第12話 記憶(岸田真澄) 第二幕

「な、なにこれ、地震⁉ ……っ、お姉ちゃん、怖い!」


 当時まだ十歳だった私は、今までに体感したことのないような激しい揺れに、本能が震え上がるような戦慄を感じた。私は木刀を放り捨て、すかさずお姉ちゃんの胸の中に飛び込む。


「うわ、すごい揺れてる……! 真澄、取り敢えずしゃがんで!」


 お姉ちゃんは私に覆いかぶさるようにして、屈みながら私の身の安全を確保した。私は両目をギュッと瞑って、大地が裂けてしまいそうなほどの凄まじい揺れに耐える。


 永久に続くかのように思われた大地震が収まると、私はゆっくりと瞼を開いた。幸いにも収集機の内側には何もなかったので、私を庇ったお姉ちゃんも怪我をしたりはしていなかった。そのことに胸を撫で下ろしつつ、お姉ちゃん、と掠れた声で呼びかける。するとお姉ちゃんは強張っていた口元に無理やり明朗な笑顔を貼り付けて、大丈夫だよ、と笑ってみせた。


「……凄かったね。こんな地震、生まれて初めて。家、大丈夫かな? お母さんとお父さんも」


 お姉ちゃんのおかげで少しだけ落ち着きを取り戻した私は、今度は別の心配事に見舞われた。不安げな顔でお姉ちゃんのことを見つめるとお姉ちゃんは、きっと大丈夫だよ、と私の頭を撫でてから、ゆっくりと立ち上がった。


「取り敢えず、さっさとここから出なきゃだよね。余震とか来るかもだし。津波は、こんな山奥には来ないと思うけど。よし、行こう真澄。ついてきて」


 お姉ちゃんが私の手を取る。私はお姉ちゃんに連れられて、収集機の地下にあるコントロールルームへと下りた。この場所に来るとき、私達がいつも経由している部屋だ。


「ひっ……。なにこれ、すっごいグチャグチャ……」


 地下室に足を踏み入れた瞬間、まるで部屋の中で大嵐が起きたかのような惨憺たる光景に、私は言葉を失った。何に使うのかもよくわからない大型の計器の数々や、大量のボタンやレバーが取り付けられたコンソール、金属製のラックやロッカー等々。室内を所狭しと埋め尽くしていた物々しい機器の全てが倒れ、足の踏み場が無くなっていた。照明はひび割れて、ジ、ジ、と断末魔の悲鳴を上げながら明滅を繰り返している。でも悪あがきもそう長くは続かなくって、一際強い光をカッと放ったのを最後に、蛍光灯は完全に沈黙した。非常口を意味する緑色の薄らぼんやりとしたランプだけが、この部屋に存在する唯一の明かりだった。


「お、お姉ちゃん、怖いよ……! これ、私達、出られるの……? ひっ、なに⁉」


 ドンッ! と下から突き上げてくるような強い振動。余震だ。私は恐怖に耐えかねて、その場に蹲ってしまう。お姉ちゃんはまたも怯える私に覆いかぶさって、大丈夫だから、大丈夫だから、と宥めるように必死で言い聞かせてくれた。


「……収まった、か。これ、想像以上にヤバいかも。さっさと脱出しなきゃ。真澄、立てる?」


 お姉ちゃんは私の手を掴んで立たせると、障害物につまずかないよう慎重な足取りで非常口に向かって歩き始めた。部屋の明かりが消えたせいで、お姉ちゃんの姿はよく見えない。私はそのぶん繋いだ右手をきつく握って、お姉ちゃんから絶対に離れまいとした。


「……嘘、開かない⁉ なんで⁉」


 ようやく非常口の前に辿り着いた私達だけれど、強烈な揺れに耐えられなかったのか、扉は縁がひしゃげて開かなくなっていた。お姉ちゃんは何度も何度も扉に身体を打ち付けたけれど、そのうち性も根も尽き果てて、扉にしなだれかかるような形でその場に崩れ落ちた。


「待って待って待って! これ、どうしろっていうの……⁉ なんで非常口のくせして、こんな軟弱な設計してんのよ……! 正門は鍵かかってるから出られないし、他の部屋は……駄目だ、この暗さじゃ無闇には動き回れない。ああもう! じゃあどうすりゃいいんだよ! 携帯はおいてきちゃったから、連絡はつかないし……。ってことは私たち、閉じこめられたってこと……? ああもう、なんなのよっ! クソクソクソクソ……っ!」


 グシャグシャグシャッ! というお姉ちゃんが髪の毛を掻きむしる音が地下室を満たす。いつも気丈だったお姉ちゃんがこんなにも取り乱した姿を見るのは、初めてだった。私は言いようのない恐怖に駆られて、「お姉ちゃん」と震える声で呼びかける。すると、痛ましささえ覚えるほどだった頭を激しく引っかく音が、唐突に鳴り止んだ。


「ん、大丈夫だよ。真澄は心配しないで。お姉ちゃんがなんとかしてやるから、待ってなさい」


 お姉ちゃんはぽん、と私の頭を優しく撫でると、再び立ち上がって非常扉の前から離れた。言われたとおり大人しく待っていると、程なくして細長い棒のようなものを携えて戻ってきた。誘導灯の淡い緑色の光を受けて仄かに光るそれは、バールだった。


「これ使えばこじ開けられるかも知れない。真澄、そこどいて」


 お姉ちゃんは私を扉の前からどかすと、ブンッ! と豪快に空気を切る音を響かせながら、全力で非常扉にバールを叩きつけた。鼓膜を貫くような金属音が轟く。ガンッ! ガンッ! ガンッ! と何度も扉を打ち付ける音がして、次第にお姉ちゃんの呼吸も荒くなってくる。でもその甲斐あって、非常扉の下の方には人一人が通れるか通れないかくらいの隙間ができた。


「よし、これなら……! 真澄、行ける?」


 私はお姉ちゃんに促されるまま、その空隙に身を滑り込ませた。相当きつかったけど、お姉ちゃんが後ろから押し込んでくれたおかげで、何とか通り抜けることができた。


「通れたよ! お姉ちゃんも、早く!」


 私は扉の向こう側から叫ぶ。でもお姉ちゃんは私ほど身体が小さくないから、中々その隙間をくぐり抜けることができなかった。


「痛い痛い痛い……っ! 駄目だ、私には無理だこれ。真澄、先に逃げてて。道はわかるよね?」


「え……? で、でも、お姉ちゃんをおいてなんか……! それに、私一人じゃ、怖い……」


 大震災という非日常の恐怖の真っ只中にいた私は、お姉ちゃんが手を引いてくれないと、ここから逃げ出すことすらできそうもなかった。心細いやら怖いやらで狼狽えていると、「ちょっと待ってて」とだけ言い残して、お姉ちゃんは再び扉の前から立ち去った。


「真澄。これ持っていきな」程なくして戻ってきたお姉ちゃんの手には、あの木刀が握られていた。隙間から滑り込まされたそれを、私は受け取る。「これは私の分身。だから、もし怖くなったらその木刀を抱きしめてみて。そうすれば、怖くないから。私が、守ってあげるから」


「で、でも! そんなこと、言われたって……」


 そんなのは単なる気休めだ、木刀なんかがお姉ちゃんのわけない。私はそう口走りそうになって、言葉に詰まった。私の頬にそっと触れてきたお姉ちゃんの手のひらは、いつもは温かくて柔いのに、今は熱くてベタベタとした液体にまみれていて、皮膚はぼろぼろに破れて使い潰した雑巾みたいになっていた。それで私は、何も言えなくなってしまう。


「大丈夫だよ。私も真澄の後でちゃんと逃げるから。というか、逃げた真澄が大人たちに話してくれれば、最悪でも電力会社の人が助けてくれるだろうから。心配いらないって」


「……う、ん。わかった。それじゃ……また、後でね」


 うん、と。いつもどおりの柔らかな声で、お姉ちゃんが言う。だけど扉の向こうにはほんの少しの光もなくて、このときお姉ちゃんがどんな顔をしてたのか、私にはわからなかった。


 私は光の消えた地下通路を、息を切らしながら必死で走った。木刀をギュッと握りしめる。そうだ。怖がってる場合じゃない。早くお姉ちゃんを助けなきゃ。大人の人を呼んでこないと。


 その一心で、走る。走る。ひた走る。道中、ズドン、と一際大きい衝撃に見舞われた。また余震だろうか? でも、今は蹲っている場合じゃない。私はゆらゆらとよろめきながらも足を止めることはせず、必死で非常通路の出口に向かって走り続けた。


 ようやく出口に辿り着いた私は重い鉄製の扉を押し開けて、「……は?」押し開けて、その場に倒れ込みそうになった。非常口から一キロほど離れた先にある霊素発電所が、眩い光を放つ赤い炎に包まれて、燃えていた。ごうごうごう。風を受け、天を焦がすほどの勢いで紅蓮の炎が立ち昇る。日頃、理科の実験で使うアルコールランプか、ガスコンロの炎くらいしか見たことのなかった私には、それは火ではなく、炎の身体でできた巨大な怪物か何かに見えた。


 ……あ。お姉、ちゃん。戻らなきゃ。助けなきゃ。私は木刀をきつく胸に抱きしめて、今来た道を引き返そうとする。幸い、非常通路に火の手は上がってないようだった。だとしたら、まだ希望はある。お姉ちゃんのいる地下室も燃えてはいないかも知れない。


 だけど私は、地下通路に足を踏み入れた瞬間、急速に意識の遠のく感覚を味わった。ここに行ってはいけない。本能からの逆らい難い警告を受けた私は、踵を返して山を下った。そうだ。私みたいな非力な子供じゃ、戻ったところで何もできない。そんなことより、早く大人を呼んでこない、と……。あれ? 何故だろう。唐突に、眠りに落ちるときとは似て非なる、意識がゆっくりと抜け落ちていくような感覚に見舞われた。ちょっと。こんなときに何やってるの? バカ。気絶してる場合じゃない。動かなきゃ。なに倒れてるんだ。早く起き上がって、村に戻って、大人たちを呼んでこないと。じゃなきゃ、お姉ちゃんが、お姉ちゃんが――

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