第1話 ③
気を利かせてくれたのか、それとも単に助手席に座るのが嫌なだけなのか、賢人は梨花に助手席を勧めると、そそくさと運転席の後ろに着いた。
「そういえば、賢人くん、学校は?」
助手席に着いた梨花は、尋ねつつドアを閉じた。
「今日はテストだったんだ。しかも明日は土曜日……二日半連休だね」
「脳天気というか」運転席の綾が首を傾げつつドアを閉じた。「二日半連休なんていう表現は初めて耳にしたわ」
「前向きなんだよ」
そんな言い訳に梨花は失笑した。
「下校時間になってすぐに、姉さんから電話があったんだ」賢人は続けた。「昼で仕事を上がるからついでに拾ってやる、ってね。それで学校の近くまで車で迎えに来てもらったんだよ」
「その帰り道でここに寄ったわけ。お父さんはご飯を食べたらしいけど、わたしたちはまだだったから、お弁当を買って車の中で済ませちゃったの」
綾は言って車のエンジンをかけた。
「そしておれは食後の立ち読みをしていた」
後部座席からの言葉は、憂慮すべき事態があったことを提示していた。それを受けて梨花は言う。
「わたしはコンビニの中で賢人くんに気づかなかった、ってことだけど、でもよかったよ。賢人くんが仁志くんに会わずに済んだし」
「仁志さんもいたの?」
「いたのよ」答えた綾が、シフトレバーをリバースに入れた。「また梨花ちゃんに嫌がらせをしていたけど……」
「姉さんが追い払った?」
「そうそう」と綾は得意げに返した。
「賢人くんと仁志くんって、子供の頃はよくけんかをしていたもんね。年下の賢人くんがいつも仁志くんをぼこぼこにして泣かせていた」
梨花が事実を口にすると、綾は噴き出した。
「姉さん、笑うことないじゃん」すかさず賢人が反駁した。「梨花ちゃんも梨花ちゃんだよ。さすがに今はやらなからね。おれ、けんかなんて好きじゃないし。一触即発なんて事態には絶対にならないよ」
「どうかしらねえ」
必死の訴えを軽くあしらった綾が、軽トールワゴンを後退で駐車枠から出した。コンビニエンスストアの駐車所を出た軽トールワゴンは、県道を東へと向かう。
「それにたまに出くわしても、向こうが避けている。そもそも仁志さんって、けんかのセンスがなっていないよ。おれが強いわけじゃない」
賢人がそう言うと、ハンドルを握る綾は頷いた。
「なるほど。仁志くんが弱すぎる、っていうのもあるかもね」
賢人の体格は標準であり、特に強い、という雰囲気ではない。そんな彼に歯が立たないのだから、この姉弟の意見は的を射ているかもしれない。
「いずれにしたって」綾は続けた。「同じ
「そうだよなあ。梨花ちゃんとおれとは中学三年のときもあのコンビニでばったり会ったけどさ、姉さんも含めて三人でこうして話すというのは、五年ぶりくらいじゃないかな」
そんな賢人の言葉に、梨花はそっと頷いた。
小学生の頃の梨花はよく本家宅に来ていた。その当時から仁志による嫌がらせはあったが、祖父母、伯父、伯母らが助けてくれたおかげで、そこにとどまることができたのである。それだけではない。本家宅の近所でたまたま知り合った綾と賢人、この二人と遊ぶという楽しみもあったのだ。
しかし、未だに仁志の梨花に対する態度は改まっていない。そのうえ、高校生になった辺りからの仁志は、梨花に対するたちの悪い嫌がらせを、人目を忍んでするようになったのだ。ことを荒立てたくないため、梨花は自分の両親にも仁志の両親にも存命だった頃の祖父母にも、この悩みを相談していなかった。
仁志の嫌がらせについて梨花が相談できるのは、綾と賢人だけだろう。そんな事実に今さら気づき、梨花はこの姉弟との繫がりを心強く思うのだった。
コンビニエンスストアから一キロほど県道を東に走ると、国道との交差点があった。軽トールワゴンはその交差点を右折し、国道を南へと向かう。片側一車線のその道はやがて雑木林の中に入り、右へ左へとカーブを繰り返しながら、緩い傾斜の上りとなった。
「梨花ちゃんはこの道、通ったことある?」
不意に、綾が梨花に尋ねた。
「ううん……」
歩いて通ったことがなければ、誰かの車で連れてきてもらった、ということもない。しかし、隣の市の集落に繫がる道であることは知っている。それらを伝えると、綾は笑った。
「そりゃそうよね。いくら国道だからって、この山の中を歩いていく人って、そうはいないわ。それに梨花ちゃんのお父さんだって、よほどの事情がない限りは、車でも通らないだろうし」
「お父さんはここの出身だから、結婚する前は車でよく通っていたかもしれない。でもこの国道って、昔はこんなに広くなかったんでしょう?」
雅之の話によれば、以前は国道も県道も狭く、朱の交通の便はよくなかったという。金盛の市街地へ買い物に行くのも一苦労だったらしい。
「そうよ」綾は答えた。「この界隈の道が整備されたのは十五年くらい前だったわ。ほかの土地と繫がる道自体はそれ以前から何本かあるけど、国道や県道も含めて、狭かったり舗装されていなかったり、やんなっちゃうような道ばかりだった。うちのお父さんも嘆いていたっけ」
国道と県道はほぼ同時に整備されたが、それ以前は陸の孤島のような土地だった。雅之はことあるごとに自分の故郷をそう揶揄していたのである。この朱地区にはそういった来歴があることを、梨花は改めて意識した。
やがて道の傾斜は平坦となり、カーブを繰り返しながら杉林を抜けた。右に杉林の斜面が立ち上がっており、左は視界が開け、助手席からでも朱地区の里が見下ろせた。
山肌のうねりに沿った右カーブの途中――空に飛び出すかのごとく、道の左側にアスファルトのスペースが張り出していた。五、六台の乗用車が停められそうなそのスペースに、軽トールワゴンは乗り入れた。この車以外に停まっている車両はない。人の姿も皆無だ。
「来たかったのは、ここ」
言って綾はエンジンを切った。
三人はほぼ同時に車を降りた。
朱地区が一望できた。ドアを閉じた梨花はその眺望に改めて驚嘆した。
「どう?」
綾が梨花の隣に立つなり尋ねてきた。
「すごい。朱が丸見え。しかも家とかがあんなに小さく見える。おもちゃみたい」
梨花は感じたままを言葉にした。
スペースの北側にはガードレールがあり、その外は急な傾斜の崖だ。賢人がガードレールの際に立ち、自分の住む集落の全景を食い入るように眺めている。
「賢人くんも初めてなの?」
梨花が尋ねると、賢人は振り向いた。
「中学生のときに何度か、友達らと自転車で来たよ。でも何度見ても、いい眺めだね。父さんや姉さんの車に乗せてもらってここを通過することはあるから、そのたびに目にしているはずなんだけど、やっぱりこうやって見渡すのは格別だよ」
「でしょう」綾は得意げだった。「わたしね、落ち込んだりしたときは、一人でここに来て景色を眺めたりするの。いい気分転換になるのよね」
「初めて聞いた……というか、ずるいな一人で」
賢人は頬を膨らませた。
「一人になりたくて来るんだし」
切り返した綾が、賢人を横目で睨んだ。
そんなやり取りに顔をほころばせつつ、梨花は眼下の集落の隅々に目を配った。
東西に長い楕円形の平地が四方を山に囲まれていた。雅之から聞いた話では、平地の広さは東西がおよそ六キロ、南北が四キロ前後ということである。山並みが途切れているのは、市街地の方向――県道と一級河川の
県道との交差点から国道をわずかに北上した辺り――国道の右沿いに見えるひときわ目立つ人造物は、大型園芸店だ。一カ月ほど前に開店したらしい。金盛の市街地にあるホームセンターの系列であるが、梨花はまだその大型園芸店を訪れていない。自宅の殺風景な小庭をどうにかしたいからこそ、「明日の帰りにでも寄ってみようよ」と雅之に請うつもりになっていた。
国道を挟んだ大型園芸店の向かいには、広い敷地に囲まれた白くてだだっ広い二階建ての建物があった。金盛市朱支所である。以前は村役場だった建物だ。小学五年生のときだったか、梨花は伯母の淳子の付き合いで一度だけそこに出向いたことがあった。
昭和の後期、朱村だった頃のこの里には、三千人ほどの住民が住んでいた。主な産業である農業や林業の最盛期でもあり、この里の最も活気に満ちた時代だったのである。しかし平成に入ると過疎化が進み、十年前には人口が千人弱まで落ち込んだ。国道や県道が整備され、また新興住宅地が造成されてから――すなわち金盛市と合併する直前には、人口が千五百人程度まで回復したが、農業や林業の後継者は激減し、地政学的には衰退していると言わざるをえないのが現状だ。これらもすべて、雅之の言である。
「綾ちゃん」梨花は綾に顔を向けた。「おじいちゃんの家……じゃなくて、和彦おじさんの家って、どの辺なの?」
言い直しがおかしかったのか、綾は笑いをこらえている。
「そうね……国道と県道との交差点があそこにあるでしょう」
綾は右手で指差すが、そうされずとも、目立つ大きな交差点だからこそ一番最初に把握できたのだ。
「うん、交差点はわかるよ」
「そこから県道を西へたどっていくと」綾は右手を下ろした。「ほら、さっきのコンビニがあるわ」
コンビニエンスストアを認めた梨花は、「あ、そうか」と声を上げた。あとは自分が歩いた道のりを逆にたどればよいわけである。県道をさらに西へ行き、畑の間を北上すれば、芹沢本家宅があるはずだ。
目当ての家屋を見つけた梨花は、自分の記憶にある朱地区のいくつもの風景を眼下のパノラマに当てはめた。これまでは意識していなかった位置関係が、ものの数秒で繫がってしまう。
「おじさんの家、見つかった?」
綾のその問いに梨花は「うん」と頷いた。
芹沢本家宅から北に目を移すと、西から東へと流れる朱川があった。川向こうにも手前側と同じように、田畑や野原の広がりの中に民家が点在している。小学生の頃の梨花はその辺りで綾や賢人と遊んだのだった。葛城家の屋敷はそこから北西のほう、里の外れだが、梨花は今まさにその家屋を見つけたところだった。
梨花は葛城宅を訪れたことがなかった。幼い頃に近くで見ただけであるが、芹沢本家宅と同程度の規模であるのは把握している。
「和彦おじさんの家があるところは
芹沢本家宅の辺りに視線を戻して、梨花は尋ねた。
「そうよ」
綾のその答えを聞いてから、梨花は再度、葛城家の屋敷に目を向ける。
「で、綾ちゃんの家があるところが
「へえ、知っていたんだ?」と綾は驚いたように声を上げた。
「中学生のときにお父さんに教えてもらったの」
父である雅之からは言葉だけで教えてもらったが、繫がった位置関係のおかげで、それが正しいのか、確認するのは容易だった。
「国道と県道との交差点が朱の中心より南東の位置にあって」梨花は言った。「その北西の区画の中に四つの地名があるよね。その区画の中でも一番奥……北西の端に位置するのが神会、その東に
「合っているわ。じゃあ、国道や県道を挟んだ土地も、わかる?」
綾は驚いているというより面白がっている様子だ。
「国道の東側で県道の北側に位置するのが
最後に挙げた土地がほかと比較して広すぎるため、ここに来て梨花は自信がなくなってしまった。その一角には、田舎にしては瀟洒な意匠の二階建ての建造物があった。雅之によれば、小学校と中学校とを兼ねた施設一体型の校舎であり、金盛市と合併した現在でも使われているという。
「いいのよ、それも合っているわ」綾はほほえんだ。「平田は元々はほとんどが田んぼだったの。だから平田という地名なのかもね。平田には本郷や西郷の農家の所有地が多いわ。でも最近は宅地化が進んで、朱の外から移ってきたお宅が集中しているの。数年前には学校も建て替えられたし、あの辺りは昔の朱のイメージじゃないわね」
言われてみれば、平田の土地の半分は田んぼであるが、県道のすぐ南に新興住宅地が造成されており、そこに並ぶ家々も農家の家屋とは趣の異なる今風の造りだ。ざっと見ただけでも百戸以上はあるだろう。
梨花は朱川の流れも気になっていた。里の中での国道はほぼ正確に南北に延びており、県道がそれと垂直に交わっているゆえ、こうして俯瞰すれば、朱川が神会から東郷にかけては東南東という方向に流れている、ということが把握できる。これまでは意識していなかった点であり、そんな発見も、梨花にとっては小さな愉悦だった。
ふと、あることに気づき、梨花は綾に顔を向けた。
「山神様の儀式での火葬祭って、山神様の斎場でやるんでしょう?」
「え、ええ」
虚を突かれたように綾は目を丸くした。
「お父さんから聞いたことがあるんだけど、山神様の斎場って、綾ちゃんちの北のほうだったよね?」
斎場の場所を教えてくれた雅之は、同時に、そこに行くことをきつく禁じた。ゆえに、興味は尽きぬが足を運んだことはまだない。
「そうよ。でも、それがどうかしたの?」
わずかであるが綾の顔に動揺が走った。それが訝しくもあったが、杞憂であると解釈し、梨花は自分の問いを優先する。
「見た感じ、朱地区の民家って、平田を除いて、この平地に平均に散らばっている。山神様の儀式をおこなう家が国道より東にあったり、県道より南にあった場合は、野辺送りが山神様の斎場に向かう途中でそれらの道路を渡るようでしょう? 野辺送りがあるのは夜中だけど、車が通ることはあると思うの。交通規制とかするのかな?」
質問の内容が想像したものと異なっていたのか、梨花には綾が安堵したように見えた。
「ああ……そういうことか」綾は集落に目を移した。「そういう場合は、野辺送りの起点を変えるの。ご遺体は、亡くなられた方の自宅ではなく、山神様の斎場に近い広場……山神様の広場、と呼ばれているところへ霊柩車で運ばれて、そこでお清めをしてから野辺送りが始まるの。けど……この儀式を取り入れる多くの遺族は、この風習にまったくかかわらない人たちに野辺送りを見られるのを嫌うのよ。逆に、この風習にかかわったことのある人でも、よその家で山神様の儀式があるときはその野辺送りを目にすることを禁忌とし、見ないように心がけている。そういった事情があって、山神様の斎場からそう遠くないお宅の場合でも、ご遺族の意向によって野辺送りの起点をその広場にすることがあるの。平成以降は、むしろそのやり方がほとんどね」
それでも芹沢本家では、梨花の知る限り本来の作法に則った野辺送りを続けている。和彦を含めた代々の家長が信心深いからに違いない。ならば仁志の代になる前にこの風習がなくなることは、芹沢家の者たちにとって絶好の機会だろう。また、芹沢本家の近隣の家々も山神の儀式を取り入れている、と耳にしたことがあるが、本来のやり方で野辺送りを出す芹沢本家にとってそれがよい環境なのか否か、どうとも取れるような気がした。
「そうなんだ。野辺送りの起点を変えるなんてやり方があったんだね」そして梨花は、根本的な疑問が残っていることに気づいた。「その山神様の斎場って、ここから見えるのかなあ? 今のところ、それらしき場所が見つからないんだけど」
「それはね……」
綾は明らかに渋っていた。先の動揺は杞憂ではなかったらしい。
「姉さん、どうしたんだよ?」
いつの間にか、賢人が梨花の隣に立っていた。
「どうもしないけど」
視線を落とした綾を前にして、梨花は気がとがめた。
「賢人くん、別にかまわないんだよ。お父さんにも言われているの。ここの風習については何も知らなくていい、ってね」そして梨花は綾に頭を下げた。「綾ちゃん、余計なことを訊いてごめんなさい」
綾はすぐに首を横に振る。
「いいのよ……余計なこと、って言ったって、梨花ちゃんもかかわっているんだし。それに変な風習だもの、気にして当然よ」
「姉さんも、変な風習だって思っているの?」
賢人の問いただしに綾はため息交じりに頷いた。
「まあね。変な風習だからこそ、賢人も何も知らないままでいるのがいいんだよ」
「何も知らないというか、山神様の斎場に行ったことは、あるよ」
その言葉を受けて綾は驚愕の表情を浮かべた。
「そんなに驚くことないじゃん」賢人は呆れた様子である。「朱の里の男なら、ほとんどのやつが小中学生のときに一度くらいは行っているよ」
「お父さんやほかの大人の人にも、絶対に行くな、ってきつく言われたじゃない」
語気を強めた綾が、賢人を睨んだ。
「なんでそんなにムキになるのかな」賢人は肩をすくめた。「山神様の斎場って確かに薄気味悪いところだったけど、雑木林の中に祭壇のような巨石があるだけで、特に何もなかったよ」
「賢人!」
突然の罵声に賢人だけでなく梨花も肩をすくめた。
「今後は絶対に行かない、って約束して」
「わかったよ。それにもう高校生なんだし、あんなところで遊ぼうなんて思わないさ」
さすがに賢人は畏縮したようだ。
「車の中でちょっと休憩する」綾は声を落とした。「あなたたちはゆっくり見ていて」
そして綾は、軽トールワゴンの運転席へと戻った。
綾をねぎらう言葉が見つからず、梨花は朱の里に顔を向けるしかなった。
「参ったな」
賢人は片手で頭をかいた。
「綾ちゃんは賢人くんのことを心配しているんだよ」
どうにか思いついた言葉だった。
「心配も何も、山神様の斎場なんて、別段危険なところじゃないんだよ」
言って賢人は、ガードレールに尻を乗せ、車道に正面を向けた。
横目で見れば、綾は運転席で顔をうつむかせている。
「周りの大人たちの視線があるじゃない」梨花は賢人に視線を戻した。「きっと、綾ちゃんはそれを心配しているんだよ。賢人くんがほかの人に責められはしないか、って」
「まあ、それもあるんだろうけど、葛城家の体裁も気にしているんじゃないかな。山神様の儀式を執りおこなう一族としての体裁をね」
否定したい言葉だったが、賢人までを興奮させるわけにはいかない。
梨花が黙していると、「ああ、そうだ」とつぶやいた賢人が、ブレザーのポケットからスマートフォンを取り出した。
「連絡先の交換をしようよ」
不意の申し出に梨花は面食らった。
「また仁志さんの嫌がらせがあるかもしれないし、そのときは連絡をくれよ」
「えっと、そうだね」
男子との連絡先の交換など、梨花にとっては初めてだった。鼓動が高鳴るのを覚えながら、梨花もスマートフォンを取り出す。
気後れを感じて再度、横目で綾の様子を窺うが、彼女は顔をうつむけたままだ。
メッセージアプリと電話での連絡が取れるようにし、お互いにスマートフォンを戻した。
「車に戻ろうか」
興奮冷めやらぬ梨花だが、どうにか口調は落ち着けた。
「うん」
ガードレールから離れた賢人が、梨花の目の前で足を止めた。
「山神様の斎場」賢人は梨花の顔を見ながら言った。「おれの家の真北にある山……その東側の麓だよ。雑木林の中だから、ここからじゃ見えないんだ」
そして賢人は歩き出し、軽トールワゴンの後部座席に着いた。
梨花はもう一度、朱地区の里に目を向けた。
葛城宅から真北の山に視線を移す。
杉に覆われた稜線は葛城宅から北東へ数百メートルの位置で平地へと至り、そこにそれらしき雑木林があった。
禁忌の一帯の場所を確認した梨花は、軽トールワゴンに戻るべく振り向いた。
綾はまだうつむいている。
ふと、儀式の立会人の岸本を思い出した。彼は金盛市の職員だ。綾も同じく金盛市の職員なのだから、たとえ支所に勤めている岸本であろうと、その彼とは面識があるかもしれない。とはいえ、今の綾にそれを尋ねるのは気が引ける。
梨花は黙したまま助手席のドアを開けた。
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