1-11

 ザリガニ男は怪人であるが故に、この世に生を受けてから今日まで様々な試練に直面し、そしてその災禍をくぐり抜けてきた。その経験に裏付けされた実力で以って、ある程度の問題は解決できると自負している。しかし、今の目の前に座ってへらへらと笑っている女性に対しては、ほとほと困り果てていた。


 時は数分前に戻る。


 玄関扉を叩くノック音に、ザリガニ男はパッと顔を上げた。足音を殺して玄関へ移動して覗き穴から外の様子を伺うと、ポン四郎と彼を抱える隣人の姿がそこにあった。


 ザリガニ男は扉を開けて一匹と一人を部屋の中へ入れた。手早く施錠し、二人の顔を見比べた。


「なんだ、トラブルか?」


「トラブルと言いますか……」


 問われたポン四郎はなんともバツの悪そうな顔で、マシロの方を伺った。つられてザリガニ男もマシロを見やる。二人の視線を受けたマシロは、ピシッと背筋を伸ばし、ザリガニ男にパンの耳が入った袋を差し出した。


「折り入って、ご相談があります」


 そして、現在に至る。


 ちゃぶ台を挟んでザリガニ男とマシロが相対して座り、二人の間にポン四郎が座している。昨晩と状況は似ているが、各々の様相はまるで違っていた。


 マシロは昨晩あんな怖い目にあったというのに、一日と空けずに現場に戻ってきているし、なにやら興奮気味に目をキラキラさせて、鼻をフンフンと鳴らしている。


 監視役につけたポン四郎は難しい顔をして、「煮るなる焼くなり、好きにしてくれ」と黙して座っている。


 これはとても面臭いぞと、ザリガニ男はハサミで目頭を押さえた。


「ああ、その、なんだ……。ポン四郎からあらましは聞いたが、俺達の仲間に入りたいって?」


「はい! 雑用でも何でもやりますから、お傍に置かせてください」


「俺達が何をやろうとしているか、理解して言っているのか? ポン四郎から説明を受けたのか?」


「いいえ、なにも知りません」


 言われてザリガニ男はポン四郎を見やった。ポン四郎は視線を合わせ、自分は何も言っていないぞと首を横に振った。


「俺達が何をするのかも知らないのに、それで仲間に入る? 雑用でも何でもする? それは余りにも無謀じゃないのか?」


「おかしな事言ってるって、その、自分でも理解しているつもりです。皆さんの傍に居ることによって、私自身が危険な目に遭うかもしれない、それも理解しているつもりです」


 目の前にいる女性は、昨日包丁を持って部屋に押し入ってきた人と同一人物なのか、ザリガニ男は困惑の色を濃くした。


 昨日はどこか追い詰められて、切羽詰まった様子で、ビクビクオドオドしていたのに。今は言葉こそたどたどしいが、背筋をシャンと伸ばして、目には力がこもっている。


 たった一日で、彼女の心境にどんな変化があったのか、まずはその腹の中を見定める必要があるなと彼は思った。


 ザリガニ男は質問を重ねた。


「事情は分からないが、アンタがどうやら本気らしいという事は分かった。だが、俺達からすればアンタを仲間に引き入れるメリットが無い。アンタ、一体何ができるんだ」


「え……? あの、そうですねぇ……」


 途端に、マシロの歯切れが悪くなる。視線が横に泳いでいく。どうやら目の前の人間は昨日と変わらず、無策で飛び込んできたらしい。買い被りすぎたかなと、ザリガニ男は肩を落とした。


「だから、えと、ざ、雑用ならなんでも……」


「雑用ならタヌキ兄弟で事足りるぞ」


 グッとマシロは言葉を詰まらせた。なるほど確かに、タヌキ兄弟の末弟ポン四郎はしっかりしているように見受けられる。先ほどパンの耳を前足で器用に掴んでいる所を見るに、恐らく手先も器用だと思える。


 ザリガニ男の言葉は、真実そうなのであろう。


「あ、そうだ、買い物。私なら、その辺のスーパーとか、ホームセンターで買い物もできますよ」


「その点についても問題ない」


 見せてやれとザリガニ男が言うと、ポン四郎は前足を合わせて変化の術を使った。ボフンという音と共に煙の中から現れたのは、なんとマシロだった。


 青白い肌、目の下の隈、ボサボサの髪の毛まで忠実に再現されたそれに、マシロは「うわぁ」と顔をしかめた。タヌキ兄弟は人間にも化ける事ができるらしい。


 ここまで完璧に変化できるのであれば、買い物はおろか、誰かに成りすまして諜報活動を行うこともできるであろう。自分なんかよりよほど優秀だなと、マシロは舌を巻いた。


 マシロは他に何かできないか、ザリガニ男が納得するような事はないか思案を巡らせた。


「……書道が、できます」


「ほう、書道とな。段位は?」


「……五級です」


「帰れ」


 冷たく言い放って席を立ったザリガニ男に、マシロはしがみ付いた。足に纏わりついてくるマシロを蹴とばそうとするが、中々どうして離れない。


「ええい、引っ付くな、離れろ」


 言いながら、ザリガニ男はマシロの頭をハサミで掴み、万力の様に締め上げた。マシロの頭がい骨がミシミシと悲鳴を上げた。


「痛い! 痛い痛い痛い!」


「なんでアンタはそんなに必死なんだ? 大体、なんで俺達に関わりたがる? アンタに何のメリットがあるんだ」


「メリットならあります!」


「なんだ、言ってみろ?」


「ワクワクしたんです! ワクワクして、それが本当に久しぶりで、この気持ちを手放したくないんです!」


「は? なに言ってんだアンタ!?」


 信じられない物を見るような目で、ザリガニ男は自分の足にすがりついている人間を見つめた。


 マシロはハサミで頭を潰されながらも、その隙間からジッとコチラを見ていた。その両の目には涙が浮かんでいた。それは痛みによる涙なのか、はたまた別の感情からくるものなのか。マシロは言葉を重ねた。


「私、ワクワクすることなんて、生まれてこの方無かった。そりゃ、小学校の時の遠足とか社会科見学とか、ワクワクしましたけど。そういうのじゃなくて」


 マシロは言葉を紡ぎながら、自分の心の中を探っているようだった。言語化することによって、自分の気持ちを確かめているようだった。ザリガニ男はそんなマシロの姿を、黒い目でジッと見ていた。


「大きくなってから、高校生くらいから、何やっても姉と比較されて、私は姉のオマケみたいな存在で。誰も私を見てくれなくて、何に対してもやる気がでなくなっちゃって。そんなだから、その内何やっても身につかなくて、不器用になっちゃって、私こんなんじゃないのに……」


 マシロの声が、嗚咽混じりになっていた。ザリガニ男はハサミを開いて、マシロの頭を解放した。ボサボサの頭がさらにボサボサになったなんとも情けない姿で、嗚咽を漏らしながら、それでも一言一言思いを乗せるように、マシロは言葉を紡いだ。


「昨日の夜は怖かったです。殺されるかと思いました。でも、自分の部屋に帰ってから、私ワクワクしてたんです」


 言いながら、マシロは自分の胸に手を当てた。


「今もドキドキしてるんです。変ですよね、私も最初は自分がついにおかしくなっちゃったんじゃないかって思ったんです。でも、違うんです」


 気が付けば、部屋の中はシンと静まり返っていた。一人の怪人と、一匹の化け狸が、一人のただの人間を見つめ、その言葉を待っていた。


「私、この状況を楽しんでいるんです。理由は自分でも分かりません。でも、この感覚は失くしちゃいけない、この『楽しい』を見失ってしまったら、私はもう何にもなれない」


 マシロはザリガニ男から手を離し、土下座をした。


「お願いします、皆さんのやろうとしている事、手伝わせてください……」


 額を床に擦り付け、肩を震わせるマシロの姿はあまりにも小さく、ともすれば消え入りそうなほど弱々しかった。


「……死ぬかもしれんぞ」


 長い沈黙の後、ザリガニ男はマシロの華奢な背中に言葉を落とした。頭を下げたまま、マシロは答えた。


「死ぬのは……ちょっと怖いですけど、たぶん大丈夫です」


「若い戦士ってのは、皆そう言うんだ。命は惜しくないって言って、いざ死の間際に至って、家族や恋人の顔が浮かんで大事なところで躊躇うんだ。俺はそういう奴らを何人も見てきた」


「それは、大丈夫です」


 マシロは顔を上げ、ザリガニ男と視線を合わせた。


「私に、そういうの無いですから」


 そう言った彼女の瞳は、どこまでも澄み切っていた。嘘偽りの無い、誤魔化しの無い、純粋な者の目だった。嗚呼、この子は今この瞬間、本当に死を恐れていないのだ、この子は本当に空虚なのだとザリガニ男は確信した。


 ザリガニ男は天井を仰いだ。


「ザリガニの旦那」


 と、窓の外から低い男性の声が響いた。皆が声のする方を見ると、窓ガラスの隙間から黒い墨汁の様な液体があふれ出ていた。やがて液体は一纏まりになり、人間の形になった。昨晩もこの部屋にいた、真っ黒な怪人であった。


「俺もその嬢ちゃんの参加は反対だ。だが、彼女の覚悟は本物の様に見える。ここで無下に断ってみなよ、癇癪起こして何をしでかすか分からんぞ」


「目の届くところに、置いておいた方が得策か?」


「俺はそう思うね」


 黒い怪人はウゴウゴと動いてマシロの前に立ち、白い目で彼女の顔を覗き込んだ。


「お嬢ちゃん、俺の姿を見て怖くないのか?」


「昨日も見ましたし、そんなに……」


「ふっ、そうかいそうかい」


 怪人の体がゼリーの様にプルプルと震えた。恐らく体を震わせて笑っているのだろう。


「肝が据わっているのか、頭のネジが飛んでるのか分からん奴だな」


 黒い怪人はクルリと回って、ザリガニ男に視線を送った。


「旦那、こいつは危険人物だぞ。改めて言おう、ここは嬢ちゃんの言う通りにして、傍に置いて監視しといた方がいいぞ」


 こいつ、楽しんでいるなと、ザリガニ男は黒い物体を睨んだ。


「ポン四郎、お前はどう思う?」


 話を振られ、ポン四郎はピシッと背筋を伸ばした。


「自分は、マシロさんに押し切られておめおめと部屋に招き入れてしまいました。そんな自分からは、何も言えません」


 ザリガニ男は再び天井を仰いだ。どうも旗色が悪い、どうしてこうなった。事ここに至っては、マシロが暴走しないように傍に置いておくことが最適解のように思えてきた。ザリガニ男は一際大きな溜息をついた。そして、ハサミをマシロの顔に向けた。


「お望み通り雑用でもなんでもやってもらうからな。但し、アンタに計画の詳細は教えない。そして、アンタも俺達にそれを決して聞いてはいけない。それが条件だ」


 マシロの顔がパッと明るくなった。そして、すぐにグシャグシャの泣き顔になった。彼女は言葉にならない言葉を喚きながら、ザリガニ男の足に抱きつき、蹴とばされた。


 かくして、一戸マシロは魑魅魍魎の一団の、仲間入りを果たしたのだった。

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