第4話 ③

「こうなったら、隠しておくわけにもいかないしな」

 俊康は独り言のように漏らした。

「山神様は昔からこの一帯の山々を支配されていた」喜久夫が言った。「だが、ここの山々は流刑地でもあったんだ」

「流刑? 何か悪いことをして追いやられた、ということ?」

 尋ねた梨花は、その時点で自分の疑問の規模の大きさに気づいた。

「悪いことというか、まあ、嫌われて追いやられたんだろうな」

 喜久夫の言葉に梨花は「誰に嫌われたの?」と問い返した。

「神様を追いやるほどだから、それも神様、ということだよ」そして喜久夫は小さなため息を落とした。「どうもうまくは話せないな。ややこしい話は苦手だ」

「喜久夫くんよ、綾ちゃんがいるんだから、綾ちゃんに代わってもらったほうがいいんじゃないのか?」

 吉田が提案した。

「ああ、そうだな」と頷いた喜久夫が綾に顔を向けた。「頼めるかな?」

「わかりました」

 声をかけられる前から覚悟していたのか、綾は即答した。とはいえ、彼女の表情は疲労を呈している。梨花はそれが不憫でならなかった。賢人も気遣わしげに綾を見ている。

 綾は面々に目を配ると、目の前のテーブルに視線を落とした。誰もが息を吞んでそんな綾に注目した。

「我が家に保管されている『天帝秘法写本』に記されていることです」綾は座卓に視線を定めたまま言った。「今から三千年も前……縄文時代の後期に、ある一族が大陸から日本にやってきました。その一族は大陸の強大な権力から自分たちを守るために魔術を使い、その魔力の源となる女神様を崇めていました。……あるとき、一族の長に女神様の宣託があったんです。母の意にそぐわない子、ギナ=ハを地上に追放する、と。すなわち、女神様が自分の子を下界に落とすというわけです。そして女神様は、地上に落ちたギナ=ハは生きとし生けるものを食らいつくして世界のすべてを破壊するだろう、と告げました。そして女神様は、ギナ=ハのこの行動を抑制できる魔術を伝授してくださったのです」

 そこで言葉を切った綾は、「理解できた?」とでも問いたげに梨花を見た。

 信じるか否かは別としても、話の内容は理解できた。しかしどう反応すればよいのかわからず、梨花は居住まいを正した。それしかできなかった。山神についての知識を有していないという賢人も、梨花と同じ思いなのか、神妙な趣で綾を見ている。

 座卓に視線を戻した綾が、再び口を開く。

「一族の中でも屈指の魔道士が、ギナ=ハが落とされるとされる地に赴きました。そこがここ、あかの地でした。縄文人の集落がある里でした。やがてギナ=ハが地上に現れ、さっそく里の住人や野山の獣らを襲って食べ始めました。魔道士はあらかじめ準備しておいた結界を作動させました。朱の周囲を取り巻く強力な結界です。その結界の力によって、ギナ=ハはこの結界から出られなくなったばかりか、自分の母なる女神様……千匹の仔を孕みし森の黒山羊、の呪いを受けることにもなり、本来の力を駆使できなくなったのです。この結界はギナ=ハのみに作用し、そのほかの人や鳥、獣、虫、雨、風、川の流れなど、あらゆるものに無害でした。とはいえ、ギナ=ハの力はまだまだ人のそれを大きく上回っていました。結界から出られなくても、結界内の集落……当時の竪穴式住居の集落を一瞬にして消すことなどは造作もないことでした。そこで魔道士はギナ=ハと契約を結びました。里で死人が出たら里の者はそれを神饌としてギナ=ハ差し出し、その対価としてギナ=ハは里の者を襲わない……というものです」

 そして綾は再び言葉を切り、呼吸を整えた。

「その契約が現代まで継続されてきた、ということなの?」

 時子が尋ねた。

「そうです」綾は頷いた。「魔道士は里の住人の何人かを弟子にし、魔術を伝授しました。そして魔道士は朱の土地を去り、また彼の仲間である一族も消息が途絶えましたが、死人を差し出すという儀式は弟子たちによってこの朱に継承されました。その後、いつしかギナ=ハは、里の住人たちに、山神様、と呼ばれるようになりました」

「魔術を受け継いだ住人の子孫が、綾ちゃん……というか、葛城家の人たち?」

 次に尋ねたのは信代だった。

「それはわかりません。その魔道士が残した古文書を弟子の子孫が漢文で書き起こした写本『天帝秘法写本』がうちにあるのは事実ですが、葛城家の者がいつから儀式の斎主を務めるようになったのかは、葛城家の記録に残っていないんです」

「なら」紀夫が口を開いた。「そうやって続いてきた儀式だけど、岸本さんを生け贄にすることでそれに終止符が打たれるはずだった、ということなのかい?」

 それを台なしにした仁志は、暗い面持ちで沈黙したままだ。

 綾は頷く。

「そうです。これまでは死人を差し出して山神様を慰撫する慰謝の儀でしたが、今回のはこの朱……というよりこの地球から出ていってもらう昇天の儀でした」

「しかし、それでは女神様とやらの意にそぐわないのでは?」

 紀夫は首を傾げるが、その疑問は梨花にもあった。おそらく信代や、真相を知らないほかの者も同じだろう。

「昇天の儀で唱える祝詞には、女神様への訴えも含まれています」

 綾はそう説くが、梨花は得心がいかなかった。女神がそれを認めなければ山神はこの地を去らないということになるのではないか。

「女神様が聞き入れてくれなかったら?」

 梨花の懸念を代弁したしたのは信代だった。

 綾は信代に顔を向ける。

「神、とはいえ、世間一般で考えられているような神ではありません。山神様のお姿を見てもわかると思います。姿形だけではなく、思考もわれわれ人間とは異なるでしょう。祝詞を正しく唱えれば女神様はこちらの要求を受け入れてくれる、と『天帝秘法写本』にありますし、これまでも、死人を差し出すだけで契約は守られてきました。……『天帝秘法写本』によれば、山神様には『十二の扉の主』という大いなる存在の後ろ盾があるようです。この地から解放されても女神様のおられるところには戻らないのかもしれません」

「じゃあ」声を出したのは淳子だ。「その儀式がうまくいっていたら、もう山神様の儀式はしなくてもよかっただろうし、うちの人も死なずに済んだ……そうなんでしょう?」

 答えは決まっているが、綾は思い詰めたような表情で目を逸らした。

「そうなんでしょう?」

 淳子は問い詰めた。しかしその目は、綾ではなく仁志に向けられている。

 迂遠に矢面に立たされた仁志は、その場でうなだれ、唇を嚙み締めた。

「おばさん」賢人が淳子を見た。「だからって、生きた人間をあんな化け物に食べさせるなんて、そんなこと、あってはならないはずです」

「だったら、うちの人は食べられてもよかった、って言いたいわけ?」

 標的を賢人に変えた淳子は、肩をふるわせた。

「そんなことは言っていません。でもあのときに仁志さんが飛び出していなかったら、自分が飛び出していたと思います」

 賢人も下がらなかった。

 そんな賢人に正当性を見いだしたのか、淳子はますます肩を大きく震わせ、視線を仁志に戻した。

「仁志、あなたがばかなことをするから、お父さんは死んでしまったんだよ。どうしてあなたはいつもそうななの? ろくでもないことばかりして……この大ばか者!」

 そして淳子は左右のこぶしで座卓を二、三度、激しく叩いた。やり場のない怒りを梨花は感じた。

 仁志がおもむろに顔を上げた。

「こんな儀式を続けているほうがどうかしているんじゃないのかよ。おやじたちだけじゃないよ。おふくろもだ」

 言って仁志は立ち上がった。

「あなた、自分の父親を死なせておいて、その言い草は何よ」

 仁志を見上げつつ、淳子は反論した。

「そういうのが嫌いなんだよ! いつまでもおれをばかにしやがって!」

 仁志は声を張り上げると、廊下へと出た。

「おい仁志」

 喜久夫が声をかけるが、仁志の足音は遠ざかり、やがて、玄関を出る音がした。

「やばくないか?」と紀夫が時子に問うた。

「でも、車がないんじゃ、遠くには行かないと思うけど」

 そう答える時子だが、声には憂慮が含まれていた。

「ほっとけばいいわ」

 言い放って、淳子は大きく息をついた。

「なあ淳子さん」喜久夫が言った。「賢人くんも言っていたが、やはり、生きた人間を山神様に食わせようとしたのは、いけないことだったんだよ」

「でもそれは――」

「おれたちは」喜久夫は淳子の言葉にかぶせた。「罪を犯すところだった……いや、もう犯しているけどな。でもな、少なくとも、仁志や賢人くんや、梨花が来てくれたおかげで、人殺しをせずに済んだんだ。もしこの子らが来なかったら、和彦だって人殺しをするところだったんだぞ」

 嚙み締めるような言葉を突きつけられて、淳子は押し黙った。

 しかしその言葉は、雅之も殺人を犯す過程にあった、という意味でもある。梨花は胸が締めつけられるような感覚に襲われるが、信代も同じ思いなのか、眉を寄せつつ唇をきつく結んでいた。

「昇天の儀、というのが失敗したわけですが」紀夫が喜久夫を見た。「このままにしておけば大変なことになるんじゃないんでしょうか?」

「昇天の儀に限らず慰謝の儀でも、失敗すると大変なことになるらしい。でも、何が起こるのか、具体的なことはわからない」

 言って喜久夫は綾を見た。

 その視線を受けて、綾が口を開く。

「わたしも具体的なことはわからないんですが、昇天の儀でも慰謝の儀でも失敗すれば結界が消えてしまう可能性がある、と『天帝秘宝写本』に記されています。女神様の呪いが有効となっている状態でも、山神様がその気になれば、朱の里はあっという間に壊滅状態にされてしまうはずですが、もし結界が消えれば、山神様はほかの土地にも自由に移動できるだけでなく、本来の力を取り戻してしまいます。被害が広範囲に広がっていく、ということも考えられるわけです。昇天の儀で追放されるのと違って、怒りに満ちた状態で自由に飛び回るのですから、朱以外の地域でも、恐ろしいことが起きるでしょう」

「だとしたら、どうすればいいの……」

 時子がつぶやいた。

「そうならないように」喜久夫が言った。「雅之や勝義くんらが話し合って解決策を立てているんだ」

 話がまとまった――のではなく、行き詰まったのだろう。喜久夫が黙ると、ほかに意見が出るわけでもなく、沈黙が訪れた。

 静寂が苦しかった。とはいえ、梨花が口にすべきことは何もない。この静寂は人が無力であるという証しである――そんな気がしてならなかった。

「あ……」と声を出したのは吉田だった。「ちょっと家に電話しておく」

「この話はまだ誰にもしないほうがいいぞ」

 金成が警告した。

「遅くなる、って伝えるだけだよ」

 答えた吉田は立ち上がって廊下に出ると、フォーマルスーツのズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。

 緊張を解かれたのか疲れたのか、誰かが小さなため息をついた。

 足がしびれて、梨花は正座を崩した。自分が正座していたことさえ忘れていたのだ。

「あれ?」

 廊下で吉田が首を傾げた。

「どうした?」

 金成が声をかけた。

「電話が通じない。アンテナのマークが……ぜんぜんだめだ」

 そんな答えを聞いて、梨花はポシェットからスマートフォンを取り出し、画面を確認した。ステータスバーのアイコンを見ると、電波がまったく使えない状態である。試しに信代のスマートフォンに電話をかけてみるが、反応がない。

「今、お母さんのスマホにかけてみたけど、通じないよ」

 隣の信代に顔を向けて伝えた。

「え?」と声を漏らした信代が、膝の上のハンドバッグからスマートフォンを取り出し、画面を確認した。そして画面を操作し、しばらくして首を横に振る。

「梨花にかけたけど、だめみたいね」

 信代の言葉を耳にしながら梨花は自分のスマートフォンを確認するが、着信の知らせはなかった。さらにネットに繫がらないことも把握し、思わず眉を寄せる。

 梨花たち親子だけでなく、淳子以外の全員がおのおののスマートフォンを取り出して操作していた。綾も白衣の下に忍ばせておいたのかスマートフォンを手にしている。

「誰のスマホも使えないみたいだな」

 皆の様子を見回して、喜久夫は言った。

「淳子さん」と声を出したのは紀夫だった。

 呆けたような表情で、淳子は紀夫を見た。

「この家の固定電話って、停電でも通じますか?」

「光回線なんだけど……」

 淳子のそんな答えを聞いて、紀夫は「じゃあ、無理か」とつぶやいた。

「おい、見てみろ」

 吉田が廊下から外の様子を窺いながら言った。

「どうした?」と金成が立ち上がって吉田に並んだ。

「外に出てみよう」

 振り向いた金成が、大広間の者たちに言った。

 スマートフォンを手にしていた者はそれをしまい、全員が玄関へと向かった。

 皆とともに玄関を出た梨花は、ガレージの前に立つ仁志に気づいた。彼はこちらには目もくれず空を見上げている。

 そんな彼に誘われるように、梨花も空を見上げた。ほかの者たちはとうに気づいていたらしく、すでに顔を上に向けていた。

「空が塞がっている」と賢人の声がした。

 光の幕が天空を覆い尽くしていた。

 日中の曇り空のような空であり、星が一つも見えなかった。

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