第40話 心象世界(夜見塚咲) 第一幕

「――澪、起きて。……驚いたよ。まさか、こんなところまで来てくれるとは思わなかった」


 懐かしい声で目を覚ます。瞼を開くと、焼けただれたような夕暮れの空を背景に、五年前と寸分違わぬお姉ちゃんの顔が目に飛び込んできた。黒く艶のある長い黒髪。和風美人という形容のしっくりくる、くっきりとした両目。貞淑な印象を受ける唇。ゆるやかなカーブを描く、シャープな輪郭。私は自然と泣きそうになっていた。あんなことがあった手前、感動の再開と呼ぶことはできない。けどそれでも、こうして亡くしたお姉ちゃんの顔を間近で見て声を聞けば、こみ上げてくるものがある。私は、視界が少しずつぼやけていくのを感じる。


 お姉ちゃんはそんな私のことを非難するでも侮蔑するでも嘲笑するでもなく、「泣かないでよ、もう」とサラリと言って、指先で私の目元を拭ってきた。


「ほら、立って。家に帰ろう? お互いに言いたいことはあるだろうけど、話はそれからね」


 お姉ちゃんが手を差し伸べてくる。藤紫色の一重の着物の裾から、沙条さんの程ではないけれど、育ち盛りの少女のものとしてはあまりに細い腕が覗いている。私が恐る恐るその手を掴むと、お姉ちゃんは意外なほど強い力で、ぐい、と私の体勢を起こしてきた。


 今更ながら、私もお姉ちゃんと同じで和服に身を包んでいることに気がついた。私がよく着用していた、シンプルな紺色の一重だった。


 今いる場所は、お姉ちゃんが病気になるまで私達がよく遊んでいた原っぱだった。何の変哲もないなだらかな野原が広がって、ずっと向こうには葉の緑と影の闇が入り交じった森がある。森からはひぐらしの鳴き声が聞こえてきて、寂寥と郷愁を掻き立ててきてやまなかった。


「ねえ、覚えてる? 確か、澪がまだ小学校低学年だった頃かな。二人で、あの森の奥の方まで探検しに行ったこと」


「……うん、覚えてる。言い出しっぺは私だったのに、薄暗さと静けさに怖くなった私が泣き出して、そんな私を、お姉ちゃんがおんぶして連れ帰ってくれたっけ」


「へぇ、意外。結構小さかったから、忘れちゃってるのかと思ったよ」


「忘れないよ、そんなの。お姉ちゃんとの、大切な思い出なんだから」


 私は目を細めると、森の奥深くへ今まさに踏み込んでいく、小学生の私と、中学生のお姉ちゃんの姿を幻視した。でもそれは幽霊か何かのように、立ちどころに消えて見えなくなる。


 しばらくぼんやりと森を眺めていた私達だったけど、「行こうか」とお姉ちゃんが言うので、私は立ち上がり、お姉ちゃんに先導される形でこの何もない田舎――私達の故郷を歩き始めた。


 斜面を登るとあぜ道に出る。それに沿って、立派に育った稲穂とたっぷりの清らかな水を湛えた田んぼがずらりと並んでいる。ところどころに、ぽつり、ぽつり、と古めかしい茅葺屋根の和風家屋が点在する形で建っている。すぅ、と深く息を吸い込んでみると、土の匂いが鼻腔をくすぐる。決していい匂いではないのだけれど、不思議と心が安らいでくる香りだった。


「ほら、ぼさっとしてないで。早く帰らないと、日が暮れちゃうよ」


「あ、うん。ごめんね、お姉ちゃん」


 お姉ちゃんに手を引かれ、立ち止まっていた私は足を動かす。この状況のあまりの違和感のなさに、私は驚く。お姉ちゃんがいなくなってから五年が経つというのに、こうして手を引かれて家に帰るのが変わらない日常であるかのように思えて仕方なかった。


「そういえば、カナはどうしたの? あともう一人、入ってきた感覚があったけど」


「ああ、カナは私達のことを見てるだけだよ。魂の出力先を、お姉ちゃんの心象世界の一歩手前に留めておいたから。カナがこっちに来ようと思わない限りは、干渉はできないはず」


 あぜ道を暫く進むと、ちろちろと流れる川幅二、三メートルの小川に差し掛かる。川面は夕焼けの陽光を反射して、白々と輝いている。当たり前だけど護岸工事なんかされていなくて、両岸には背の高い下草が野放図に生えている。今にも崩落しそうな丸太橋を渡っていると、真ん中あたりでお姉ちゃんが歩みを止めた。ねえ、とお姉ちゃんが私の方を振り向きながら、声をかけてくる。燃えるような茜色の斜陽に照らし出された横顔は、まさしく振り向き美人という表現がしっくりくるものだった。妖艶でもあり、可憐でもあり、無垢でもあって。


「この川さ、夏になると毎年、蛍が綺麗だったよね。一回、二人だけで見たりもしたっけ。私が街の方に行ったときに花火買ってきて、それをやりに川辺行ったときに。覚えてる?」


「うん、覚えてるよ。蛍なんか見飽きてるはずなのに、あの日だけは心が弾んだ。きっと、二人きりだったからだよね。夜中に庭で花火なんかしてたら他の人達に目をつけられそうだから、二人で内緒で家を抜け出してこっちまで来てさ。ちょっとした冒険気分だったよね」


 原っぱのときのように目を細める。河原を歩く私とお姉ちゃんの後ろ姿が、朧気に視界の上に浮上してくる。幻の私達は二人で顔を見合わせると、我慢できないとでも言いたげに忍び笑いを漏らした。近くに人がいるわけでもなし。大声で笑ったところで気づかれるはずはないのに、唇に指を押し当てて、しーっ、と注意しあっては、また声を殺してクスクス笑って。


 それは多分、私だけでなくお姉ちゃんにとっても幸福だった記憶なのだろう。まだ夜見塚の呪いによる熱病に冒されていない、私達が仲睦まじい姉妹でしかなかった頃の思い出だから。


 気づけば、その幻影は黄昏時の光の揺らぎの中に消えていて、私は仄かな寂しさに胸を刺激される。行こう、とお姉ちゃんに促されて歩き出す。いつの間にか私達は、すっかり横並びになっていた。手をしっかりと握りあって、肩と肩とが触れ合って。


 両脇を雑多な種類の広葉樹に覆われた道に出る。緩やかにカーブした、天然のトンネルのようなその道を進んでいく。段々と勾配が出てきて、何度かの折返しを経た後に、急速に視界が開ける。そうして現れたのは、私とお姉ちゃんが共に暮らした、生家だった。


 お姉ちゃんが、門の前でピタリと足を止める。繋いでいた手をそっと解くと、私のことを冷淡な瞳で流し見て、「じゃ、始めようか」とあっさりと呟いた。


 門を勢いよく開け放つと、私の背中をドン、と強く押してきた。私は前につんのめりながら、白々と眩い光が充満していた門の向こうへ、足を踏み入れる。


「……っ、は、はぁ?」私は素っ頓狂な声を上げて、愕然とした。だって門の向こう側は、私が慣れ親しんだ生家の敷地なんかじゃなくて、荘厳華麗な大ホールだったのだから。


 天井は極めて高く、吊り下げられた豪勢なシャンデリアが室内を絢爛に照らしている。床のタイルや壁紙には複雑な文様が施され、ホール内には軽快なピアノ音楽が鳴り響いている。そんな中、如何にも高級そうなスーツやドレスに身を包んだ等身大の顔のない人形たちが、ペアになって優美にダンスを踊っていた。早い話が、絵本に出てくる舞踏会の様相だった。


 私は自分の服装が、いつの間にか和服からゴスロリに様変わりしていることに気づく。しかも、お姉ちゃんから誕生日プレゼントとして貰った思い出のゴスロリだ。黒色の艶美なスカートはバニエでふっくらと膨らんで、裾は白色のフリルと精緻なレースで縁取られている。所々に十字架があしらわれ、胸元には目を引く鮮やかな真紅のリボン。街中を歩けば目立つであろうこの服装も、舞踏会の中とあっては逆に馴染んでいる。


 ……え。何なの、この状況は? ゾンビ並みの唐突な展開に唖然としながらも、私はキョロキョロと周囲を見渡してお姉ちゃんの姿を探す。


「――ああ、澪。忌まわしき夜見塚の血を分けた、我が罪深き妹よ。耽美を極めたように、瀟洒で美麗なドレスに身を包んだ今の貴方は、なんて愛らしいのでしょう……!」


 突如として、お姉ちゃんの芝居がかった台詞がホール内に響き出す。どこか一方向から聞こえてくるものではなくて、天の声、と形容するのがしっくりくる類のものだった。


「健康的で張りのある四肢。生気の灯った柔らかな頬。深みのある黒色の眼。艶美で可憐な妹は、まさに童話から飛び出してきた姫のよう。けれど私は……ああ、なんてこと! 私の容姿の病的さといったらない! 死人を思わせるような悍ましさといったらない! 病床に伏した私の腕は枯れ木のように脆弱で、肌は枯れ葉のように艶がない。なんて悲劇なのでしょう。私には彼女のように、可愛らしい洋服を着こなすことなど叶わない……!」


 お姉ちゃんの語り口に深い哀切が混じりだす。私はなおも必死でお姉ちゃんの姿を探す。


「私に許すことができるでしょうか? 私のことを差し置いて、着飾って舞踏会へと出かける悪魔のような妹を! ……いいえ、いいえ! 決して許すことなどできやしない! 私から奪ったドレスで、踊ることなど許しやしない……!」


 お姉ちゃんが憎々しげな声で言い放つ。瞬間、床一面が墨汁のような暗黒に覆われた。一瞬にして行われた不気味すぎる舞台の変化に私が慄然としていると、まるで泉から水が湧き出すかのようにホール中央部に暗黒がせり上がってくる。それは人の身長ほどの大きさになると突然弾け、中からお姉ちゃんが現れた。生前、病床に伏してから着用していた白色のパジャマに身を包んでいる。シミひとつない純白を湛えたそれは、不思議と死装束のようでもあった。


 お姉ちゃんはそこはかとなく妖艶な憂い顔になりながら、すぅ、と細い指先を虚空に踊らせる。たちまち、まるで魔女の行う召喚術か何かのように暗黒から大量の骸骨が現れた。周囲を見回すと、踊っていた人形たちも服装こそそのままだったが、気づけば骸骨へと変化していた。


「だから私は、乗っ取るの。今宵の舞踏は、死の舞踏。見るも憐れな、骸骨たちの晴れ舞台。――さあ、澪。命尽き果て、肉が腐って骨と化すまで、私の前で踊って見せて?」


 瞬間、ホール内の骸骨たちが一斉に襲いかかってくる。ゾンビ程ではないにしろ、こうして間近で見せつけられると大変にお気持ちが悪い。私はうげ、と顔をしかめながらも、取り敢えず抵抗を試みようと武器を出すことにした。心象世界はイメージの世界だ。カナや瑞稀が霊槍を出していたように、その気になれば得物の一つや二つは創り出せるはず。


 手元に出現したのは、日本刀……よりは短い和風の刃物だった。多分、脇差と呼ばれるものだ。でも何故に? 舞台設定的に、レイピアとかが出てくるものだと思ったんだけど。まあ、使えればなんだっていいか。私は脇差を適当に構え、襲いかかってくる骸骨たちを迎え撃つ。


「お姉ちゃん! こんなことするのやめてよ! 私、わかってるんだよ! お姉ちゃんは誰よりも優しい人だってことくらい! ……その、夜見塚の呪いのせいで死んじゃって、それが無念なのはわかってる! でもだからって、私はお姉ちゃんと傷つけ合いたくなんか――」


「はぁ? それ本気? 澪さぁ、もしかして私が単に、呪いのせいで命を落とす羽目になったからって理由だけで、あんたのことを逆恨みしてると思ってるわけ?」


「……え? ち、違うの? だってお姉ちゃんはさっき、そう言って……」


「違う。全然違う。本当におめでたい妹ね。それはあくまできっかけに過ぎない。根本的な理由はもっと、別のところにある。呪いとは無関係な、澪個人を憎むにたる理由がね」


「別の理由って、なにそれ……? それこそわからないよ! だって私、お姉ちゃんの恨みを買うことなんて、何も――いったっ⁉」


 会話のおかげで手のほうが疎かになり、骸骨の繰り出してくる掌底づきをもろに食らった。私は報復に脇差の刃を叩きつける。鋭い打撃音。が、それで骸骨の骨を断ったりすることは不可能だった。どれだけ全力で脇差を振るおうが、骸骨は怯むことなく立ち上がり、再び襲いかかってくる。一切ダメージが与えられてないようだった。


「あーあ。本当は魔眼を潰すだけで勘弁してやろうと思ってたんだけど……なんか、五年前から少しも変わってない厚顔無恥さに苛ついてきたな。ねえ澪。折角私の心象世界までノコノコ来てくれたんだし、あなたの身体、私に譲ってくれない? 私、貴方の肉体に憑依して第二の人生を送りたいの。澪の心を瑞稀みたいに破壊した末に、乗っ取ってやりたい」


 あまりにお姉ちゃんらしからぬ悪辣な発言に、「……なんで?」と当惑の声を漏らした。抵抗する気概も失せてしまって、おびただしい数の骸骨に組み伏せられる。でも私は骨の軋むような痛みに呻吟するのも忘れて、ひたすらお姉ちゃんにどうして、と問いかけ続ける。


「私の身体を奪うって……。お姉ちゃん、なんでそんなこと言うの……⁉ だってお姉ちゃん、優しいじゃん。私のこと、傷つけたりするような人じゃなかったじゃん。だからさっきだって、あんなにも疎ましく思ってた私の魔眼を潰せなかったんじゃないの……⁉」


「っ、うるさい!」魔眼の一件に触れた瞬間、お姉ちゃんが激昂する。


 憤怒の形相で私の下まで歩み寄ってくると、手のひらを思い切り踏みつけてきた。私もこれには耐えかねて甲高い悲鳴を漏らす。だけどお姉ちゃんは、なおもダンッ! ダンッ! と稚拙なタップダンスのように私の手のひらを蹴りつけ続ける。


「優しい優しいって、うるさいんだよ、澪は……! 違う! 私は優しくなんかない! 私はただ、そうならざるを得なかっただけで、本当はいつもずっと辛かったんだ……っ! だけどあんたは、それに一度も気がついてはくれなかった……っ!」


 お姉ちゃんの形相が、怒りと哀しみがグチャグチャにかき乱された混沌としたものになる。私が痛みに顔を歪めるたびに、お姉ちゃんの顔面はさらに鬼気迫るものになっていく。


「さあ見ろよ! これがあんたの犯した罪の記録だ! あんたがずっと気づかなかった、虐げられてきた贄の記憶だ……っ!」


 砕け散ったガラスの破片のような煌めきが、チラチラと一定速度で降ってくる。どこかぼうっとした気分でそれを眺めていると、私は瞬く間に別の誰かの記憶によって押し流された。

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