3. 濾す

 四月。新学期、出会いの季節だ。ハクタク研究室にもうららかな陽気が舞い込んでいる——と思ったら大間違いである。

「沿島はまだ来ないのか。十三時半に来いと伝えてあるはずだろう」

 書類が山積みの机の前で、白澤は腕を組んで苛立った様子だ。ひかるは壁際の棚を整理しながら応える。

「まあ、まだ二十五分ですからね。予定時刻の十分前に来なければ遅刻というのは先生だけの常識です。だから評判が悪いんです、先生の授業は」

「なにを言う。授業のときはちゃんと情けをかけて遅刻扱いにはしないでやっているだろうが」

「それが当たり前です。本来の授業開始時刻にはまったく遅れてないんですから。だから評判が悪いんです、先生は」

「ほっとけ。同僚連中にもよく同じことを言われているんだ。もういい。喉が渇いた。コーヒーが飲みたい」

 わがままを言う白澤を、ひかるは軽くあしらう。

「買っていらっしゃったらいかがですか。この階、自販機あるでしょう」

「あそこの自動販売機のコーヒーはまずくなった。仕入れ先を変えたんだろうな。ひかる、おまえ、家にコーヒーメーカーはあるか?」

「ありません。仮にあったとしても、ここには持ってきません。埃で壊れたら嫌ですから」

「うむ。まったく同感だ」

 そのとき扉がノックされた。ひかるが「どうぞ」と返事をする。

「すみません、失礼しま——」

「遅いぞ、沿島!」

「えっ? で、でもあの……」

 沿島はあわてて壁の時計と白澤の顔を交互に見る。ひかるはその隣に立ち、慰めるように肩を叩いてそっと首を振った。

「気にしなくていいよ、沿島くん。きみが正しい。その正しさが、この人には通用しないだけなんだ」

 そんなふたりを白澤は鋭く睨む。

「ひかる。無駄口を叩くんじゃないっ。ときに沿島、おまえはコーヒーメーカーを持っているか?」

「え、あ、はい。家にあります。えーっと、どうしてですか?」

 いくら白澤の授業を受講していたからといって、沿島が白澤の面倒くささの全容を把握しているわけではない。彼はまだ、そのタチの悪さの片鱗味わっていないのだ。白澤は有無を言わさぬ口調で告げた。

「次に来るとき、ここに持ってこい。そして、ここに置いていけ。わかったな」

「ええっ? いや、あの、それはちょっと……」

「まあまあ、先生。それはさすがに酷ですよ」

 ここでひかるが割って入り、沿島を気づかって白澤をなだめる——ように見えて、そのじつ彼としても研究室にコーヒーメーカーが設置されるのは喜ばしいことであるため、結局白澤に味方する。

「もっとこう……しっかり説明しないと、沿島くんだって不安に思いますよ」

「なるほどな。一理ある。おまえの意見にしては珍しく」

 白澤はにやりと笑った。

「おい沿島、安心しろ。いいか? わたしの研究室に入ったということが知られれば、すぐにでも友人などいなくなる。それはもうきっぱりと、すっかりと、さっぱりといなくなる。サークルも、おまえがどんなサークルに入っているのか知らないが、追い出される。それはもう、例外なく、どんなサークルにいたとしても確実に追い出される。誰もわたしと関わりを持つ者に関わりたくないからだ。じきにおまえは、ここだけしか居場所がなくなるだろう。そうすればおまえは毎日でもここへ来ることになる。なにしろ他に行く場所がないからな。そこで考えてみろ。おまえは毎日ここへ来るのだ。それならどうだ? ここはもはや、おまえの家同然といえるのではないか? むしろこの研究室こそがおまえの家なのではないか? 違うのか? 家なのだから、おまえのコーヒーメーカーが置いてあるのは、これはもう当然のことだ。そうだな? 沿島。どうだ?」

「ど、どうだと言われてもですね……」

 息もつかせぬ白澤の迫力に圧され、沿島は助けを求めるようにひかるを見る。ひかるは苦笑いして首をかしげ、視線を逸らした。

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