【君の事を、愛していた】

 これを悪夢と呼んでいいのかはよくわからない。昨年の年末から、時々見る夢だった。その夢を見て目を覚ますと、必ず、背中にはぐっしょりと寝汗をかき、心臓は強く脈打っていた。

 久しぶりに見たな、と秋葉は思った。頭を振って、意識を覚醒方向に導く。ベッドから起き出して洗面所に向かうと、コップに水を注いでカラカラに乾いていた喉を潤した。

 ふう、と溜め息がひとつ落ちる。脳裏にはまだ、夢の中の光景がこびりついたままだ。


 夢の中の彼女は、必ず白いセーターを着て、ドット柄のミニスカートを履いていた。

 解放感のある服装だが、季節は紛れもなく冬だ。千花の、屈託のない笑顔がこちらに向いている。どんなに手を伸ばしても、決して触れることができない娘の姿に、それでも懸命に手を伸ばした。彼女はアパートの前の道を、駅の方角に向かって歩いて行く。彼女のあとを追いかけたいのに、彼の足は、地面に縫いとめられたかのごとくまったく動かない。そんな秋葉の様子を確かめるみたいに、千花は何度も振り返っては向日葵のような笑みを向けてくる。

 段々と、彼女の顔が悲しそうに歪んで、かすかに動いた口元から歌うように言葉が紡がれた。


 ――ゴメンね、パパ、と。


 何について謝っているんだろう?

 疑問が首をもたげたのを合図にするように、夢は必ずその場面で途切れた。



 秋葉が熱を出して、会社を休んだあの日の夜。

 夜中に一度目を覚ましたとき、千花が同じ布団の中で静かに寝息をたてていたのを覚えている。

 夜明けがくれば、娘は元いた時代に帰ってしまう。そんな寂しさから、『一緒の布団で寝たい』という彼女の要求を受け入れた。

 このまま彼女の寝顔を見つめたまま、朝を迎えようかと一瞬だけ迷ったが、明日は早いのだしと考え直してもう一度横になった。

 けど、もしかしたら、そのまま起きていれば良かったのかもしれない。そうすれば、背中から伝わってくる娘の温もりに安心して、深い眠りに落ちてしまうこともなかっただろうから。


 朝、秋葉が目覚めると、ベッドの上に一人で眠っていた。隣で眠っていたはずの千花は、いつの間にかいなくなっている。ベッドのシーツに触れてみると、さらりとした感触でひんやりと冷たかった。彼女の温もりは、すでに失われたあとだった。

 もしかすると、一緒の布団で眠った記憶すらも、自分の夢や妄想の類だったんじゃなかろうか、などと馬鹿げたことを考えながら、彼はベッドの上に身体を起こした。


 ――千花、という声が、秋葉の口から漏れた。


 だが、彼の呼びかけに、応える声も姿もない。

 窓から差し込んでいる軽快な日光に目をすがめ、目覚まし時計を手に取った。七時十五分。休日の目覚めとしては、別段遅い時間でもなかった。

 大きく伸びをすると、思考がクリアになってくる。眠気が晴れるにつれて、彼は、幾つかの違和感を見つけ始める。

 午前中一杯着たままのことも多かった彼女のパジャマは、丁寧に畳まれて部屋の隅に置いてあった。ゆっくりと、部屋中を見渡すと、キツネ色に焼かれバターを塗ったトーストが二枚、ガラステーブルの上の皿に鎮座していた。その傍らには、ホットミルクが入ったポットが添えられていた。

 しかし、朝食を準備してくれたであろう、娘の姿はどこにもない。もちろんのこと、毎朝彼女が立っていたキッチンの中も、もぬけの殻だった。

 この段階まできて、秋葉は違和感の正体に気が付いた。大慌てで跳ね起きると、昨日の夜、彼女が洋服を掛けてあったハンガーと旅行鞄を探した。その何れもが、無くなっていた。

 いや――そればかりではない。

 千花が毎日使っていた歯ブラシ。

 タオル。

 スマートフォンの充電器。

 週末に使っていた化粧用のポーチ。

 彼女が履いていたローファーも。その匂いも、温もりも。彼女が存在していた痕跡の全てが、失われたあとだった。

 そして玄関口のところに、彼女に貸してあった合鍵が落ちているのを確認した瞬間、千花むすめがすでにいなくなっている現実を突きつけられた秋葉は、悲鳴じみた叫びを上げることになった。


「千花!!」


 瞬時に秋葉は理解していた。これから自分がやろうとしている行為は、きっと無駄なのだろうと。だが彼の脳は、現実を受け入れることを強く拒んだ。

 素早く着替えを済ませると、愛車のキーと財布だけを握り締め、彼女が唯一残していってくれたトーストを咥えて部屋を飛び出した。

 駐車場まで必死で駆けながら、彼女が旅立つ場所も時間も、何ひとつ把握していないことに遅れて気がつく。

 思わず悪態が口をついて出るが、今さらどうすることもできなかった。


 愛車に乗ってエンジンをかけると、まずは駅前のショッピングモールに行こうと考える。気持ちが急いていたのだろう。乱暴になったアクセル操作のせいで、後輪がスキール音をわずかに上げる。

 冷静になって考えると当然なのだが、ショッピングモールはまだ開店前だった。だが、正常に機能しているとは言い難い秋葉の思考から、時間という概念は抜け落ちていた。

 ショッピングモールの駐車場をぐるりと一周したあと、高尾駅へと車を走らせる。

 駐車場に車を停め駅の構内へと駆け込むと、数日前に千花が蹲っていたベンチ。構内の売店。切符売り場。二つの改札口等々……とにかくアテもなく彷徨い続けた。

 駅でも彼女の姿を認められないことがわかると、再び車に乗って高速道路をひた走り、茅ヶ崎海岸を目指した。


 秋葉悟は、頭では理解していた。

 どんなに彼女を探しても、無駄なんだということを。千花はもう、この世界のどこにもいないんだということも。 それでも彼は、愛車を走らせ続けた。彼女の存在が消え失せてしまったことを、彼女が『いなくなった』という事実を、自分の目で見届けなければ納得できなくなっていた。


 ――千花の奴、そのうちまた、フラっと帰ってくるんじゃないのか?

 ――実を言うと彼女は、都内に住んでいる普通の女子高生なんじゃないのか?


 淡い期待を捨てきれずにいた。ありもしない妄想を、ただひたすら繰り返していた。

 茅ケ崎海岸に到着すると、秋葉は愛車から飛び出して、海岸沿いを走り砂浜の上を必死で駆けた。

 砂に足を取られて何度も転びそうになりながらも、千花の名前を呼んだ。何度も呼んだ。彼女が存在していた痕跡が全てなくなっているのを確かめるように、声も限りに叫んだ。

 不意に秋葉は立ち止まる。三百六十度、あらゆる方向に視線を走らせる。見渡す限りの砂浜に人の姿はまばらにしかなく、無論、彼女の姿などあるはずがない。

 不思議と意識が冴え渡っていった。視覚に限らずあらゆる感覚の解像度が、飛躍的に向上していく。視界がわずかに滲むのがわかった。鼻腔をつく、汗の匂いがわかった。遠くで響く潮騒の音が、鮮明に聞こえた。

 次第に彼は、現実を受け入れ始める。


 今頃千花は、元の時代に帰り着いたのだろうか?


 何を思いながら、彼女は帰路についたのだろうか?


 見送ると、約束したじゃないか。


 どうして一人で行ってしまったんだ。


 最初に出会った日のこと、覚えているか?


 俺は当初、お前の存在を、面倒だとか疎ましいとか、考えていたんだ。


 でも、途中から変わったんだ。


 千花が、頑張ってくれたからだ。


 家事も料理も、よくやってくれたからだ。


 山形から東京に出て来て初めて、アパートに帰るのを楽しみだと俺は感じていたんだ。


 嘘じゃない。本当なんだ。


 千花!


 お前はあと何年で、生まれてきてくれるんだ。


 そうか、今から八年後だったか。


 八年か。随分と長いな。……俺は、そんなに長く待つことなどできそうにないよ。


 情けないと思うだろう? でも、待てないんだ。


 伝えたかった言葉があるんだ。


 伝えたかった言葉が、もっともっとあったんだよ。


 あったんだよ千花。


 俺は千花のことが好きだ。


 ――千花、俺は君のことを、


「愛していたんだ!」


 自分の娘に対して告げてはならない言葉を叫ぶと、秋葉は砂の上に両手をついて蹲った。彼女を探す行為が無駄な努力なんだと改めて認識すると、頬を伝う涙が止まらなくなった。ただただ、嗚咽をあげて泣きじゃくった。


 ――情けないものだ。


 きっともう、二度とこんな恋には出逢えない。

 止め処なくわき上がっては溢れてくる感情に、視界は滲み、鼻はつまり、呼吸は苦しくなっていた。目元を拭いながら空を見上げる。

 雲ひとつない晴れきった空だった。冴え渡っていたはずの視覚は、空の色のみ認識できていなかったらしい。この瞬間まで秋葉は、こんなにも天候が良いことに気が付いてなかった。頭上をすっぽりと包んでいる空は、溶いた絵の具を薄く塗り広げたような青だ。海面は空の色を落としこんで紺碧こんぺきに染まり、吹く風に大きなうねりを上げながら、波頭を白く煌めかせていた。

 実に綺麗な、空と海だった。この輝く水面を、千花にも見せてやりたかった。


 茅ヶ崎海岸を出たあとも秋葉は、目的もなく彷徨い続けた。こんな時間まで千花がいるはずもないのに、と悪態をつきながら、それでもひたすら彷徨った。

 イルミネーションを二人で見上げた八王子駅の南口。買い物をしたショッピングモール。高尾駅の裏手側にあるラーメン店。どこにも千花の姿がないことを確認し終えたあとで、ようやくアパートに戻る。

 まるで夢を見ていたようだった。夢から覚めてしまったから、娘は消えてしまったんだ、と秋葉は思った。

 葛見千花が秋葉悟に残してくれた物。

 それは、バターを塗ったトーストだけではなかった。

 アパートのガラステーブルの上に置かれてあったに秋葉が気が付いたのは、三十分ほど茫然と過ごしてからのこと。

『お父さんへ』と表に書かれた封筒の中に、綺麗な字で書かれた便箋が一枚入っていた。



 前略――私の大好きなお父さんへ。


 お話をしていませんでしたが、こちらの世界では、私の隣にパパはいません。

 その理由はゴメンなさい。やっぱり手紙でも、伝えることはできないの。

 でも、安心してください。ママとの関係が険悪になったから、とかそんな理由で、一緒に暮らせなくなったわけではありませんから。

 もうすぐ、ママと出逢う日が来るんじゃないかと思いますが、全力で愛してあげてください。

 これは、私からのお願いです。


 本当のことを言うと、手紙だけを残してパパと別れてしまうことが、私はとても辛いのです。

 これから先、私はパパがいなくても、ママと二人でちゃんとやっていけるようにしなくてはなりません。本当に大丈夫なのか、いまひとつ自信がないのですが、それでも頑張らないといけないのですよね。

 私も、パパも、きっとそうですよね?


 そのために、私はパパと三つの約束をします。


 まずひとつめです。

 私は、もう絶対に泣きません。

 私が涙を流していると、ママが悲しそうな顔をするからです。私は自分の両親に、辛い顔をして欲しくないんです。だから、一生懸命前だけを向いて生きていきます。


 二つめ。

 私は、今後むやみに怒りません。

 私が幼かったころ、拗ねて口を利かなくなった日があるんです。その時パパは、酷く悲しそうな顔をしていました。

 自分の大切な人に、あんな顔はもう二度とさせたくないのです。


 最後に三つめです。

 私はここで過ごした一週間の日々を、一生忘れません。

 思えば短い間でしたね。それでも、パパの隣にいられたことが、とても嬉しかったのです。

 あなたの娘であることを、私は誇りに思います。

 絶対に、絶対に忘れません。

 あと何年かで生まれてくる、小さな私のことも愛してください。それでも時々は、十八歳の私のことも思い出してください。

 パパのことを愛していました。

 どうか、どうか元気で。


 それでは、さようなら。

 大好きなパパへ。  ―― 十八歳の葛見千花より。

 かしこ。



 そこまで読み終えると、便箋の上に雫が落ちた。文字が滲んでしまいそうになって、慌てて丁寧に畳むと封筒に仕舞う。

 そうか。日記じゃなくて、手紙を書いていたのか。余計な詮索をして悪かったな、と秋葉は思う。

 滲んだ視界のなか顔を上げた。溜め込んだ涙が、それ以上零れてしまわないように。


「ばかやろう。辛かったら泣いてもいいんだ。腹が立ったら、怒ってもいいんだ。悲しくなったら――」


 そうだな、この一週間の記憶を思い出そう。そしてまた、頑張ろう。秋葉はこの日、未来ミライにいる千花むすめに、そう誓いを立てた。

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