1-7

「うわああああああ」


 マシロは絶叫した。隣人が怪人ザリガニ男であったのだ、叫ぶのも無理からぬことである。


「うわああああああ」


 ザリガニ男も絶叫した。部屋でくつろいでいたら、髪の毛ボサボサで青白い肌をした目つきの悪い女が包丁を持って闖入してきたのだ、叫ぶのも無理からぬことである。


 勢いよくまろびでたマシロであったが、隣人の異形に完全に気勢を失っていた。


 口先から伸びた二本の触覚は小刻みに動いてこちらの様子を伺い、黒々とした両目が油断なく周囲を観察している。そして何より、両腕に備わった、電信柱くらい簡単にへし折りそうな巨大なハサミが、尋常ならざる威圧感を放っていた。


 右手に握った三徳包丁が、実に頼りない。


 彼我の距離は一メートル半。ザリガニ男が立ち上がれば、そのハサミでマシロの首を簡単に捕らえられそうな距離だ。一人と一匹との間に重苦しい沈黙が横たわる。


 と、沈黙に耐えかねてザリガニ男が気勢を発する。


「なんだお前……。ギャラティカルセブンの手の者か?」


 怒気を孕んだザリガニ男の声に、マシロの体は硬直した。しかし、ギャリティカルセブンという単語を耳にして、頭脳だけが醒めていくのを感じた。


 ギャラティカルセブン、そうだギャラティカルセブンだ。自分の心を掻き乱し、劣等感を植え付けてアカネと仲違えさせ、このような凶行に走らせた諸悪の根源はギャリティカルセブンだ。


 きっとそうだ、そうに違いない、そうでなければ困る。


 それなのに、目の前のザリガニ男は自分を彼の憎き相手の「手の者」と言ったのだ。その単語がマシロの逆鱗に触れた。


 マシロは右足を半歩後ろに下げ、重心を低くした。上体はやや前かがみにし、三徳包丁をゆっくりと腰だめに構えた。


 マシロの突撃姿勢に、ザリガニ男はギョッとした。


「おいおい、本気かよ。まさかアンタ、本当にギャラティカルセブンのエージェントなのか?」


「その名を……」


 マシロが背中を丸め、力を溜める。


「その名を口にするなぁ!」


 気合一閃。マシロは床を蹴って突進した。


「ちぇい」


 ザリガニ男がハサミを横なぎに振ると、三徳包丁の刃が根元からポッキリと折れた。折れた刃はクルクルと回りながら放物線を描き、反対側の壁に突き刺さった。その軌跡を目で追って、マシロは呆然とした。


 そして、


「あぁあああぁああん」


 柄だけになった包丁を握りしめ、マシロは赤子の様に泣いた。


 髪の毛ボサボサで青白い肌をした目つきの悪い女が、涙と鼻水と涎で顔をグシャグシャにしている様を、地獄絵図と言わずに何と言おう。賢明な読者諸氏にはすでにお分かりであろうが、彼女のここまでの行動はすべて勢いだけであり、状況を打開できるような奇策があった訳ではないということは書き添えておこう。


 あおん、あおんと情けない声を上げて泣きじゃくるマシロの姿に、ザリガニ男は驚きを通り越してドン引きしていた。


「なあ、アンタ、本当にエージェントなのか? いや、そんな訳ないか」


「びええええんあぁあああんゆあああああああ」


「エージェントじゃないならアンタ何なんだ? なんで俺の部屋に入り込んだ? なんでこの状況であんな事したんだ?」


「びええええんあぁあああんゆあああああああ」


「ああもう、五月蠅い! 近所迷惑だ!」


 顔から汁を垂れ流して泣きじゃくるマシロに業を煮やしたザリガニ男は、ハサミで彼女の右側頭部をぶん殴った。


 ゴギッという音ともに横に吹っ飛んだマシロは、今度は左側頭部を壁に打ち付けてそのままズルズルと崩れ落ちた。体の防御反応が作用したのか痛みはさほど感じなかったが、強烈な眠気にも似た感覚に襲われ、意識が急激に遠のいていくのを感じた。


 薄れゆく意識の中で、マシロは上京した日の事を思い出していた。


   ◇


 春先のまだ寒風吹きすさぶ東京行の新幹線のホーム、両親とアカネが見送りに来ていた。


 泣きじゃくり、満足に言葉を発する事ができない母の肩を抱き、父は「頑張ってこい、辛かったらいつでも戻ってくるんだよ」と激励した。姉は目にいっぱい涙を浮かべ、「いつでも電話してね、メールもメッセージも頂戴ね」と暖かい言葉をかけてくれた。


 当時のマシロはそんな家族の言葉を煩わしいと思い、早く新幹線が発車しないかと、ホームの電光掲示板をボンヤリと眺めていた。


 なぜあの時、「いってきます」の一言が言えなかったのか。なぜあの時、マシロを見送る彼らの惜別の情を汲み取ることが出来なかったのか。今更になって、そのことが悔やまれた。


「ごめんなさい」


 そう呟いて、マシロは気を失った。

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