第10話 記憶(岸田真澄) 第一幕

 これは私がまだ幼かった頃――、具体的には、漢字どころかカタカナの書き取りにも難儀していた頃のお話です。私には、友達がいませんでした。私が人一倍内気な性格で、隣の席の子に話しかけられても、あ、とか、えっと、とか、曖昧に口をモゴモゴさせるばかりで、上手く言葉を発することができなかったからです。喋りたい言葉はぷかぷかと、水底から湧いてくるあぶくのように浮かんでくるのですが、それを上手に声に出すことができなかったのです。


 そんな性格だったので、私はいつ、いかなるときでも一人でした。小学校からの帰り道でも、まだ大きかったランドセルをよいしょ、よいしょ、と難儀そうに背負いつつ、一人でとぼとぼと家路を辿るのが常でした。


 私の家は、霊素村と呼ばれる深い山の中を切り開いて作られたところにあったので、学校へはバスで通っていました。利用者なんて殆どいない、二時間に一本しかやってこないバスです。私は足のつかない錆びついたベンチにちょこんと腰掛けて、両足をぶらぶらさせながらバスが来るのを待っていました。


「うぇい、うぇーい! デュクシ! デュクシ! はいバリアー! 今の効きませーん!」


 唐突な大声に、私は物音に驚いた子猫のように、ビクリと肩を震わせました。振り返ると、同じクラスの男子たちがよくわからない擬音語を発しながら、じゃれあっているところでした。


 私は息を潜めて、大きく身を縮めて彼らから姿を隠すように努めました。


「おい見ろよ! あそこにいるの岸田だぜ! あの、話しかけても何も喋らないキモいやつ! そうだ! あいつになんか言わせたら勝ちゲームしようぜ!」


 ですが、いくら小柄な小学生とは言え、ちょっと身を屈めたくらいで全身を隠せるわけはありません。意地の悪い男子たちの遊びの標的となった私は、何か、チクチクするものを遠くから投げつけられ始めました。オナモミです。トゲトゲして服とかにくっつく、植物の実です。たまにその辺に生えてます。「や、やめ……っ」私はか細い悲鳴を上げました。だけど彼らは怖がる私を面白がって、機関銃か何かのようにオナモミの雨を降らせてきます。私は抵抗することもなく、両手で頭を抱えたまま嵐が過ぎ去るのをじっと待っていました。


 でも、男子たちは蹲っているばかりの私に飽きてきたのでしょうか。唐突に、カツン、と高い音が目の前で鳴り響きます。見ると、足元には手のひらサイズの石ころが転がっていました。陽の光を受けて鈍色に光るその礫は、たとえ小さくとも頑丈で、当たれば今までの比じゃないほど痛いのは目に見えています。私はひっ、と大きく身震いしました。背後で男子たちがクスクスと忍び笑いをする声が聞こえます。どうしよう。怪我でもしたら、お母さんにどう言い訳すればいいんだろう。夏の入道雲のようにむくむくと立ち上ってくる強い恐怖で、私は泣き出す寸前でした。


「こらぁ! うちの妹に何やってんだ、このクソガキどもがっ!」


 私は顔を上げました。すると、大声を上げながら、こちらに向かって猛然とダッシュしてくる人影があります。中学の制服に身を包み、学生鞄を武器か何かのようにブンブンと豪快に振り回しながら迫るその人は、さながら荒くれ者の大鬼か何かのようで。


「や、やべー⁉ なんか来た⁉」「うわうわ! 怒られるぞ、てっしゅー!」「お、覚えてろー!」


 その人の鬼気迫る表情に気圧されて、男子たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げていきます。それこそ、本物の鬼か何かと勘違いしてしまうほど、恐ろしかったのでしょう。


 でも、たとえ男子たちにとっては恐ろしい鬼であろうとも、その人は私にとって誰よりも大切で大好きな、お姉ちゃんに他ならなかったのです。


「……っ、お姉ちゃん! ……ぐす。遅い。なんで、もっと早く来てくれなかったの」


「あー、ごめんごめん。中学生は小学生より、どうしても帰るの遅くなっちゃうんだよ。それより、大丈夫? 怪我とかしてない? ってか真澄、全身オナモミだらけじゃん! あの野郎ども、今度会ったらげんこつ食らわせてやろうかなぁ……!」


 お姉ちゃんはぷんぷんっ、という擬音がお似合いの顔つきで、私の全身についたオナモミをポイポイと投げ捨てていきます。それが終わると、ぐずる私の頭を優しく撫でてくれました。強くて、優しくて、クラスの男子からも守ってくれて。私は、そんなお姉ちゃんのことが、心の底から大好きでした。


 そんな私達に転機が訪れたのは、小学二年のときの秋でした。


「ねえ見て見て! これ、超絶格好よくね⁉」


 お姉ちゃんがリビングでブンブンと振り回しているのは、木刀でした。中学の修学旅行のおみやげに買ってきたものらしいです。お母さんやお父さんは、なんで京都に行って木刀なんか、と不服げだったけど、私は違います。ビュンビュンと風切り音を響かせながら木刀を振るうお姉ちゃんの姿は、さながらアニメに出てくる剣豪か何かのようで、本当に格好良かったのです。


 すると、子供らしくキラキラと目を輝かせていたであろう私を見て、お姉ちゃんは素振りの手を止めました。少し考えるような顔をした後、口を開いて。


「……あのさ。もしよければだけど、剣道でも教えよっか?」


「え、いいの⁉ お姉ちゃん、剣道なんかできるの⁉」


 ずずい、とソファから身を乗り出した私に対し、お姉ちゃんはうむうむ、と言わんばかりに首肯しながら「勿論」と答えます。


「言ってなかったけど、これでも私、部活は剣道部だからね。真澄に剣道教えるのなんて、容易いよ。やってみる?」


 私はうんっ、と勢いよく首を縦に振ります。


 こうして私は、晴れてお姉ちゃんから剣道を学ぶことになったのでした。

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