1-9

 ズキンという鈍い頭の痛みで、マシロは目を覚ました。昨日の怪人達との邂逅が夢の出来事のようだが、頭の痛みがそれが現実であった事を物語っている。


 マシロはベッドから上体を起こし、壁に手をついた。この壁一枚を隔てて怪人と同じアパートに暮らしていた。その事実につい数時間前まで気づいていなかったとは。そのことが未だに信じられない。


 と、マシロは後ろを振り返って、座卓の上を見やった。昨晩持ち帰ったハンドバッグこと化け狸のポン四郎の姿が消えていた。


 昨晩、彼は見事な変化を見せていた。おそらく、ハンドバッグから姿を変えて部屋に紛れ、コチラを監視しているのだろう。マシロはタヌキがどこに潜んでいるのか、何に化けているのかと部屋を見渡した。


 だが、元から物で溢れかえってカオスを形成している部屋である、小物が一つ増えたところで気づきようはずもない。マシロはタヌキ捜索を諦めた。


 洗面所に行き冷水で顔を洗い、いつもの洋服に着替えた。ベッドに腰かけ、さて今日はどうしようかとマシロは思案する。日々の暇つぶしのルーティーンを思い返し、しかしそのいずれも今のマシロには魅力的に思えなかった。


 何故だろうと考え、彼女は昨晩の事を思い出した。複数の怪人達に囲まれたあの時、マシロは間違いないなく命の危機に瀕していた。結果としてザリガニ男に頭を殴打されただけで目立った怪我もなく、こうして自室に座っているというのが改めて信じられない。


 奇跡の生還を果たした後では、どんな事柄も刺激的には思えない。


 昨日の事を思い返すと、心臓が高鳴る。


「なんでだろう……」


 天井に向かってポツリと呟くが、その疑問に対する答えはどこにも見当たらない。


 マシロはベッドに突っ伏した。考えが纏まらない、何に対してもやる気が起きない。彼女は枕を顔に押し付けて、ベッドの上をゴロゴロした。


 ゴロゴロして脳を揺さぶってみたが特に事が進展することもなく、ただでさえ無為な日常が、無為に過ぎ去っていくことに危機感を覚え始めました。


「散歩しよ……」


 考えが纏まらない時は、場所と状況を返るのが良い。マシロはスクッと立ち上がった。それから、「私って外出して良いんだっけ?」と疑問に至った。マシロは部屋の中の何処かに居るポン四郎に向かって声をかけた。


「あの……。私、散歩、行きたいんっすけど……」


 部屋の中に居るであろうタヌキからの返答は無い。


「あの、外出、しますよ? 行っちゃいますよ?」


 部屋の中をキョロキョロと見渡して、マシロはスカジャンを手に取りゆっくりと袖に手を通した。


 相変わらず部屋の中からポン四郎の返事は返ってこない。監視をするというのは実は脅しで、ポン四郎はすでに帰ってしまったのか、はたまたマシロが外出しようが何をしようが監視するのに差し支えないのか。


 沈黙を肯定と捉えて、マシロは外出することにした。


   ◇


 マシロはアパート近くの河川敷をプラプラと歩く。時刻は十五時を過ぎた頃。行き交う人々は少なく、近くの高校の生徒だろうか、揃いのユニフォームを着た一団が横を通り過ぎていく。


 川から吹きあがってくる風が、マシロの髪を撫でる。春先のまだ肌寒さを感じる風が、彼女の寝起きでぼやけた思考をクリアにしていく。マシロは昨晩、ザリガニ男から生還した時の事を改めて考えた。命からがら逃げ延びてきたというのに、自分はあろうことか『ワクワク』していたのだ。


 マシロは幼少期から何をしても姉のアカネと比較して評価されてきたため、物事を純粋に楽しんで取り組むということが無かった、出来なかったと言い換えても良い。


 上京してから実家では体験のできなかった様々な事にチャレンジしてみたが、そのいずれにも才能の芽が出ることは無かった。マシロの心にタールの様にこびり付いたトラウマが、自分とアカネを比較して嘲る人々の幻影が、彼女の楽しみを奪っていた。


 故にここ数年間、自分の心がワクワクするような体験が無かった。マシロは自分がそのような感傷を抱いた事に戸惑い、その原因がなんなのか突き止めたくなったのだ。


 マシロは河川敷を後にした。それから町内をグルリと、ゆっくりと時間をかけて一周した。特に目的はない、強いて言えば歩くこと自体が目的だ。歩いて、考えて、歩いて、考えて、そうしていれば何かに辿り着けるかもしれないと信じて。


 こんなに歩いたのはいつ以来だろうか。一日中家に引きこもり、ろくな運動もせずに自堕落な生活を送っていたマシロにとっては、少し歩いただけでもいい運動になる。


 日が傾きかけた頃には、マシロはすっかり息が上がっていた。ぜぇぜぇと肩で息をしながら、それでもマシロは歩き続けた。疲労の蓄積に比例して、思考がまとまってくる。


「あの時、私は楽しかった」


 気絶するぐらいの勢いで殴られ、殺されるかもしれない状況に身を置いていたのに、マシロは確かに楽しいという感情を抱いたのだ。状況と感想が一致していないと、マシロも自覚していた。


『吊り橋効果』という言葉が思い浮かんだ。恐怖や不安を強く感じた時に出会った異性に対し、恋愛感情を持ち安くなるという心理だが、ではマシロはザリガニ男に恋をしたのかというとそうではない。


 マシロはあの場、あの状況、非日常に恋をしたのだ。幼少期から今まで鬱屈として、閉塞していたつまらない日常に、超ド級の非日常が飛び込んできたのだ、劣等感に凝り固まったマシロの心が強く揺さぶられたのは無理からぬ事である。


 夜のとばりが降りた頃、マシロはアパートに帰ってきた。どれくらい歩いただろうか、ふくらはぎはパンパンに膨れ、汗で髪の毛が顔にべったり張り付いてる。疲労困憊で体はグダグダボロボロであったが、彼女の表情は晴れ晴れとしていた。


「私は、もう一度、あそこに行きたい。あの非日常に身を置きたい」


 言葉に出してみて、マシロはようやく自分が何がしたかったのかを認識した。


 十年来、久しぶりに『楽しい』という感情を抱いたのだ。この心に灯った火が消えてしまうくらいなら、死んだ方がマシだ。マシロは本気でそう思っていた。


 それはあまりにも危険な思考だが、彼女の覚悟はとうに決まっていた。

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