11. 化繊のハンカチーフ

 麗美は走った。ずっと、八条目大学の学舎が見えなくなっても、まだ走った。右肩にかかる通学鞄の重みも気にならなかった。上着のポケットの中でスマホが跳ねていた。

 速度を落とさないままマンションの階段を駆け上がり、自宅のドアを開けると、玄関に瑛美の靴があった。瑛美はすぐ妹の帰宅に気づき、リビングからそっと顔を覗かせて麗美の表情を窺う。しかし、その膝から流れている血を見た瞬間、顔色が変わった。

「麗美ちゃん? どうしたの、膝。転んじゃったの?」

「……なんでもない」

「なんでもないって、そんなわけ……ちょっと待ってて、今、絆創膏持ってくるから」

 そう言うと断る隙も与えず救急箱を取りにいく。そのときになってようやく膝の傷がじんじんと熱く痛み出した。麗美は足を引きずりながらリビングへ移動し、ソファに力なく座り込んだ。

 瑛美は救急箱と一緒に濡らしたハンカチを持ってきた。優しく傷口を拭き、大きめの絆創膏を手際よく貼る。

「大丈夫? 痛くない?」

「……」

 俯いたまま何も答えない麗美に、瑛美はふと真剣な目をした。

「……ねえ、麗美ちゃん。一昨日はごめんね。麗美ちゃんにすごく心配させちゃってるの、ちゃんとわかってる。本当にごめんね」

「……はあ? なにそれ。わかってんなら——」

 きもいことすんのやめたらいいじゃん、と言い返そうとした。しかし麗美の口からその言葉が出ることはなかった。それより先に瑛美が喋り出したのだ。麗美はぎょっとした。瑛美が彼女の言葉を遮るなど、これまでに一度もなかったことだった。

「理解させてあげられなくて、ごめんね……。全部、全部、私が力不足なせいで、麗美ちゃんに正しく伝えてあげられなくて、本当にごめんね。でも大丈夫、絶対に大丈夫だから。麗美ちゃんも絶対すぐわかるから。ね、麗美ちゃん、安心して」

 ひどく優しい声だった。麗美は思わず顔を上げた。ふたりの視線がばちりと噛み合う。瑛美の瞳は深い慈愛に満ち、美しく輝いていた。その胸元で細い鎖が揺れる。三日月の形をしたペンダントトップが、蛍光灯の光を受けて鈍く煌めいた。すぐさま目を逸らした麗美の頰に冷たい汗が伝った。

 

 瑛美はそんな彼女の背中をそっと撫で、その体を抱きしめようとする。

「やめて」

 怒鳴ろうとした声は、怯えたようにかすれて小さくなった。

「触んないでよ」

 麗美は瑛美を押しのけ、自室へ駆け込んでドアに鍵をかけた。足が震え、床にへたり込む。落ち着こうとして目を閉じると、傷口を拭った後のハンカチに染みた血の色がまぶたの裏に浮かんできた。

 それと同時に、麗美の脳裏にとある光景が蘇った。幼いころ、ふたりはよく一緒に近所の公園で遊んでいた。好奇心旺盛な麗美は様々な遊具を従来から外れた遊び方でも楽しみ、瑛美はそれを眺めて微笑んでいた。麗美がその遊び方に起因した怪我を負って泣き出すと、瑛美はおろおろしながらもしっかり家へと連れ帰り、丁寧に手当てをしてくれるのだった。消毒液の浸みたガーゼでは痛いと麗美が喚くから、瑛美はいつも濡らしたハンカチを使ってくれていた。

 麗美は自分がいつのまにか涙を流していたことに気がついた。恐ろしいような、悲しいような、腹立たしいような、切ないような、そのどれでもないようで、そのすべてでもあるような、そんな感覚に襲われてただ泣き続けた。

 窓の外では、すっかり沈んだ夕陽に代わって月が夜空を統べていた。

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