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 東京の地下には広大な空間が広がっている。


 十数本の地下鉄が縦横無尽に走り回り、それらに覆いかぶさるように電気・ガス・水道の導管とその管理道路が、網目状に張り巡らされている。さらにそこに、太平洋戦争時に日本帝国軍が掘った地下道が合わされば、もうこの世の誰にもその全容を解き明かすことのできない地下迷宮が形成される。


 管理者の不在なそこは、日の光を疎む者達の格好の隠れ家になっていた。無論、そこには怪人達の様な魑魅魍魎も含まれている。


 そんな地下迷宮の一画、地下鉄の走行音を遠くに聞く体育館ほどの大きさの空間に、一人の男が居た。LEDランタンが照らす男の顔は浅い皺が入っており、白髪混じりの頭にはハンチング帽を載せていた。


 マシロがザリガニ男の部屋に捕らわれた日、部屋にいたあの男と同一人物であった。


 男は年季の入った木造の椅子に腰掛け、上着の前をグッと掴んで背中を丸め、缶コーヒーをちびちびと飲んでいた。すると、


「おやっさん、待たせたな」


 LEDランタンに照らされ出でた男の影から声がした。男がそちらを振り返ると、自分の影の眼が存在する箇所に、豆電球の様な白くて丸い光が灯っていた。


「遅かったじゃねぇか。凍え死ぬかと思ったぜ」


「すまねぇな、ちょっと野暮用で」


 そう言いながら、影が大きく盛り上がり、黒い怪人の姿に成った。そして、黒い怪人の中からザリガニ男が姿を現した。


「悪いなおやっさん、折角足を運んでもらったのに」


 頭を下げて謝罪するザリガニ男に、男は対面の椅子に座るように促した。ザリガニ男は椅子を引いて腰を下し、ハンチング帽の男と相対した。黒い怪人もそこに居るのだが、周囲の暗闇に溶け入ってしまい、辛うじて白い眼が見て取れる程度だ。


 ハンチング帽の男は閉じていた上着の懐から茶封筒を取り出し、ザリガニ男に差し出した。


「恩に着る」


 礼を言ってそれを受け取ろとしたザリガニ男だったが、ハサミが触れるその瞬間、ハンチング帽の男が手を引いた。ハサミが空を切り、ガチンと打ち鳴らされた。ザリガニ男と黒い怪人に緊張が走る。


「……おやっさん、何の真似だ」


 ザリガニ男の怒気の籠った声に、しかしハンチング帽の男は無表情だ。


「おやっさん、何考えてるか知らないが、冷やかしなら」


「おめぇのアパートの部屋に女が出入りしているな、あれは何者だ」


 言葉を遮るように投げかけられた質問に、ザリガニ男は二の句が継げなくなった。女とは、勿論マシロの事である。


 マシロが怪人達を手伝い始め、早一か月が経っていた。


 彼女は怪人達が予想していたよりも遥かに献身的であった。否、それは妄信的と言った方が正しい。マシロは何でもやると言った言葉通り、ザリガニ男から言われた仕事を何でもやった。


 彼女は決して要領の良い人間ではなかったが、不器用なりに、ひた向きに取り組んで、どんなに時間がかかっても必ずやり遂げていた。


 ある日、ザリガニ男が冗談で「トイレ掃除をしてくれ」と言ったら、マシロは自室から掃除用具を一式持ってきて、一日かけて便器をピカピカに磨き上げた。怪人達が使用しているトイレに跪き、満面の笑顔でトイレブラシを繰る姿に、さしものザリガニ男も狂気を感じていた。


 返答を待つ男の顔が無表情から、どんどん険しい物に変わっていく。しばらくの沈黙の後、ザリガニ男は声を絞りだした。


「彼女は、隣人だ」


 その言葉に、ハンチング帽の男の眉がグイっと持ち上がる。カッと目を見開いたその表情は、まるで般若の様だ。


「なんだその答えは? あの女がおめぇの隣人で、あの日包丁持って押しかけて来た女だってのは覚えてんだ。俺が聞きてぇのはそういう事じゃねぇって、分かって言ってんだろ」


「質問を返すようで悪いが、おやっさんは何を聞きたいんだ?」


「おちょくってんじゃねぇぞテメェ! 質問してるのは俺の方だぞ!」


 男は手に持っていた缶コーヒーを、ザリガニ男に思い切り投げつけた。缶はザリガニ男の固い甲殻に跳ね返り、石の地面に転がった。地下空間に空き缶が転がる音が反響する。二人の怪人と、一人の男の間に重苦しい沈黙が横たわった。


 と、黒い怪人が沈黙を破った。


「口を挟んで悪いが、おやっさんは俺達の計画の邪魔しないと言ってくれたはずだ。なのに、なんでマシロが部屋を出入りしているのを知っている? 俺達を監視してたのか?」


「俺は本隊には邪魔をさせないと言ったんだ、俺の行動には言及していない」


 男の返答に、黒い怪人は肩をすくめた。


「俺が本隊に邪魔をさせないと約束したのは、お前達の意思を尊重し、本隊に害が及ばないという打算があったからだ。それは、お前と、お前、それに化け狸兄弟を信用しているからだ」


 ザリガニ男と黒い怪人を順に指差し、男は吠えた。


「あの女は勘定に入っていない」


 ハンチング帽の男は彼らを「信用している」と言った。この言葉に二人の怪人は完全に沈黙してしまった。目の前の男が自分達を信用し、自由に行動させてもらっているのは事実である。その事を引き合いに出されては、嘘や誤魔化しでこの場を逃れようとするのはあまりにも不誠実である。


 ザリガニ男は、腹をくくった。


「アイツは、マシロは俺達の仲間だ」


「なに!?」


 ハンチング帽の男はついに椅子を跳ね除け、立ち上がった。怒りで呼吸は荒く、肩が激しく上下している。怪人よりも恐ろしい顔で、怪人達を見下ろしていた。そんな男の顔を、ザリガニ男は真っすぐに見返した。


「マシロは俺達の仲間だ。雑用やら身の回りの事をやってもらって、俺達の下支えをしてもらっている」


「テロ行為の片棒を担がせてるってか? お前達がやろうとしている事を知ったうえで、協力する奴なんかいるもんか。どうせ、どっかの諜報機関の回し者だろ」


「いや、彼女は俺達の計画を一切知らない」


「なんだって!?」


 お前は何を言っているんだという表情で、男は二人の怪人を交互に見やった。ザリガニ男は無言で真っすぐに見返し、黒い怪人は無言で首を縦に振った。


「計画の内容も知らずに、ただ手伝っているって言いたいのか? お前達がそう思っているだけで、お前達の目を盗んで諜報活動をしているんじゃないのか?」


「その心配は無い。ポン四郎が常に監視に付いているし、外部に情報を漏らしていないってのは、おやっさんの方が詳しいんじゃないのか?」


 事実、マシロの姿を見かけるようになってから、男は彼女の行動を監視していた。頻繁に外出はしていたが、そこで誰かに会ったり、話をしているという様子はなかった。


 しかし外部に情報を渡すという手段はいくらでもある。店員に扮した仲間に、ジェスチャーで情報を伝えたり、会計の際に札の間にメモ用紙を忍ばせて渡すこともできる。


 ましてや今は誰でもスマートフォンを持っている時代である。ポン四郎の眼を盗んで、メールの一通でも送ることは出来るのではないか。男の疑念は一向に晴れない。なおも言葉を重ねようとする男を、ザリガニ男はハサミで制した。


「マシロは俺達の計画の事を知らないし、これからも知ろうとしない。彼女は俺達との約束を頑なに守っている。外部へ情報を漏らしている様子もない、これはポン四郎に引き続き監視をさせる」


「仮に今お前が言った事が真実で、それがこれからも上手くいったと仮定しよう。だがあの娘の目的はなんだ? 何をするか分からない、自分がなんの計画に加担してるかも分からないで、盲目的に日々の雑用をこなしているのか? そんなの、正気の沙汰とは思えないぞ」


「たぶん、正気じゃねぇんだよ」


 これは、黒い怪人の言葉だ。


 黒い怪人は両手をヒラヒラさせて、首を傾げてみせた。


「マシロが何を企んでいるのか、実は俺達もよく分からないんだ。ザリガニの旦那に頭ぶん殴られたのに、次の日には仲間に入れてくれってヘラヘラ笑ってたしな」


「そいつ、頭打っておかしくなったんじゃねぇのか?」


「ははは、かも知れないし、元からおかしかっただけかも知れない。とにかくマシロはなんだかよくわからないけど、自分の意志で俺達の仲間になりたいと言って、実際その通りにしている。ここ一か月、マシロが外部と接触している様子は無かった。いや、もとから無かったかもな……」


 黒い怪人はそこで言葉を飲み込んだ。ザリガニ男が「余計な事は言うな」と、目線で諫めていたからだ。しかし黒い怪人は肩をすくめ、ウゴウゴと言葉を続けた。


「マシロは独りなのさ。群れに馴染めない、日陰者。つまり俺達と一緒ってことさ」


 再び、地下空間に沈黙が流れる。遠くで地下鉄の走行音が鳴り、男達の周りに反響した。ハンチング帽の男が、小さく息を吐いた。


「……だから、俺に認めろって言うのか」


 男の言葉に、ザリガニ男は首を横に振った。


「現状、おやっさんに認めてもらえるような物は何もない。だけどな、少なくても俺はマシロを信じている」


 そう言って、ザリガニ男は深々と頭を下げた。


「だから、おやっさんは引き続き俺を、俺達を信じてほしい。マシロの事は信じなくていい。マシロを信じている、俺達を信じてほしい」


 ザリガニ男の言葉に、ハンチング帽の男は唖然とした。その表情から怒りの念がすっかり抜け、呆れかえっていた。男は椅子にストンと、力なく座りなおした。


「とんだ、屁理屈だな」


「信じてくれ、頼む」


 男は、呪詛の様に何度も信じてくれと繰り返す怪人の顔を覗き込んだ。


「お前さん、あの娘に妹さんの姿を重ねて見てるのか?」


「…………」


 その質問には、無言が返ってきた。


「はあ……」


 ハンチング帽の男は一際大きな溜息をつき、一度下げた封筒をザリガニ男の頭の上に載せた。そして立ち上がり、これ以上話すことは無いと無言でその場を立ち去った。


 暗闇に消えていく背中に向かって、二人の怪人はいつまでも頭を下げていた。

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