甘味伯爵 事始め
かこ
恋知らずのほろにがケーク 壱
「またな」
見上げた笑顔、橙のやさしい夕陽。
あたたかい手が頭を撫でる。
またという別れの言葉。
疑いも知らない
それから五年、会えないことも知らずに。
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面倒ごとによく出くわす杏は、今日も外れなかった。学校から帰った矢先に、雀が
杏の白く汚れた着物を母の手が払い、腰を落としたまま娘の鼻を摘まんだ。不器用でその上どんくさいのに、犬みたいねと軽い調子で言われ鼻から手が離れる。
間違ってるとも思わないし、からかい混じりのそれは痛くもかゆくもない。杏はさほど高くもない鼻を指で撫で、母を見上げた。
いつも忙しなく働いているのに、頭巾の下はほつれがない。寝癖がなかなか直らない杏はとても羨ましい。
杏が見つめていると、母がまた鼻を摘まんできた。
「かわいい杏ちゃん。今日もお使いお願いできる?」
母の役者じみた言い方は何処か艶がある。
素直に頷く杏の頭を母のざらついた手が撫でた。小柄な杏より頭二つ分の上背がある母には娘のつむじがよく見える。その小さな点が見えなくなるまで頭を撫でた後、満足した様子の母は風呂敷を手渡した。
「本条様のお屋敷にこれを持っていっておくれ。上生菓子だから、そぉっとね」
杏は手櫛で髪を整えながら神妙に頷いた。
しっかりと抱えた娘に母は思い出したように言う。
「そうそう、今日のおやつはあられにしましょ。店に出せないのが、ごまんとあるわ」
「父ちゃん、また、投げ捨てたの」
杏は言葉を確かめるようにゆっくりと話す。学校でとろまと言われてあまり話さなくなった起因だ。
娘の冷めた言葉に母は苦笑する。
「焼きすぎたのよ。愛弟子にじっくり灸をすえてたみたいでね」
「……炭じゃ、ない?」
「大丈夫、ちゃぁんと分けたから」
杏の渋面に母は肩をすくめた。
分けたと言うからには、いくつかは食べ物ではなくなったのだろう。もったいないこと極まりない。いつか手伝うようになったら気を付けようと杏は密かに決意する。母に見送られ、一つ先の町に足を踏み入れた。
馬車や車がよく通る道は避け、屋敷の前を通りすぎる。名家が立ち並ぶ道は白い壁や立派な生垣ばかりだ。しかも、どれもかしこも長く、根気よく歩くしかない。道の交差路では立ち止まり、郵便配達の自転車をやり過ごす。角を曲がり、地蔵の前に出た。杏は風呂敷を抱えたまま、いつものように小さく拝む。そして、五年間変わらない願い事をした。家族と、かの人の息災だ。
その隣に白髪のおばあさんが並び声をかけてくる。
「こんにちは。小さいのにえらいねぇ」
菓子を落とさぬように頭を垂れた杏は慣れ親しんだ道を進んだ。週に二、三度、五年以上通う道だ。最初の頃は行き交う人全てが恐ろしく見えて苦労した。それもこれも初めての使いでさんざんな目にあったからだ。
初めて使いへ行ったのも本条家だった。正確には兄に押し付けられ、右も左もわからない状態でしたものだ。烏に追われ、道がわからなくなった苦い思い出と共にやさしい手を思い出す。骨ばった父の手とも違う、あたたかく大きな手だった。
たった一度きり会っただけの男の人。夕陽で影になった笑顔はよく思い出せない。
遅い時間に送り届けられた杏は引きこもる所か、心配する両親にまたお使いすると豪語していた。目を
懐かしい思い出にひたる杏は曲がり角の先をよく見ていなかった。大事に抱えた菓子ごと何かにぶつかる。顔を上げ、目に映ったものを鬼かと見間違えた。悲鳴も喉の奥に隠れるほどの異様さだ。
髪はのび放題の荒れ放題。肌は汚れて、顔の下半分は髭だらけ。薄汚れたシャツや浅黒い肌と相反するように白目は浮き出るようで、その中心の瞳は爛々と輝く。まさに鬼である。
杏はその場で動けなくなってしまった。
「この近くの者か」
鬼が声をかけてきたが、杏は瞬きもできずに固まっていた。
おい、と鬼は一層、声を低くする。
「本条の家を知ってるか」
杏は下を向いて首を振る。知っているが、教えるわけにはいかない。
「じゃあ、交番まで案内してくれ」
髪をかきむしりながら鬼は投げやりに言った。
鬼自ら捕まりに行くとは思えず、杏は一文字に口を結び風呂敷を強く抱き締めた。油断させておいて、ひどい仕打ちを受けるかもしれない。母にも知らない人にはついていっては駄目だと口すっぱく言われている。
顔をあげることができない杏はずっと首を振り続ける。壊れた人形よりも恐ろしく揺れる頭に手が置かれた。鬼の手だ。
「落ち着け。俺は怪しい者ではない。ほんじょ……て、泣くな。この姿には訳があるんだ。見た目は恐いかもしれないが、怪しい者では……いや、自分で言うのは十分怪しいな。て、おい! それ以上泣くな! 泣くほどじゃないだろう、全く!」
狼狽える男がいくら声をかけてこようと、杏の目からは止めどなく涙が落ちていく。ぽろぽろと落ちては風呂敷に染みを作った。
涙がこぼれるのも構わずに杏は顔を上げる。瞳に映るものはやはり鬼で記憶の彼とはこれっぽっちも重ならない。それでも、頭に置かれたあたたかくて大きな手は間違えようがなかった。
「ほ、本条
使いを始めて数ヵ月、やっとの思いで屋敷の者に教えてもらった名前を口にする。五年間、心の中だけで呼び続けた名前だ。
「どうして、俺の名を知っているんだ」
克哉は眉を寄せて
杏が一生懸命に説明しようにも、慣れていない口は何度もどもる。
「お、お礼が、言い、たくてっ屋敷の人に、名前を……聞き、ました。わ、忘れて、いるとは、っ、思います。会ったのは……一度きり、なので」
迷子の時に助けてもらいましたと聞き取りづらい声で付け足された。
瞼を閉じて顎と髭を撫でる克哉は唐突に刮目する。
杏の体は大きく揺れたが、間一髪で風呂敷を落とさずに済んだ。驚きすぎて涙も引っ込む。
「泣き顔に見覚えがあると思ったんだ。数年前、このあたりで迷子になった、そうだろう?」
杏はすぐに頷いた。頬がゆるみそうだ。天にも上るような心地の杏を突き落としたのは、続く言葉だ。
「ガキの頃まんまだな」
歯切れよく言い放った克哉は、豪快に笑っている。
そういえば、快活な人だった。思い出してくれたのは嬉しいと感じつつも杏の心は凍りついた。
あの頃から五年はたっていた。小柄なりに背ものびた。おかっぱで跳ね返るばかりの髪も腰の長さになるまで根気よく
初めて味わう感情を持てあました杏は、一礼して踵をかえした。慌てる克哉のことなどお構いなしにどんどん進む。ぶり返す涙を無理に押し込むと目頭が痛い。それよりも痛む心と追いかけてくる克哉を無視して杏は先を急いだ。
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