第7話 場違いな衣装 その7

 漆黒に染められた過去に意識が飲み込まれて、いつしか、自然に呼吸が止まっていた。このままでは、すべての思考が停止してしまいそうだ。気持ちを少しでも前向きにするために、バッグの中の小型のベレッタを一度取り出して眺めてみた。金色に輝く弾丸が六発とも、きちんと弾倉に込められていることも確認して、それをコートの右側のポケットへ移した。人生で一度だけ、自分とその人との運命が交錯する瞬間があるとするなら、その時刻は今やすぐ傍にあるとでも思いたい。そうでなければ、過去の友人を名乗る亡者たちに、こちらの神経が喰い殺されてしまう。今夜、これから起こることは、決して犯罪などではなく、過去の悲しい自分へのせめてもの罪滅ぼしになれば良いと思っている。


 無意識のうちに、直線距離で二百メートルほども前へ進んでいた。一週間前の下調べの際の目安通り、狭く目立たない十字路を立ち止まることなく左折した。前方からは大通りに溢れる光線が少しずつ差し込んできた。目的の小綺麗な外観のホテルが目の前に見えてきた。一度、黒革の手袋を外して、バッグの一番下から、小型の薄い茶封筒を取り出した。中には大切に持ってきた、鮮明に写った若い女性の写真。写されたのは、今から、約五年ほど前。若い俳優は化粧と整体によって外見のすべてを誤魔化すから、今夜のイベントでも、十分に使えるわけだ。ホテルから飛び出してくる際、標的は必ず顔を隠すだろう。つまり、目的地のすぐ傍まで近づいてから、細部をいちいち確認する行為に、それほどの意味はない。ただ、今回の場合、我が標的の顔をもう一度視野に入れておくことは、この上なく、気持ちを落ち着かせることがよくわかった。肩まで程よく伸ばして、ナチュラルにカールした金髪。大きな青い瞳にくっきりとしたまつ毛。少し頬骨が出ているが、このタイプの顔の場合は、それが良い方への特徴になっていて、決してマイナスにはなっていない。国中の若い男性からの絶えない声援が、それを証明している。外見が美しいだけで、記者からの質問に対して大した受け答えもできない、中身のない女優はあちこちで見かけるが、彼女の場合は舞台の上でのすべての表現に、他人を喜ばせるための愛嬌と知性があふれ出ている。自分の演技にどうすれば観衆が好意を持ってくれるかを、深く研究している。多くの観衆を引きつけることが出来るのは、演技や歌声だけではなく、結局のところ、そういった才能があるからなのだと思う。私が挑んだ最終オーディションでの当否の差も、そこにあったのかもしれない。当時の私には、その辺りがまるでわかっていなかった。もちろん、これ以降の見苦しい言い訳は、この忌々しい写真を手元に持ち出してまで、いちいち披露することはないだろう。


 彼女は今夜の一大イベントのヒロインである。当然、舞台を見る人によって好みはあるのだろうが、あの人の笑い方や演技を好きだの嫌いだのと評して、自身は酒を飲んで見苦しく騒いでいるだけの、ただのやじ馬たちと自分は違う。私だけに課せられた、特別な感情を長い間持ち続けていた。ただ、その詳細を、彼女に伝え得る方法は、今や何も存在しないのである。勝者と敗者は過去にも未来にも、絶対に共存し得ないからだ。才能の有無は存在する空間を痛烈に引き裂くのである。出来れば、早く彼女に会いたい。左腕で花束を支え、右手をポケットに入れたまま、ゆっくりとした足取りで路地を抜けて、自分以外の不審な人通りが無いかを用心深く確認してから、ホテルの正面へと踊り出た。しゃれたデザインの小規模なブティックホテルであった。それほど目立つ看板は出ていない。本当にここで合っているのだろうか? 待ち伏せる場所は予定と100%一致していなければならない。不安にもなるが、もはや、行き過ぎる他人との交渉は出来ない。


 自分の生活費をどんなに汚い手法によってでも取得しようと近寄ってくる、意地汚い報道関係者や『どうしても握手をさせてくれ』と、しつこくせがんでくる、熱烈なファンたちの視線から逃れるために、あの大女優は、すべて合わせても十五室ほどしかない、この小規模なホテルをわざわざ選んだわけだ。もちろん、舞台のヒロインの沽券に関わらない程度の高級感はあった。しかしながら、実はそれこそ、こちらの思い通りなのだ。例えば、衆目を集めるお大尽の泊り客が多くいて、それを追うマスコミの前衛基地となっているようなホテルでは、こちらが待ち伏せしやすい、正面入り口前の通りや駐車場付近が、必然的に観光客で混みあっている。賑やかなホテルのすぐ近くにおいて、完璧な仕事を求められたら、こちらとしては困るわけだ。


 身の危険を感じるほどには、人通りは多くはなかった。それも、今夜のイベントとは、おそらく無関係と思える通行人がほとんどであった。そのことは想定外の幸運と表現しても良かった。こちらの動作に気を配る、不審な視線も今のところ感じることはない。映画会社から派遣されている警備員も、差し迫った用があって、速度を上げながら巡回してきたパトカーも、お目当ての女優の匂いを嗅ぎつけてやってきた映画オタクたちも、この付近には、まだその姿を現していなかった。


 さりげなく上を見上げて、四階の一番右の窓の様子を、確認してみた。もちろん、カーテンは閉められていた。しかし、その部屋の灯りは、まだ点いているように見えた。ただ、単なる消し忘れや、こちらの目を眩ますための小細工かも知れない。勘が鋭い相手だったら、様々な不安要素を警戒して、色々な手段を講じてくるだろう。ホテルの入り口からは一刻も目を離せない。猟師の目を欺いて、暗い林の中から、突然、飛び出て来る白貂のような素早い動きで、この網の目をすり抜けられてしまうかもしれない。ここで標的を見失ったら、今夜の失態のほとんどすべてが、私の落ち度になってしまう。さりとて、何の目的も示さずに、ホテルの真ん前に長時間突っ立っているわけにもいかない。おそらく、本人は今頃、会場までの移動のためだけの念入りな化粧でもしていて、イベントホールは徒歩でも、それほど時間のかからない距離であることから、こんな余計なことをしていても、リハーサルの時間には、まだ十分間に合うと、呑気に構えているのだろう。標的は自分の周囲で、今現在何が起きているのかをまったく知らないはずだ。悠長なものだが、焦らされるのは常にこちら側だ。ホテルの従業員の視角にうっかり入ってしまい、その一瞬の反応で、不審者と判断されてしまえば、それだけで通報される恐れがあった。


 今夜のイベントに使用される大劇場の開場の時刻が少しずつ近づいてくる。直前に受けた情報によると、彼女自身はオープニングセレモニーには登場せず、出演するのは、メインイベントである演劇の後半部分のみだから、おそらく、すでに会場入りしている、他のスタッフの予定には、合わせるつもりはないのだろう。ただ、こちらの状況はかなり悪く、後数分もここにはいられない。このままでは不測の事態が起きかねないからだ。一番嫌な時間帯だ。壁の方を向いて、中世からの歴史を感じさせる、古い煉瓦の間の傷を意味もなく眺めながら、バッグやコートの内ポケットの中を何かを探すようにまさぐっているフリをした。万が一、警察官が通りがかったときに、ここで待ち人をしているために、タバコや口紅を探しているように見えてくれればそれでいい。後方で誰かの足音が聴こえるたびに、極力、気配を消す努力をした。『姿を見せたいのに、まだ、見せられない』病院に飾られている比較的目立たない色合いの観葉植物のような気持ちになった。


 ついに、腕時計の針は指定の時刻を指してしまったが、危惧していた通り、標的が出て来る気配は感じられなかった。時間の経過とともに、大通りを伝って会場へと向かう通行人は、さらに勢いをもって増えていく。高層ビルのイルミネーションが点灯され、人声は次第に高く大きくなっていき、街の雰囲気は少しずつ騒がしくなっていく。いくら図太いといわれている私でも、こんなに人の往来の多い場所で、いつまでも、のんびりと佇んでいるわけにはいかないのだ。暗がりでも写せる、高性能カメラを構えた、マスコミ記者たちや、それに追随する自称演劇マニアや機動隊バイクの巡回が、いつ来るだろうかと恐れていた。そして、手元に抱えている、つい先ほど購入したばかりの、美しいバラの束をふと見た。相手に手渡す前に萎れてしまわないかが気になっていた。私にしてみれば、これだって、大切なイベントのひとつなのだ。


 さらに五分が過ぎた。周囲の目をごまかすために、タバコを吸おうかとも思ったが、その行為自体について、マネージャーから、何度も叱られていることを思い出して、ここは考え直した。この後、任務が首尾よく進んだ場合でも、その余計な動作だけでお叱りを受けることになる。今後とも、嫌々ながらに、この仕事を続けていくにしても、マネージャーと直に会って酒を酌み交わすことには絶対にならないだろう。だが、もし、そんな機会があったとしたら、今までのたび重なるルール違反を理由にして、彼女は出合いしなに、私の顔面を思いっきり引っ叩くだろう。それだけは、まるで、すでに体験したことのように、はっきりと想像できる。もし、我々二人が目的の異なる裏組織に勤めていたら、裏通りでのすれ違いざまに、躊躇なく殺し合っていたかもしれない。それくらいの関係である。こんな愚にもつかない想像を膨らませて、高鳴る気持ちを抑えつつ、目当ての標的をじっと待つしかなかった。呼吸はまだ平常だが、焦りと不安で、右足が微妙にバウンドしている。上を見上げると、いつの間にか、四階の窓の明かりが消えていた。ほとんど意味のない演技だけで、平静を保っているのも、そろそろ限界に近づいていた。こちらの期待に応える形で、私の標的はようやく動き出したようだ。こちらが我慢を限界ぎりぎりまでできたことが、ここにきて、ようやく功を奏したのかもしれない。


 左側の聴覚に、ホテルの入り口のドアが静かに開いていく音が聴こえた。その内側で、今頃丁重なるお見送りをしているはずの、スタッフたちの掛け声は、この距離だとまるで聴こえてこなかった。まだ視線は壁を向いたまま、体勢はピクリとも動かさない。長い長い数秒間の後で、目立たない色彩の茶色いクロークに身を包んだ、うら若い女性がうつむいたまま、おずおずと歩み出てきた。顔もうまく隠れている。あの外見では、カメラマンが眼前で待ち構えていても、今出て来たのが一般市民だか、何らかの重要関係者だか、それとも、荷物の配達員だか、さっぱりわからないだろう。彼女は大通りの前に立つと、右から左へと素早く視線を走らせた。これから会場に向かうだけの、一般の泊まり客であったら、あんな慎重さは持っていないだろう。自分がどれほどの要人であるかを、明らかに知っているような素振りだった。誰にも張られていないと判断すると、いくらか安心した様子を見せて、広い通りを北に向けて力強く歩み出した。任務開始の時刻は、予定していたものより、だいぶ遅れてしまっていたが、動きのまったく読めない相手である以上は、常に計画通りにいくわけではない。十数人の天才的なスタッフたちが、ここ数週間、寝る間も惜しんで作成した今回の計画だったが、やはり、いささかの不備はあったわけだ。それは仕方がないことだ。この穴は、自分の方でカバーするしかない。今夜の仕事に同僚への不満を抱くことは禁物である。気持ちを熱くせずに冷静に遂行してやろう。

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