第八章 金魚撩乱①

 その作品は意味を二種類もつ「入口」だった。その日は放課後、現代文の期末範囲を聞きに中嶋先生のもとを訪れていた。中庭の金木犀が主役を飾り、おおいにその魅力的な香りをひけらかしている。運動部が押しかけており騒がしくなっている職員室から離れ国語科準備室へ向かった。ここも随分者が増えた。普段授業で使われることなどなく、どこかの部活が部室として使っているわけでもない。使っているのは端から見れば何も共通点のない五人の生徒と一人の教師。放り出された鏡と机の引き出しの中に隠されているヘアアイロンは莉子ちゃんのもの。持って帰るのが面倒くさそうなサッカー用具は白峰君。何時も皆が集う長机に置かれているお菓子は、帆澄君がバイト先でパートの方々に貰って来たもの。持ち運びの億劫な分厚い資料集には夜永さんの名前があった。かく言う私はというと、本を数冊置かせてもらっている。

先生と二人で教科書を覗き込んでいると、国語科準備室のドアが勢いよく開いた。そこにはスマホ片手に息を切らす莉子ちゃん。前髪を整えながら入室し、真っ直ぐ私達に近付いてきた。

「和香ちゃんも中じぃもどっちもいてよかったァ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」と前置きして、彼女は器用にスマホを操作し、ある画面を私と先生に見せた。それは漫画の表紙だった。そのタイトルを認識した途端、反射でその作品の作者の名前を呼んでいた。


「岡本かの子」

「お、やっぱ知ってる!?」


知ってるも何も、こちらからしたら何故莉子ちゃんが知っているんだという感じだ。綺麗な絵柄で表現されているのは絡み合う男女。原作者の名前は確かに岡本かの子だった。表示されていた漫画のタイトルを読み上げる。先生は楽しそうに口角を上げ、莉子ちゃんはやや興奮気味だった。あまりにも美しいそのタイトルは、賑やかな室内に静かに強かに響いて消えた。


「金魚撩乱」


長机の反対側で莉子ちゃんは楽しげに話始める。最近SNSの広告などでこの作品が流れてきたのだと。絵が気に入り読んでみたら面白く、原作小説を読んでみようと検索をかけたら「岡本かの子」に関する、彼女には苦手な部類の資料が多くでてきたらしい。それでも原作を読みたかった彼女は私と先生に助けを求めてきた。文化祭の際に交換していた連絡先。莉子ちゃんからチャットルームに送られてきたのはURLだった。どうやらこの漫画は電子版しか配信しておらず、URLをタップすると漫画サイトに飛ぶことが出来た。先生が私のスマホを覗き込むような形でまず一旦読んでみる。見た感じストーリーは若干違えど原作が良く再現されていた。特にヒロインの妖艶さは素晴らしかった。

依然としてキラキラ輝かせた瞳で私に期待してくる彼女に、さて答えてやらねばとスマホを閉じた。導入はまず作者のことだろう。岡本かの子はその破天荒さが面白いので、きっと莉子ちゃんも好きになるに違いない。


「岡本かの子はまず、「芸術は爆発だ」でお馴染みの岡本太郎の実の母親です」

「え!?つよつよファミリーじゃん!!」

「……そう、ですね」


莉子ちゃんはたまによく分からない言葉を使う。いちいち拾ってると話題が逸れるので、今回はそのまま進めることにした。岡本かの子は大正・昭和に活躍した小説家であり歌人だ。漫画家岡本一平の妻であり、芸術家岡本太郎の母である。小説家としてデビューしたのは晩年だったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。またその私生活も破天荒で、周りの人間をことごとく驚かせた。「岡本かの子は愛人と主人と同居生活してたんですよ」と教えれば、彼女はしばらく固まった後に「えぇ!?」と大声を上げた。


「年下の大学生の男性と旦那公認で同居生活をしていました。ちなみにその大学生との間に娘も産まれています」

「泥沼だぁ」


私の解説を聞くなり莉子ちゃんは、あまりの衝撃にわなわなと震え始める。莉子ちゃんのリアクションに先生はまた楽しそうに笑った。わなわなとしばらく震えていた莉子ちゃんはその後落ち着きを取り戻し、「なんか面白い人だね」と笑った。しかし驚いた。今のこの時代に、まさか岡本かの子の小説を漫画化しようなどと考える人がいるなんて。入口がどうであれ莉子ちゃんの方から興味を持ってくれたことが嬉しかった。


「私もこの漫画読んでみようと思います」


私のその言葉に莉子ちゃんは分かりやすく目を輝かせる。掌の中でスマホが揺れる。送られてきていたのは先ほど送られてきたものとは別の漫画閲覧サイトのURLだった。莉子ちゃんは「和香ちゃんが漫画に興味持ってくれて嬉しい」と笑う。原作が岡本かの子でなければ読まなかったし、金魚撩乱でなければ手を伸ばしていなかったと思う。その後も鳴り止まない通知の全てが、文学作品を原作にした漫画だった。こんなにもあったのかと驚いたのと同時に、莉子ちゃんがこんなにもそういった系統の漫画を読んでいることに驚いた。つくづく興味の入口とは人それぞれだ。

先生にお礼とさよならを述べて帰路につく。帰りに莉子ちゃんと帆澄君のバイト先の本屋へ向かった。『金魚撩乱』は単体では書籍化されていないので、岡本かの子の短編集を買ってレジへ持っていく。レジ打ちを担当した帆澄君は少し複雑な顔をしていた。別れ際に向けられた彼女の笑顔に心満たされながら、私は産まれて初めて帰りのバスで漫画を読んだ。

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