第4話 若き少女の初陣 Part2

 光時は沙耶子を抱きかかえると2,3歩助走をつけ、高さ25mほどの屋根から無造作に飛び降りた。工学部5号館は講義室が主であり研究室が入っていないためこの時間、灯りのついている部屋は無かった。それでも体育館から漏れてくる光と街灯によって十分な光量が確保されていた。光時が上空を仰ぐ。月没は10分ほど前であったが、都市の灯りに遮られそれほど多くの星を見ることはできなかった。それでも中天近くにアークトゥルスを見つけることができた。わずかに西に目をやるとデボラが見えた。南のスピカも神戸の街灯りに消されることなく辛うじて見ることができた。「来た。」短く光時が注意を促し、鋭く前方を見つめる。正面にはキャンパスと六甲の山並みを隔てるフェンスが見える。「光学偏差を確認。3°」彼が見つめる先に何も変化は伺えない。「掛まくも畏きこの秋津洲(あきつしま)を領(うしは)き坐(ま)す天照大神の広前(ひろまえ)に宮司(みやつかさ)神宮沙耶子(じんぐうさやこ)が恐れ恐れ(かしこみかしこみ)申さく。侵し来る異界の禍事断ちて現世と分け隔て穢れを朝(あした)の御霧夕べの御霧を朝風夕風の吹き払う事の如く祓ひ清めて諸人の守護(まもり)導き幸(さきは)へ給へと、恐れ恐れ(かしこみかしこみ)乞(こ)ひ祈(の)み奉(まつ)らくと白(まを)す。」沙耶子が祝詞を寿(ことほ)ぐ。最初の言葉が彼女の口から放たれる前に一枚目の白く輝く神威壁が現れた。瞬く間に神威壁の数は増え、現出点を中心にドーム状の結界を形成した。その間2秒もかからなかった。「さすがは主斎の巫女。」正面を注視しながら光時はその手際の良さに唸らせられながら、今回の穢れ払いを沙耶子と任(あたる)よう告げた正階の巫女から祝詞は精神集中のための儀式であり神威を駆るために必須なものではないこと教えられたことを思い出した。「光学偏差30°」光時が見つめる正面に10mほどの距離を置いて、直径5mほどの円形に風景が切り取られそこのフェンスが消え、少し仰ぎ見なければならないはずの山肌が見えていた。「光学偏差90°」正面にアークトゥルスが見えた。「光学偏差180°」光時が淡々とした声で告げる。正面に光時自身の倒立像が見えている。「来るぞ・・・現出。」先ほどまで光時が写っていた境界の風景が暗転し、波立つ。小波(さざなみ)が引くと薄っすら光が漏れてきた。摺りガラス越しに眺めるようにぼんやりとした面に黒い影がうねる。何かの鳴き声が聞こえてくる。そして、摺りガラスのような面が徐々に透明になっていく。「アンギャ―、アンギャー」甲高い赤子のような鳴き声がはっきりと聞こえてくる。「ここでも始めは梁渠(リョウキョウ)か。」光時が16式Ⅹ線パルスレーザーアサルトライフルのセレクタポジションを「ア」から「タ」に押し上げながら呟く。成人男性ほどの背丈の生革を剥ぎ取った狸に人の赤子の頭をねじ込んだような不気味な姿の獣が駆け込んでくる。境界を越え、頭をこちらの世界に出した瞬間を違わず打ち抜く。パルス幅1m秒、マズルエネルギー2kJの高エネルギーX線レーザーが異形の怪物を射抜く。1秒間に1,2体が絶え間なく侵入を試みる。仲間が撃ち殺されても怯むことなく突っ込んでくる。甲高い赤子の声に交じって「ギョー、ギギュョー」とカラスを押しつぶしたような声が混じってくる。「嘲風(チョウホウ)か。」光時はレーザーアサルトライフルのセレクタを素早く「レ」に切り替えた。この世界と異界を隔てる直径5mの領域の上半分から翼長1mほどの蛇にカラスの羽を付けた異形が飛び込んでくる。かなり速い。プロペラ機程度、時速500kmは出ている。その速度で10m先の壁から突然現れる敵を確実に迎え撃つ。人の反応速度ではない。それでも、徐々に嘲風に圧されてくる。頭しか見えなかったものが両翼まではっきりとこちら側に入り込んでいた。嘲風の攻勢が強まるにしたがって首筋に埋め込まれた封鬼子からチリチリと嫌なノイズが発せられる。敵の接近に無意識に転身を行おうとしている。「身内からの仕打ちで戦いの最中に意識が飛ぶとか、かなりの無理ゲー、いや、クソゲーだな。」射撃を続けながら光時が愚痴をこぼす。「エミッションボムを使用する。BOAV(bipolar optical amplifier vision)の装着を確認。」光時が沙耶子に鋭く指示する。「BOAVの装着完了。エミッションボム使用宜し。」沙耶子が応えた。光時はベルトから金属筒を取り外すと器用に片手で先端のキャプを回し、境界面に投げ込んだ。続けて2本投げ込む。3秒ほど間を置いて、凄まじい閃光が走る。スタングレネードのような音はしないが直視すれば視力を確実に奪われていたであろう。梁渠と嘲風の勢いが目に見えて弱まる。「轟」境界の向こうから地鳴りにも似た重低音が響いてきた。始まりから2分。それまで途切れること無く続いていた梁渠と嘲風の侵入がピタリと止む。境界に巨大な影が浮かび上がる。一見すると黄金色のホッキョクグマにも見える。但し手が非常に長い。4m近い巨体を直立させても軽く地面に届いている。手の先端には剣鉈のような分厚く鋭い刃渡り70cmほどの爪が付いている。腕と併せるとその間合いは4m近い。体重も1tを超えていそうだ。「鯀(コン)か、厄介だな。」影が境界を越えようとした瞬間にX線レーザーを叩き込む。光時は人間には見えないX線が鯀の毛皮で弾かれたことを見てとった。「やはり効かないか。」胸元のホルダーにⅩ線レーザーライフルを固定し、腰に差した大型懐中電灯のような金属円柱を抜き取る。スイッチを押す。長さ1.5mほどのセラミック製ロッドが伸展する。もう一段スイッチを押し込むとロッドの表面が明るく輝きだした。セラミック表面に開けられた無数のインジェクションポートから高エネルギー大気圧プラズマが噴き出す。大気中での平均自由行程は短くロッドの表面は赤紫色に明るく輝いているが3mmも離れると拡散しぼんやりとした光になっていた。ハリウッド映画に出てきた宇宙の騎士が持つ光の剣と似ている。鯀が境界を越えて現世に踏み込む。光時が光の剣を正眼に構え、異世界の怪物と対峙する。ゆっくりと歩を進めていた鯀が急に加速する。巨体に似合わず速い。両者が一気に間合いを詰めると鯀がバックハンドで左腕を一閃する。光時の間合いにはまだ入っていない。轟と風が唸る。光時は体を沈めながらその一撃を躱し更に前に出る。光時の視界を左腕が塞いだ瞬間、下から右腕が噴き昇ってくる。光時は左腕を追うように鯀の体を回り込む。光時の左肩を鯀の右爪が軽く抉る。怯まずそのまま内懐に踏み込む。間合いに入った。そう光時が確信した瞬間に、鯀の左腕が振り切られる前にいきなり方向を反転させる。人にはできない動きだった。行き足を落とすことなく地を這うように体をさらにかがめる。頭上を左腕が音を立てて通り過ぎる。光時が地をすべるように鯀の内懐に飛び込む。光の刃が鯀の腹に突き刺さろうとしたまさにその時、「1201(ひとふたまるいち)、槍(そう)」サヤコの叫びとともに天頂付近の神威壁の一点が伸び、槍のように鯀の頭上から襲い掛かる。鯀が軽くスウェーバックし、光時との距離を取りながら頭頂への一撃を躱す。槍は鯀の顔の表面を滑り今まさに懐に飛び込もうとする光時を突き抜こうとした。「危ないっ!」沙耶子が絶叫する。光時は身を捻り、転がりながら躱すと、鯀と距離を取り再び対峙した。「タイミングは文句なしだ。方向が悪かったな。その調子で次も行こう。」鯀から視線を逸らさずサムアップでサヤコの絶叫に応える。「でも、少し落ち着いて。鯀に対しては毛並み方向への刺突と側方からの斬撃はいなされる。毛並みに逆らい下側からの刺突が有効だ。寮で教えてもらったことを良く思い出して。次は俺がタイミングを指示するから。」今度は光時から一気に踏み込み間合いを詰める。再び鯀の爪の斬撃が襲い掛かる。「同じ動きか。芸がないな。」シニカルな笑いを浮かべるとさらに踏み込む。振り抜いた爪を強引に引き戻してくる。先ほどと全く同じ展開を繰り返す。光時が下から突き上げる。鯀が上体を屈めを光時の頭部に牙を立てようとする。「1212(ひとふたひとふた)槍用意。」光時は剣を手放すと、引き戻された腕を取り、体を反転させると牙を立てようと屈み込む相手の勢いも乗せて、その腕を引き込む。鯀の巨体が光時の肩を支点に宙を舞う。「撃て。」光時が短く命じる。「1212槍。」沙耶子が応えた。宙を舞う鯀の足が完全に天を向いた瞬間、神威の槍がその体を串刺しにした。「GyuuuuRuuuuuuu」異界の怪異の断末魔の絶叫がキャンパスに響くも、直ぐに静寂に覆われる。「修祓を」神威壁を抜けながら少し呆然とした沙耶子に光時が声を掛けた。はっとしたように我に返ると二つの世界を分かつ祝詞を唱える。瞬く間に境界は薄れ、通常の風景が戻ってくる。

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