第五章 銀河鉄道の夜①

 世の中は夏休みだというのに、私は今学校へ向かっている。理由は簡単で例のごとく先生からの頼まれごとを実行しているのだ。もちろん私が通う高校もちゃんと夏休みに突入している。そんな八月。近所の小学生が持って帰ってきた朝顔が、鮮やかに道端を彩る季節だ。滴り落ちてくる汗をぬぐいながら学校へと向かう。アスファルトの地面から漂う陽炎が、今この時の気温の異常さを物語っている。夏休みでスクールバスの本数が減ったため、歩きで向かわなければならないのがまたしんどい要因だ。日傘をさしているからまだいいものの、アスファルトから湧き上がる熱でサウナのようになりそうだ。


 やっとの思いで学校へ到着し、向かうのは教室ではなく保健室。ノックをしてから扉を開けると、一気に冷えた空気が肌を覆う。保健室の奥に備え付けられた座椅子には、量の多い黒髪を太く緩く三つ編みにした、細いフレームの丸メガネが良く似合う華奢な少女が座っている。その対面には養護教諭と中嶋先生が座っている。私が来たことに気づくと、若く美しい養護教諭は、さながら白衣の天使のごとく柔らかな微笑を浮かべた。中嶋先生と一言二言会話してから、私のわきを通って自分の仕事へ戻るべく保健室内にある教員机へ戻っていった。


 丸メガネの彼女と軽く会釈を交わしてから、先程まで養護教諭が座っていた席へ腰を下ろした。彼女の対面、先生の隣だ。向かい合う彼女について私が知っていることは多くない。名前は夜永望結。私と同じクラスの不登校生徒。正確には去年の夏から保健室登校をしている。成績は悪くなく、ただ教室に行けないだけ。私と同じかそれ以上に人と話すのが苦手な人見知り。そして去年の夏、彼女の唯一無二の親友が交通事故で亡くなった。それが原因で保健室登校になった…というのが大人たちの見解だ。私が先生から頼まれたのは、彼女に勉強を教えつつ仲良くなり教室へ連れ戻すこと。そう、今はもう夏休み。我々高校三年生には受験というものが近づいてきている。焦った大人たちの策略にまず先生が巻き込まれ、そして私が巻き添えを食らった形だ。


 先生にお世話になっている以上無碍には出来ず、特に友達と遊ぶ予定のないので暇だったからちょうどいいと引き受けた。夏休みになってから会った友達?と言えば、バイトの休憩時間に談笑してくれた帆澄君くらいだ。あと学校にいるとたまに部活中の白峰君を見かける。特に話すこともないので、声をかけることはないけれど。莉子ちゃんは派手なお友達と遊ぶのが忙しいみたいだ。


 「…」


 「……」


 この保健室に通って数日になるが、いかんせん会話が続かない。先生は似た者同士気が合うだろうと言ってきたが、コミュ障が二人揃っただけで会話が弾むはずがないだろう。そもそも会話が始められないのだから。莉子ちゃんや白峰君のような「陽」の方々が、本来向いているであろうことだ。帆澄君にこの作戦のことを話したら、同情されたし憐れみの言葉をかけられたので、恐らく彼はこちら側だ。無言でひたすら課題を進める空間の空気は、尋常じゃないほどに重い。


彼女が手を止めていたら話しかけて、分からない場所を教えて、教え終わったら自分の課題を進める。ひたすらにそれの繰り返しで、仲が深まるはずもなく。度々先生が職員室から訪ねてきてくれた時だけ、先生の場回しのおかげで会話が弾む。先生を挟んで会話をしていると、彼女に対して違和感を覚える瞬間がある。


彼女は笑って話すのだ。他でもない、亡くなったはずの親友の話を。大人たちの話だと彼女は相当親友の死を気に病んでいて。そのせいで教室へ行けなくなってここに居るわけで。笑顔で楽しそうに、まるで先程までも会っていたかのように親友について語る彼女。丸メガネの奥、星空のように瞳を輝かせた。まるでその親友が、死んでなんかいないみたいに。先生が職員室へ戻った後、ふと彼女へ話題を振ってみた。


「親友さんはどんな方なんですか?」


 彼女はテキストへ向けていた顔を上げて、星空を閉じ込めたような深い藍色の瞳で私を見つめ返してきた。その表情からは本当にその親友を慕っていることがうかがえて、心がグッと苦しくなった。


「貴方も知ってると思いますよ。陸上部で有名ですから。朝比奈凛って言うんです」


 知ってる。周りの人間に疎い私でも知っている。朝比奈凛は我が校で陸上部のエースだった人物だ。全国大会で日本一に輝き、将来はオリンピックでの活躍も期待されていた。また人柄もよく。自分の能力を決して驕ることなくストイックな姿勢で、どんな人にも気さくな態度で接する正真正銘の「人気者」。私は話したことはなかったけれど。


「今はこの間の大会で結果が残せなくて塞ぎ込んじゃってるんです。部屋から出てきてくれなくて…」


 彼女の言葉で理解した。そういうことになっているのだなと。藍色の輝きを失うことなく、いかに自分の親友が素晴らしいか、どれほど自分か彼女を知ったっているのかを、今までとは打って変わって饒舌に語る。その姿が痛々しくて見ていられず、離れた仕事机にいる養護教諭へ視線を向けた。私と目が合うと、眉根を悲しそうに下げて首を横に振る。きっと今彼女は向き合うことが出来なかったのだろう。この一年間ずっと、眼をそらし続けているのだろう。親友がいないこの世界から、ずっと。そんな彼女にどんな反応を返せばいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか。まだ未熟な私には分からず、ただただ相槌を打って彼女の話に合わせた。


その後も彼女は課題を進めながらも器用に話を続けていく。出会ったときのこと。一緒に出掛けた場所。貰った言葉。贈り合ったプレゼント。そのすべて、一単語、一文字に、愛しさがこれでもかという程詰め込まれていた。彼女が帰った後、保健室で中嶋先生と話をした。彼女のこと、これからのこと。「今はまだ、夢の中に居させてやりたい」と先生は言った。向き合い方なんて人それぞれで、受け止め方も十人十色だと。私もそれには同意見だ。そしてそれを咀嚼するのにかかる時間にも個人差があっていい。私の気分が重くなっていると悟ったのか、先生が笑顔でテンションを無理やり上げて発表した。


「合宿やるぞ!」


「は?」


 夏休み最後の週。二泊三日で、先生の別荘で勉強合宿。学校からの正式な許可も下りているらしく、学校行事の知らせとなんら遜色ない手紙を渡されて説明された。この人はいつも急だ。そして突飛だ。参加メンバーも既に決まっていて、私、白峰君、莉子ちゃん、帆澄君、夜永さんの五人だ。表向きの名目は成績が危ない人たちと成績のいい人たちを協力させて、どうにか最後の悪あがきで二学期の成績を上げさせよう…。といった感じらしい。私たちは三年生なので課題もそんなに出ておらず、受験勉強というものを始める、いいきっかけかもしれないと思った。だがこの目的はあくまで表向き。本来の目的は先生が私と皆を遊ばせたいだけらしい。その証拠に、持ち物の中に「好きな本一冊」と書かれている。本当に仕方のない人だ。


 家に帰って手紙を見せれば、案外すんなりと両親からの了承が下りた。自室に戻って、無造作に床へリュックを投げる。汗にまみれた制服を脱いで壁にかけ、ベッドの上に横になった。今日見た彼女の眩しい笑顔が脳裏をよぎる。夜空を閉じ込めたような瞳も、満月のように綺麗な笑みも。本当のことを知ったら、向き合ってしまったらなくなってしまう。とても眩いその表情だけはなくしてはいけないと思った。


 悶々とした気持ちを抱えているときは矢張り読書に限る。私はベッドから起き上がり、本棚の中から適当に一冊を選び出した。書店のブックカバーを捲って飛び込んできた題名に思わず笑みがこぼれた。今の悶々としたこの気持ちに、終止符を打ってくれそうな本だったからだ。


「銀河鉄道の夜」

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