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 繁華街と住宅地の分水嶺に地元で評判のパン屋「KUDOUベーカリー」は建っている。レンガ調の外壁の周りには、店長夫人が手入れした季節の花の鉢植えが並んでいる。


 時刻は午後四時を過ぎた頃。夕食や明日の朝食のパンを買い求める客達を迎え入れるため、店員が焼きたてのパンをいそいそと商品棚に陳列していた。

 工藤サエコもその一人だ。サエコは香ばしい匂いをたたえるカレーパンやら、ツナマヨパンやらが満載されたトレーを手早く、かつ丁寧に商品棚に納めていく。その仕事ぶりは、熟練者のそれであった。


 陳列を終えて一息、サエコは腰に手を当ててグイーッと伸びをした。後数十分で会社や学校から帰ってくる客達で店内が賑わう。来るピークタイムに向けて、サエコは「よしっ」と気合を入れなおした。


 と、ドアベルがカランカランと音をたてた。サエコが店の入り口を見やると、指二本分ほど開いたドアの隙間から、ギョロッとした眼がこちらの様子を伺っていた。


 溜息を一つ。サエコが内側からドアを思い切り引くと、一戸マシロがたたらを踏んで入店してきた。


「いらっしゃいませ」


 サエコはマシロの目を真っすぐに見ながら、仏頂面でそう言った。


「へへへ、いらっしゃいました……」


 マシロはサエコから目線を逸らし、逸らした先にあったメロンパンに向かって挨拶を返した。


 マシロはKUDOUベーカリーの常連である。


 約二年前、上京して調理師専門学校に通っていたサエコの元に、産休に入る叔母であるKUDOUベーカリー店長夫人の代わりに店を手伝って欲しいとの連絡が入った。パン作りのノウハウを実地で学べ、さらにバイト代も支払われるとなれば、そのお願いを断る理由は無かった。


 当初は一年間の期限付きのバイトであったが、サエコはすっかりパン作りに魅了され、叔父叔母夫妻の誘いも手伝って、専門学校を卒業すると同時にKUDOUベーカリーに就職をしたのだった。


 マシロがKUDOUベーカリーに通い始めたのはその頃だった。


 その日は雨が降っていた。水煙が立つほどアスファルトを打つ雨のため来客はおらず、サエコは手持ち無沙汰であった。ボーっと窓越しに通りを眺めていたサエコの視界に、白い影が横切った。


 それは雨の中、傘もささず、フラフラと茫然自失といった体で歩く女性の姿だった。


 顔面蒼白で虚ろな目の女性に只ならぬ気配を感じたサエコは、ずぶ濡れの女性を店の中に招き入れた。店の奥で休憩していた店長に声をかけ、バスタオルと暖かい飲み物を持ってきてもらう様に頼んだ。


 バスタオルで体を拭いてもらい、ホットミルクを飲んで幾分か落ち着いてきた女性は、サエコと店長夫婦にか細い声で「すみません、すみません」と何度も謝辞を述べた。恥ずかしさといたたまれなさでグシャグシャになった女性の顔に、サエコは見覚えがあった。


「もしかして、一戸マシロさん?」


 サエコの問いかけに、マシロはその顔をまじまじと見返した。


「工藤……サエコ、さん?」


 高校卒業以来、約一年ぶりの再会だった。


 マシロとサエコは同じ高校に通っていた。田舎の小さな高校だったため彼女達の学年は一クラスしかなかった。故に二人は三年間同じクラスで過ごした学友なのだが、その接点はほとんど無かった。会話を交わしたのも片手で数えるほどで、お互いにその人となりを知るほど深い関係には至らなかった。


 マシロからサエコへの印象は「真面目そうな、目つきの怖い人」、サエコからマシロへの印象は「大人しそうな、目つきの悪い人」程度の物であった。


 なんの因果か運命的な邂逅をした二人は再会を喜んだ。そして、サエコは何故こんな雨の中を心身喪失で歩いていたのかその理由を問うた。マシロはしばらく逡巡した後に、バツの悪そうな顔で、パチンコで生活費のほとんどを失って途方に暮れていたと白状した。


 その言葉にサエコは頭を抱え、店長夫婦は必死に笑いを堪えて肩を震わせていた。


「こんな物しかあげれないけど、食事の足しにしてね」


 と、店長はいくつかの食パンと、売れ残りの菓子パンを紙袋に詰めて、マシロに手渡した。彼女は首が取れそうなくらいペコペコと頭を下げ、何度も何度もお礼を言って店を後にした。それ以来、マシロは店に顔を出すようになったのだ。


 マシロはトレーとトングを手に取ると、先ほど揚ったばかりのカレーパンを取りレジの前に立った。


「百十円になります」


 お金を渡し、カレーパンが入った紙袋を受け取ったマシロは、モジモジしながら店の奥をチラチラと見ていた。所在無さげなマシロに、サエコは声をかけた。


「なんだ、パンの耳が欲しいのか?」


「えあ、ああ、えと……。はい」


 KUDOUベーカリーはパンを一点以上購入した方に限り、サンドイッチを作る際に切り落とされるパンの耳を無償で提供していた。


 このパンの耳がまた美味で、焼いて細かく刻んでサラダのトッピングにするも良し、揚げて砂糖とシナモンをまぶしておやつにしても良しという逸品で、常連の間でとても評判が良い。KUDOUベーカリーのヘビーユーザーであるマシロもパンの耳の愛好家の一人であるが、彼女は他の客と事情が違った。


 彼女がパンの耳を求める時は、パチンコで生活費を失って困窮している時だと相場が決まっていた。


 その事を熟知しているサエコは、マシロによく聞こえるように、大きな溜息をついた。


「何袋欲しいんだ?」


「あの……とりあえず、一袋」


「一袋で足りるのか?」


 サエコの言葉に、マシロは明らかに動揺した。この一年間交流を重ね、サエコはマシロの性質をなんとなく把握していた。マシロはコミュニケーションが苦手で、人前でもビクビクおどおどとしているが、その反面プライドが無駄に高く、見栄を張るきらいがあった。


 このパンの耳一つ取っても、どうせ廃棄する物なのだから必要な分を持っていけばいいのに、「無料だからと何袋も持って帰って卑しい女だと思われたくない」と見栄を張っているのだ。


「あの、じゃあ……二袋」


「二袋で足りるのか?」


「ひょあぁ、あ、あ、あ、あ」


「正直に言え、いくつ欲しいんだ?」


 まるで容疑者を追い詰める刑事の様な凄みに、マシロは首を垂れて観念した。そして、右手で「パー」を作った。サエコが眉間に皺を寄せた。


「五袋か……。ちょっと待ってろ」


 サエコは奥の調理場を覗いた。


「店長、パン耳五袋出せますか?」


「大丈夫だよ。なんだい、マシロちゃんが来たのかい?」


「はい、そいつです」


「ははは、ちょっと待ってな」


 しばらくの後、店長が大きな紙袋を持って調理場から出てきた。「いらっしゃい」と声をかけ、店長はマシロに紙袋を手渡した。


「おじさんも若い頃はギャンブルで借金こさえた口だから偉そうな事は言えないけど、ほどほどにしておきなよ?」


 KUDOUベーカリーの面々には全てお見通しであった。その事を認識した、いや、再認識したマシロは羞恥心で、顔が真っ赤に紅潮した。紙袋を受け取ったマシロは、


「いつもお世話になっております、助かってます」


 消え入りそうな声でそう言いながら顔を下に向け、紙袋を頭上に掲げてしずしずと後ずさりした。まるで卒業証書を受け取った学童のようだなと、サエコは思った。


 マシロは二人の顔を一切見ずに店の出口に向かい、後ろ手でドアを開けて脱兎のごとく走りだした。サエコと店長は半泣きのマシロの横顔と、羞恥心を振り払うかの様に逃げる哀愁漂う背中を見送った。

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