1ー3 呪い

「……ッ」

 バタン、バタン--。

 床に何かがぶつかる大きな音が、暗いマンションの一室に響いた。暗く影をうつす白い材質の廊下にはボストンバックが投げ出され、丁寧に磨かれた革靴は並べられることなく玄関に散らばる。床に倒れ込んだスーツ姿の男・市川雪哉は。懸命に体を起こして廊下の壁を背に座り込んだ。

 ほぼ寝ずだった当直の疲れも相まって。さらに記憶を呼び起こすような動画に少なからずとも動揺した市川は。家に帰り着くや否や、全てを放り投げて倒れこんだ。瞬間、体の内側から得体の知れない痛みが市川を襲う。

「……痛……い」

 苦痛に歪む表情の市川は、乱暴にネクタイを外すと掻きむしるようにシャツのボタンを引きちぎった。特段、怪我をしている感じではないものの。体の中の痛みごと取り除こうと、市川は左胸をギュッと右手で掴む。

 指と指の間から見え隠れする、引き攣った皮膚の形状。丸く深い跡を残したケロイドを掴み、市川は苦しそうに息を乱した。

 浅い呼吸音が、暗い部屋に響く。市川は頭を壁につけてなるべく深く呼吸をしようと試みた。

〝弾を放った後の拳銃の熱さ、分かったかな?〟

「ッ!!」

 頭の中で〝あの声〟がこだまし、市川の体は再び床に打ち付けられた。添えられた左手は腹部の皮膚に血が滲むほど、強い力を帯びて爪を立て握りしめる。

〝知ってるんだ、オレ。刺しても死なない場所。気を失いたくても、失わせない場所〟

「やめ……ろ……」

〝じっくり、教えてあげる〟

「……く……るな」

〝あたなには……特別だよ〟

「っあぁ……!!」

 皮膚を、肉を。ゆっくりと断ち切るように体内に入るナイフの冷たい感覚。臓器の隙間をぬうように入るナイフは、触れた内臓までも凍らせる。そしてゆっくりと抜かれたナイフは、また。別な皮膚を肉を断ち切り、市川の体内を少しづつ凍らせていくのだ。

「……はぁ……ぁぁ」

 市川の腹部に残る、夥しい数の傷。全て同じ大きさ。全て同じ形の傷。痛みなどもうないはずなのに。

 体が覚えている、記憶。頭より、視覚より、鮮明に。触覚や聴覚は市川が思っているより、深く強く覚えているのだ。

 記憶に残る強烈な痛みとあの声。いつまで続くかわからない〝呪い〟に、市川は意識を手放した。


「--き、ユキ!! 雪!!」

「!?」

 市川は自分の名前を呼ぶ、聞き慣れた声に飛び起きる。ハッとして見上げた。自分を抱き上げ心配そうに顔を覗き込む男と目が合う。

「は……る……? 陽」

「大丈夫か?」

 陽と呼ばれた若い男、市川陽哉いちかわはるなりは、ゆっくりと市川の体を起こした。若干、安堵した表情を浮かべるも、市川は乱れた呼吸を落ち着かせるように言った。

「……あぁ。当直が……忙しかったんだ、それで」

「……嘘、つくなよ。雪」

「嘘、じゃない」

 陽哉の腕から逃れるように、市川は体を起こす。記憶が覚えていた鈍い痛みが、まだ体の中に残っているせいか。立ち上がった瞬間、その痛みに市川の体は大きくバランスを崩した。

「雪ッ!!」

「……寝不足なんだ。シャワー浴びたら、今日はもう休む」

「ニュース、見たよ。雪」

「……」

「そのせいだろ?」

「……違う。寝不足なんだ」

「雪……ちゃんと、話してよ」

「大丈夫だから、陽」

「……雪」

 市川はゆっくりと立ち上がって、スーツのジャケットを脱ぎ捨てた。ヨロヨロとおぼつかない足取りで、浴室へと向かっていく。陽哉は市川の脱ぎ捨てたジャケットを手にすると、市川が消えた浴室をじっと見つめていた。

 呪いのようだ、と陽哉は思った。呪いが兄である市川の全てを変え、過去も未来も失わせる。

(雪を呪いから解放してあげたい。その苦しみから解放してあげたい)

 その一心で陽哉は陽哉なりに考え、臨床心理士になるべく勉学に励んでいるのだ。しかし、そんな陽哉の気持ちを知ってか知らずか、市川は実の弟にすら心を開かずにいる。

 夜中うなされていることも。押し殺した悲鳴と共に目が覚めるため、いつも睡眠が浅いことも。……笑顔がなくなったことも、全部。市川には深い呪いがかかっている。本当の市川はその華奢な体の奥底にいるんだ、と。


 一方、勇刀は延々と流れる動画を前に、大きな欠伸をしていた。眠たくなる呪いをかけられた眠り姫のように、上の瞼と下の瞼が驚くほど仲が良い。

(というか、昨日寝てないじゃん、俺)

 呪いなんて神秘的な眠気ではなく。単純に寝ていなかったという、条件的作用によるものだということが判明して。勇刀はさらに大きな欠伸をした。

「帰っていいぞ、緒方」

 そんな勇刀に、遠野が目の前のディスプレイから目を離さずに言う。

「えっ……あ、だ。大丈夫っす。これ最後まで見て帰ります」

「そんなちゃんと見てんだか、見てないんだか分かんねぇツラで頑張ります、なんて。一番信用できねぇよ」

「……すみません」

「また、明日。ちゃんとしたツラで見てくれよ」

「はい」

「……なぁ、緒方」

「はい」

 遠野はディスプレイから身を乗り出すように、勇刀に尋ねる。口調はいつもと変わらない。しかし、その表情はかたく、非常に鋭かった。

「当直中、変わったことなかったか?」

「変わったこと、ですか?」

 思考回路が鈍くなっている勇刀でさえ、遠野が言わんとしていることがダイレクトに頭に伝わる。勇刀は頭をボリボリとかいて俯いた。

「いや……特には」

「どんな些細なことでもいいんだ。何か思い出さないか?」

「……んー、バタバタしてて。ちょっと……」

「そうか」

「すみません、遠野係長」

「帰っていいぞ、緒方」

「ありがとうございます」

 遠野に一礼をして、机の横にあるディバッグを肩にかける。

「……緒方、なんか思い出したら教えてくれ」

「はい。思い出したら、報告します」

「おつかれ〜」

「おつかれさまでした」

 勇刀は遠野に一礼すると、踵を返して執務室を後にした。

 市川を見送った鋭い朝日が、随分と高く柔らかな陽の光を注ぐ。アスファルトに反射する陽の光に、勇刀は思わず目を細めた。

 何故か、言う気になれなかった。微かに震えていた市川のことを。感情が爆発的した市川のことを。勇刀は言う気になれなかったのだ。

 同情とかそんな感情じゃない。知らない市川に触れて、さらに興味が湧いてしまったというのが正しい。あんな市川の顔を見られたくない。そして、市川にかけられた〝呪い〟の発端となった事件に、心臓が早鐘を打つような感覚を覚えた。ぼんやりと、していた頭が。急にキンと冷えて視界ですら鮮明になる。

(知らなきゃならないことが、山ほどある。)

「よしっ!」

 一度伸びをして、勇刀はディバッグを背負い直した。そして、昼のざわめきが行き交う、街の喧騒に向かって勢いよく走り出した。

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