に現れている様子に、勇刀は違和感を覚えた。

(……席を立って、何分経つ?)

 何事もきちんとしている市川が、無断で長い間席を立つことは珍しい。勇刀は一度、パソコンの画面を止めて執務室を後にした。そして、リフレッシュコーナーへと向かって歩き出す。

 節電モードとなった廊下の灯りが、所々点灯してぼんやりと勇刀の足元を照らした。視線を上げると、廊下の一角にあたたかな光が漏れている空間が目に入る。その灯りに、心なしか安堵した勇刀は歩を速めてリフレッシュコーナーに急いだ。

「市川さん! ……あれ? 市川さん?」

 市川がリフレッシュコーナーにいると思っていた勇刀は、そこに市川の姿がないことに首を傾げた。テーブルには、口の開いた缶コーヒー。遠野や市川が、よく口にする銘柄の缶コーヒーがぽつんと残されていた。

 明るいダウンライトの下。缶コーヒーを飲みながら、ソファーに座っていた市川の姿が、勇刀の瞼に浮かび上がる。勇刀は、弾かれたように周辺を見渡した。

「なんでだ!? なんで、何もないんだ!?」

 不自然なほど、痕跡がない! ソファーに座っていたはず市川の存在が、そこから煙のように跡形もなく消えている! 失踪にしては場当たり的、襲われたならそれなりの遺留物が残っていてもいいはず。その状況が積み重なり、何もないことが勇刀の不安を返って増長させた。

 「私は、何もできないんです」と言った市川の、悲しげな笑顔。その笑顔を思い出し、勇刀はポケットから慌ててスマートフォンを取り出した。

「遠野係長!!」

『なんだ、緒方か。まだ仕事してるのか? もう帰って……』

「市川さんが、いないんです!」

『はぁ? 帰ったんじゃないのか?』

 勇刀を落ち着かせようとしているのか。いつも以上にのんびりとした遠野の口調に、勇刀はつい苛ついて声音を強くする。

「変なんです!! さっきまでいたはずなんです!! 不自然なんっすよ!!」

『……』

「遠野係長!!」

 単なる勘と言ってしまえば、それまでだ。しかし、勇刀には自分の違和感を全力で遠野に伝えた。今、勇刀にできることは、それ以外ない。自分の力では、自分の一人の力だけでは……どうにもできない、と。そう判断した勇刀の言葉に、遠野が鋭く反応した。

『緒方!! 鑑識を呼べッ!! 庁舎内の監視カメラの映像を今すぐ押さえろ!! データを収集しておけッ!! 俺たちもすぐ戻るッ!!』

「はい!」

『念のため、市川の弟に連絡しろ! ……くれぐれも、悟られんじゃないぞ!』

「はい!」

 緊張からなのか、それとも不安からなのか。スマートフォンを持つ勇刀の手が異様に震えはじめる。その手をグッと抑えて、勇刀は何もできない悔しさを抑え込むように唇を噛み締めた。



「すげぇな……十射全中かよ」

「俺なんか、一発だけだぜ? ちゃんと〝紙〟に当たったの」

 霜村と切田は一枚の的に、感嘆の声を上げた。大中小と次第に小さくなる円のほぼ中心に、小さく空いた十個の穴。その羨望の対象となった的を射た市川は、その言葉に照れたように笑った。

『一つ、誇りと使命感を持って、国家と国民に奉仕すること。

 一つ、人権を尊重し、公正かつ親切に職務を執行すること。

 一つ、規律を厳正に保持し、相互の連帯を強めること。

 一つ、人格を磨き、能力を高め、自己の充実に努めること。

 一つ、清廉にして、堅実な態度を保持すること』

 職務倫理の基本一つ一つが、装填された五発の銃弾に込められている。小さな鉄の塊に込めらた念は、重責となって拝命を受けたばかりの警察官の肩にのしかかるのだ。

 警察学校に入校し、初めて拳銃を握ったその日。発射した銃弾と手に伝わる衝撃は、思いの外、強く深い。初めて感じた重い念と強く深い衝撃は、退官するまでその手の先に残るのだろうと、市川は思った。

 じん、とした微かな痺れを指先に感じながら。市川は霜村から的の紙を受け取った。

「次は絶対に、市川より当てる!」

「切田は無理だろ、絶対」

「えー!? そういう霜村だって似たようなもんだろ!?」

「今日は、たまたま調子が悪かったんだよ!」

「へぇー? 本当かなぁ?」

「よし! まずは俺と勝負しろ! 切田!」

「臨むところだ!」

 二人の会話を、市川は聞きながら未来の自分達に思いを馳せていた。

 その時抱いていた希望や願い、そして職責に奮い立つ思いは先輩から重い念と強く深い衝撃と共に、市川が手にした拳銃と共に引き継がれていく、手元にある小さな拳銃が、重い念と強く深い衝撃を乗せて、また次の世代へと引き継がれる。きっと、未来永劫。脈々と消えることのないものなんだと、思っていた。


 市川は、懐かしい夢を見ていた。

 その良き思い出に微睡んだままでいたかったのだが。直近の記憶が雷のように頭を貫き、ハッとして目を開ける。

「!?」

 目の前は真っ暗で、そして異様に狭く暑い。市川が声を発しようとすると、布ガムテープのような物で口を塞がれていた。そのガムテープを外そうと手を動かすと、後ろ手に強く拘束されてビクともしない。助けを呼ぼうと足をバタつかせれば、その足も一つに縛られていた。

 市川は、不自由な足を狭い空間に打ちつける。ドン、ドン--とこもった音が響くだけで、外から市川の存在に気づくような反応はない。蹴った瞬間、自分のいた場所が左右に揺れた。反動か。胴体に走る熱を持った痛みに、市川は顔を顰める。

 何者かに背後から襲われたあの瞬間、市川は撃たれたのだ。音や体に伝わる衝撃から、恐らくサイレンサーもしくはタオルを巻いた拳銃で撃たれたと推測される。

 市川は呼吸を整えて、視覚と聴覚を研ぎ澄ました。纏わりつく生温い空気と、ガソリンの臭気が漂う空間。市川は目を閉じた。

(車の、トランクの中……!?)

 何故そんな所にいるのか、検討もつかなかったが。抜け出すことも、助けを呼ぶこともできない状況であるはことが理解できる。途端に市川の心臓は速く鼓動しだした。うっすらとしたあの事件の記憶が、鮮明にジワジワと市川の皮膚を這い回る。

「んーッ!! んーッ!!」

 狭いトランクの空間。市川は声にならない叫び声を上げ、胴体を蝕む痛みを忘れて全身を壁に打ちつけた。ドンドンと鈍くくぐもる音、左右にギシギシ揺れる空間。そして自分の唸り声だけが反響する。

「……ん、ん」

 理性を無くしたように暴れる市川の体から、途端に力が抜けていく。僅かに循環するトランク内の薄い空気が、市川の体力と意識を最も簡単に奪っていく。

 このまま、いつの間にか。跡形もなく消えてしまえたら、どんなに楽だろうか? 苦しみも後悔も全て終わる。全て、リセットされるんだ。

 呼吸を乱しながら、市川は次第に視界が狭くなるのを感じた。視界の外側から、じんわりと闇が市川を支配していく。

 意識を手放すか、手放さないか、その瞬間。

〝昨日みたいに笑って欲しいです、俺、市川さんに〟

 勇刀に言われた言葉が、頭をよぎった。

 そんなことを言われたのは、事件以降初めてのことだった。皆、市川を気遣うようで、腫れ物のように扱ってきた。いるのに、いない存在。透明人間のように跡形もない存在となった市川を勇刀が見つけてくれたように思えた。だから、勇刀の言葉がいやに市川の胸に刺さったのだ。

 貼られたガムテープの下で市川はふっと、口角を上げた。

(それだけで……。そう言ってもらっただけでも……私は……)

 闇となった恐怖や不安が、市川を包み込む。しかし、市川は妙に落ち着いていた。その恐怖や不安は、市川を蝕み闇へと引き摺り込むほど、深く根付いてはいなかったのだ。

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