湖の中央に浮かぶ島の大きなエーテル溜まりに比べると小さいが、付近に局所的なエーテル溜まりがある。昨日に指定された場所もその一つで、周囲の木よりも一回り太い大木が如実に表していた。

 大木を見上げると華蓮が細い枝葉の先に立っており、俺の到着に合わせて降りてきた。


「よしよし、ちゃんと体外のエーテルを感じ取れているみたいね」


「それ以外は何もできませんがね。先ずは何から始めます?」


「そう急かさずとも、話に花を咲かせるつもりはないわ。氣についての解説から始めましょう、そこに座りなさい」


「はい」


 指示に従って大木を背に座禅を組むと、華蓮は棒を拾って地面に簡略化した人体の絵を描いた。腹部の中心よりやや下辺りを丸で囲い、丹田と書き記す。


「氣は種族に関係なく、どんな生物も丹田を持っているから氣が流れている。仙人だけでなく一部の武人も氣を扱い、時には命の危機に瀕して無意識に扱う者も居るけど、黎人にそんな危険を冒させるつもりはないから安心しなさい」


「命の危機……火事場の馬鹿力とか、そういうのですか? 身体への悪影響はありませんかね」


「一般大衆ではそう呼ばれるけど、門みたいに備わっている力なのよ。既に黎人は一般人よりも肉体の強度が一段階上がっているから、無茶をしなければ怪我の心配や悪影響の心配も不要ね」


 常に100%の力を発揮すると骨や筋肉等を損傷してしまい、日常生活では脳が安全装置の役割を果たして全力を発揮できないとされている。また脳の稼働率が全体の一割しか使えておらず、それに伴い本来の力を引き出せないという説もある。

 門や氣といった力は後者に分類され、適切な手順と段階を踏めばリスクを最小限に抑えられる。どんな力にも大なり小なりリスクは付き物で、覚悟した上で扱わなければならない。


「無茶というと、例えば?」


魔力マナは身の丈に合わない力を引き出しやすい傾向にあり、二度と魔法を使えない身体になったり、最悪身体を消し飛ばすリスクがある。それに対して氣は身の丈に合わない力を引き出しにくく、代わりに負の感情の影響を受けやすい。実はこれが仙術を磨き、己の肉体と精神を鍛える理由の一因なのよね」


「氣のリスクを最小限に抑えるなら負の感情を抑制する、延いては己を律する精神を鍛えるだけで済むと思いますが、仙術と肉体も鍛えておけば不測の事態に対応できるからですか?」


「それもあるけど、一番の要因は心魔よ。仙人のみならず氣を扱うものは心魔を生み出す可能性が付き纏うの」


 丹田の上、胸の内に心と書かれ、人体と向き合う形で人型の悪魔みたいな存在が描かれる。負の感情、カルマ、欲望といった人間の悪い側面が羅列され、心魔こそ仙人が精神だけでなく仙術と肉体を鍛錬する要因なのだ。

 聞き覚えがある名称だが、図と華蓮の言葉から読み取るに人自らが生み出し、時に闘わねばならない悪しき存在なのだろう。


「華蓮さんは心魔と遣り合った経験がありますか?」


「私は心魔を生み出した経験がないけども、五百年ほど前に最初の師が生み出した心魔と交戦したわ。生み出した者の力量、負の側面の深さが合わさった心魔は並大抵の魔物より遥かに強く、師と力を合わせて三日三晩の死闘の末にどうにか倒せたわ」


(華蓮さんと華蓮さんの師でさえ、苦戦を強いられる心魔。そんな存在をこの世に解き放たないよう、健全な精神を保たねばならない……か)


 精神が弱いという自覚があるだけに、心魔の存在は厄介極まりない。そんな俺の懸念を拭うように、華蓮が肩を叩いた。


「黎人なら大丈夫、もしも心魔が現れたとしても打ち勝てる。氣は負の感情の影響を受けやすいけど、逆に正の感情も大きく影響を与える。何事も信じる心が力に成るのよ」


「信じる心ですか……慢心だけには気を付けて、自分を信じられるようにやってみます」


「自ずと注意点も把握しているのなら、私からは何もないわ。さ、解説は終わりにして、氣の知覚から始めましょう。知覚自体は私が誘導するから、準備はいい?」


「はい、お願いします」


 瞑想に入ると華蓮が腹部に触れ、丹田を通じて俺の氣に干渉してくる。

 これまで認識していなかった臓腑から身体の各器官を通過し、全身を駆け巡るエネルギー。エーテルとは微妙に感覚が異なり、強いて言うならばが違う。エーテルの色は紅く、体の芯から温まる感覚と似ているのだが、氣は無色透明で空気が体内に流れているように感じられる。

 普段から見慣れすぎて、普段から身近にありすぎて、そこに有るのに認識できない。この特徴こそが氣は万物と自然界に存在するという真意なのだ。


(どんな色にも変色し得る、変幻自在の無色。万物に宿りながら、それが当然であるが故に恩恵を得られにくい。視ろ、感じろ、認識しろ、観測しろ、掌握しろ―――)


 目には見えない、肌で感じとれない、認識できない、有無を問えない、この手で掴めない。意識、思考、肉体に刻まれた否を逆転させ、氣を知覚できる状態に上書きする。

 丹田を中心に指先の毛細血管まで、ゆっくりと丁寧に情報を更新。次第に体内の氣を感じ取りやすくなり、ひと呼吸を挟んで終わりにした。


「どう? 氣がどういうものか、理解できた?」


「大まかには理解できました。次は氣を練り上げる……加工しやすいように準備するのですね?」


「そうね、氣を練り上げるのも準備段階に過ぎない。ここから先は黎人一人でやってみなさい」


「はい」


 再度瞑想を始め、気を練り上げる段階に移る。練るという行為で連想するのは練り飴だ。

 練り飴は練ることで空気を含ませて固くさせ、棒から垂れるのを防ぐ。それと同様に氣も集めて練り上げ、物体として成立させる基礎を概念的に固めるのだ。


(無色透明な流体を丹田という棒で練る―――頭では分かってても、やはり実行に移すのが難しい。これまで丹田を全く使っていなかったのもあるが、棒みたいに二本ではないもんな)


 丹田は一つ、棒みたいに練り合わせられない。

 練り飴繋がりで次は飴が思い浮かび、脳裏で飴を捏ねる映像が流れ、そこから更にパンの生地を捏ねるイメージに至る。


(飴は練るという表現だが、パンの生地は捏ねるという表現だ。意味合いは同じなのに、こっちの方がしっくり来る)


 丹田に流れてきた氣を逃さないように集め、パンの生地を捏ねるみたいに氣を捏ねる。捏ねた氣は丹田内から流れようとせず、自然と蓄えられた。初めて丹田を使用した影響で腹部が熱を持ち、成長した証だ。

 それから更に練り上げ、蓄えた氣を膨らませる。そこでふと、体内のエーテルと練り合わせたらどうなるのかという興味が湧いた。エーテル自体の操作はまだ習っていないが、体内のエーテルを氣に練り合わせるだけならば難しくない。


(エーテルを捏ねるのではなく加える要領で―――やれる、俺の意思に関係なくエーテルが氣に変換されていく。これが華蓮式吸気法か、なんて効率的なんだ)


 第一門のみだと効率は悪いが、華蓮みたいに第七門まで開いて複数のエネルギーを氣に変換できるのならば、正統派の仙人よりも高効率で氣を集められる。そして丹田の稼働率が高ければ成長速度も早く、通常よりも一足飛びで境界を上げられる。

 一段落ついたところでパンと手を打ち鳴らした音が鳴り、何事かと瞑想を中断した。


「な、何ですか?」


「今日は終わり、外だと十八時頃かしら。後は徐々に慣らせばいいから、帰ってからやりなさい」


「……また時間が飛んだのですが、どうにかなりません?」


「フロー状態と呼ばれる、一つの物事に集中力が注がれて時間感覚を失う状態に入っていたのよ。雑念に囚われず、真摯に取り組めている証拠じゃない」


 体感として一時間も経っていないのだが、どうやら時間感覚を削ぎ落とす程の集中力を発揮できていたらしい。ゲームに集中するあまり、いつの間にか一日が終わっていたのと似ている。

 華蓮の手を借りて立ち上がり、伸びをすると気持ちいい。


「ん~、あ~。こうして帰宅するのも億劫になりますね。どうせなら朝から晩まで修行したいのですが、どうにかなりませんか?」


 森とマンションが近いとは言え、毎回行き来するだけでも数分の時間が無駄になると思うと、途端に帰る気が失せてきた。

 解決策はないかと華蓮に尋ねると、意外にも華蓮は簡単な解決策を提案してきた。


「黎人のご両親に挨拶して、了承を得るしかないでしょう。そのうち挨拶しようと思っていたから、この機会に挨拶だけでも済ませておこうかしら」


「母に魔法の先生という体で話してしまいましたが、俺の予想が正しければ母だけでなくも喜んで了承しますよ」


……?」


 父親をあいつ呼ばわりする俺に華蓮が訝しみ、隠すことでもないので正直に話す。


「元の世界の父親あいつは俺が働き始めたら早期退職し、老後まで養ってもらうつもりでした。俺を搾取子としか見ていなかったんですよ、父親あいつは……きっとこの世界でも、裏ではそう思っています」


「ふむ、それは厄介な父親ね。私も魔法の先生という体で挨拶するつもりだったけど、難なく話が進みそうだわ。私に任せなさい、黎人」


 華蓮に優しく拳を握られ、無意識の内に力強く握り締めていた拳から力が抜ける。

 一度目の人生において、生きる意味を見失わせたに怒りを覚えなかった。大人、しかも両親に真っ向から抵抗しても無駄だと思い込んでおり、自堕落に時間を浪費する形で抵抗するのが精一杯だった。

 だというのに今は何故か、怒りを覚えていた。の顔を一発殴り飛ばしたいくらい、衝動的な激しい憤りが身体の内側で渦巻いた。

 深呼吸で負の感情を吐き出し、気持ちを切り替える。


「これから家に来るのはいいですが、父親あいつは居るかどうか分かりませんよ? 昨日、帰って来なかったので何をやっているのだか」


「冒険者なら一日、二日ぐらい家を空けるのはざらじゃないわ。居なかったら日を改めて……いいえ、事後承諾でも問題ないでしょう」


「そうですね、寧ろ熱心に取り組んでて喜びますよ」


 魔法の先生の下で魔法を習っていたと伝えれば、事後承諾でも都合が良い捉え方で喜ぶだろう。これには華蓮にも憐れられ、ため息しか出てこない。

 いざ俯瞰的に言動と思考から予測を立てると、こんなにも扱いやすい相手が父親で情けなくなってくる。そんな奴に生きる目的を見失わされた俺も俺なのだが。


「それでは帰りましょう、こっちよ。精霊の森の歩き方もそのうち教えないとね」


「精霊の森で迷子になりたくないですね……」


 華蓮と共に精霊の森を歩き、外に出ると日が沈んでいた。

 同じ棟に住む会社帰りのサラリーマンは皆一様に華蓮を物珍しそうに眺め、道士服で出歩く人は大和だと極少数なのだ。服装ではなく容姿に惹き付けられ、鼻の下を伸ばしている者は半数ぐらいか。

 エレベーターに乗ると九階の番号を押し、扉が閉まると一階に住むサラリーマンは名残惜しそうに華蓮を見届けた。後で噂されるのが目に浮かぶが、他者の目なんて気にしている暇はない。

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