【幕間:親子水入らずのお風呂は良いもんだよね?】

【入浴】

 入浴とは、主に人が身体の清潔を保ち日々の疲れを癒すことを目的として、湯や水に身を浸す行為を指す。



「ふー。気持ちいい」


 湯船に肩まで浸かりながら、秋葉は日々の疲れを吐く息に乗せた。

 一日の終わりにゆっくりと風呂に浸かるのは、多くの人にとって至福の時間である。それは彼とて例外ではない。 秋葉の部屋はワンルームアパートではあるが、バス・トイレ別々の間取りになっている。むしろそこに拘り物件を選んだことからも推測できるように、晩酌や食事と同じくらい、入浴する時間を彼は大切にしていた。

 それにしても……と秋葉は思う。初日は一方的に風呂を借り、二日目も、さも当然と言わんばかりに先に浴室に向かった千花が、今日はニヤけた顔で一番風呂を譲ってきた。

 いったいどういう風の吹き回しだろう。掃除、洗濯のみならず、突然振る舞った手料理といい、急に優しくされると薄気味悪いものだ。

 この隙に、家探しをして金目の物でも探すつもりだろうか。いや、それならば、日中いくらでも探す時間なんてあるのだし、とっくに終えている頃合か。残念ながら、探したところで大した物など出てこないぞ。徒労に終わるだけだ暫定娘よ、などとつらつらと考えを巡らせていたその時、曇りガラス一枚隔てて千花の高い声が響いた。


「湯加減どうですかー」

「おう、丁度いいぞ」

「着替え、ここに置いておきますねー」

「おう、ありがとう」

「じゃあ、私も入りますねー」

「おう、開いてるぞ」


 何の気なしに答えてから、一拍遅れて秋葉は驚愕する。

 いやいや、ちょっと待て! 入るって風呂に?

 泡を食って立ち上がった秋葉だが、タオルを持ってきていないことに気が付き、もう一度湯船に身を沈めた。直後、ガチャという音と共に中折れのドアが開いて千花が入ってくる。いくら暫定娘とはいえ年頃の女の子なのだし、タオルくらいは巻いているだろうという彼の予測はものの見事に裏切られる。まるで陶器を連想させる、色素薄めの白い肌。衣服の上からではよくわからなかった、引き締まったウエストのくびれや、お尻にかけて流れるしなやかなラインが顕わになっている。

 ――ただし。


「水着かよ」


 千花はセパレートタイプの水着を着用していた。ボトムのサイドにワンポイントで青いリボンがあしらわれ、白地に黒のボーダーラインが入った、露出自体は控えめな水着。腰に巻かれたパレオが煩わしい。

 ……じゃないだろ。率先してやましいことを考えている自分に、頭を抱えてしまう。


「当たり前じゃないですか。それとも、真っ裸を期待してたんですか? まあ、身体の隅々まで無遠慮に睨め回す、パパのいやらしい視線を見ていれば一目瞭然ですが。男の人って、気が付かれていないと思っているのかよくチラ見してきますけど、視線がいやらしいから女の人ってわりと気付いているんですよ」

「人聞きの悪いことを言わないでくれ。そんなに見てないわ」


 もちろん、多少は目の保養をさせてもらったけれども。鼻から下までをお湯に沈めて秋葉は呟いた。そもそもだ、たびたび家の中を下着姿でうろつくお前に言われる筋合いなどないわ。

 浴室鏡の前に千花は座ると、シャンプーで頭を洗い始める。本当に一緒に入るつもりなんだなと困惑と呆れが半々になるなか、髪を洗い終えた千花がシャワーで濯ぎながら声を掛けてくる。


「もう、十分に温まりましたか?」

「下手をすると、逆上せそうなくらいにな」

「じゃあ、上がってください。背中を流してあげます」


 いや、俺は……タオルすら持ってきていないし、と言い掛けた秋葉の眼前に、彼女がハンドタオルを差し出した。


「それで隠してください。いくらパパとは言え、二十五歳の男性のモノをぶら下げられるのは、私でも恥ずかしいです……。むしろぶら下がる位に沈静化していれば良いのですが、パパのことですからね」

「随分と酷い言われようだ……」


 無論、沈静化などしていないが。というか、お前のせいだろ。


「けど、その台詞。言っていて自分で恥ずかしくないのか?」

「……そりゃあまあ、ちょっとだけ。だからさっさと上がって下さい」


 面映ゆい、みたいな声音で千花が言った。

 恥ずかしいのかよ。なんなんだろうなこの展開は。背中を流すのも、彼女なりのサービスなんだろうか、と戸惑いながらも、秋葉はタオルを下半身に添えて湯船から上がる。弾みで見えたら大変だ、と注意を払いつつ彼女に背を向けて立つと、膝を折って座った。

 本当に、何をやっているんだろうな俺は。悪い気はしないんだけどさ。

 彼女はボディーソープを手に取り泡立ててから、タオルを使って秋葉の背中を洗い始めた。


「ああ……パパのはやっぱり、固くて大きいですね。流石は大人の男性というところですか」

「……頼むから言い方には気をつけてくれ。背中の話な」


 柔らかい指遣いだ、と思いながら、秋葉は黙って身を委ねていた。

 タオルで背中全体を洗い終えたあと、千花の指先が艶かしく踊る。肩や首筋、脇の下から腰にかけてのラインなど、手の届きにくい背面部分を丹念に指と手のひらで洗ってくれた。

 自分の娘かどうかはこの際ともかくとして、女子高生が自分の背中を流しているという事実に、昂りそうになっている自分をそっと意識した。

 くすぐったいやら恥ずかしいやら、複雑な感情で頭の中は一杯で、彼の口からも時折心地よい吐息が漏れ出てしまう。


「じゃあ今度は、前のほうを洗いますね」


 驚嘆して秋葉は振り向いた。


「ばかやろう、いくらなんでもそれはダメだ」


 思いのほか豊満な胸の膨らみに目が行った直後、頭を両手で挟まれると、ぐるんと首の向きを正面に直された。


「ちょっと! こっちを向かないでください。恥ずかしいじゃないですか。前のほうも洗うということは……その、水着の隙間にも指を入れるということです」


 かすかに上擦ったその口調で、秋葉は納得した。


「自分の身体の話かよ……。だったらそう言ってくれ、心臓に悪い」


 なんとなくきまり悪い心持ちを静め、秋葉も頭を洗い始める。

 頭を濡らすシャワーの音に混ざって、背中の側から、衣擦れのような水音のような音色が響いてくる。千花は気付いていないようだが、背中を向けていたとしても、正面の鏡には彼女の姿が映り込んでいる。上半身しか映っていないから、盗み見てもセーフってことでいいだろうか、と思う。

 気忙しいな、と顔を伏せているうちに洗い終えたのか、千花が湯船に浸かる音が聞こえた。ざぶーんという音と一緒に、お湯が静かに溢れ出てくる。ほう、と彼女が漏らした心地よい吐息が、湯気と一緒に霧散して消える。

 沈黙がゆっくりと落ちてくるなか、シャンプーを濯ぐシャワーの音と、排水溝に吸い込まれていく水音だけが無機質に響いた。洗髪を終えて秋葉が顔を上げたタイミングで、囁くみたいな千花の声がした。


「……パパの初恋って、いつ頃だったんですか?」

「どうしたんだ? 藪から棒に」

「興味あるじゃないですか。ママと出会う前にも、好きだった人がいるのかなあって。女の子って、こういう話、好きなんですよ?」


 そうだろうけどね、と呟いたあと、秋葉は考え込むように天井を見上げた。


「俺の初恋はさ。たぶん中学一年の時かな。相手は同じクラスにいた背の低い女の子だった。そうだな。よく笑い、よく喋る、明るい子だったよ」


 千花がわずかに前のめりになる。ぱしゃ、と小さな水音が響いた。


「告白したんですか?」

「むしろ逆だよ。告白された」

「い、意外ですね」

「意外は余計だ」


 秋葉が苦々しく笑うと、あれ、でも、と千花が首を傾げる。


「パパは、誰とも付き合ったことがないって言っていたじゃないですか。その流れだとおかしくないですか?」

「いや、別におかしくないよ。俺と彼女は、結局付き合うことなんてなかったから」

「どうしてですか? そんなチャンスをみすみす棒に振るなんて」


 ん~……と数瞬考えてから、秋葉は答えた。


「告白、手紙でされたんだよ。それも凄い短文のメッセージカードのようなもので。文面も、『あなたのことが好きです』。確かこんな感じだったかな?」


 湯船に肩まで沈んで「はい」と千花は頷いた。


「千花が住んでいる二〇五〇年代じゃ考えられないことだろうが、中学生なんて、殆ど携帯電話を持っていないような時代だ。彼女がどうだったかはわからないが、少なくとも俺は持っていなかった。必然的に、返事をしようとするならば、家に電話をするか直接口で伝えるほかない」

「まあ、そうなるでしょうね。でも、少しだけ勇気を出せば……」

「しかも悪いことに、手紙をもらった当時、俺は他に好きな女の子がいたんだよ」


 どういうこと? と思案気に首を傾げている千花に、続けて秋葉は言った。


「それじゃ、初恋と違うんじゃないかって思っただろ?」

「ええ、その通りです。突っ込むべきかどうか、迷っているところでした」


「そうだな」と秋葉が吐いた息が、浴室を満たしている湯気と静かに混じる。


「厳密に言うと、二度目の恋だったのかもしれない。でも、いまだに忘れられないほど引きずった恋は、これが最初で最後だったから、俺の中ではこっちを初恋だったと思うことにしているんだ」

「それなら、なんとなくわかります」

「俺は、二人の間で揺れ始めた心にうまい落としどころを見つけられず、……いや、少し違うか。たぶんこの時すでに答えは出ていた。悩んでいることを理由にして、決断を下せない臆病な自分を正当化しようとしていたんだろう。結局俺は、返事を有耶無耶にしたまま逃げた。彼女との関係は、それ以上進展しなかった。後悔先に立たず、とはよく言ったもので、告白してくれた子を好きだと強く意識し始めたのは、手紙をもらってから数ヶ月が経過したあとだった」


 ああ、と千花が納得顔になる。


「言えるはずなんてなかった。ろくな返事もせず振ったみたいにしておいて、数ヶ月経ってから『やっぱり君のことが好きなんだ』なんてね」

「痛いほどわかります。告白できないその辛さ」


 しんみりと、千花が呟いた。ぽちゃんと音を立て、水滴がひとつ湯船に落ちる。


「では、そのまま二人は離れ離れになったんですか?」

「そうだな。高校に進学する時別々になって、ある日偶然その子を街角で見かけたら、男と一緒に歩いていた。初恋にして、最初の失恋みたいなもんだった」


 思えばあれから、消極的な性格に拍車がかかった気がするな。だからさ……と秋葉は結論を出すように言った。


「お前は後悔するな。好きな男ができたなら、ちゃんとアタックしろよ」


 言いながら、内心で秋葉は自嘲する。暫定娘相手に父親気取りとはな。数秒間を置いてから「うん」と千花は頷いた。


「けどさ、結局、なんのために風呂にまで押しかけてきたんだよ? いつでも訊くことができる、初恋の話をするため……というわけでもないんだろう?」


 ぽちゃん。

 湯船に水滴が落ちた音が、浴室の空気を震わせた。何度か、鼓膜を叩いた。

 そんな、小さな音ですら気障りに感じられる静寂せいじゃくが、二人の間に横たわった。ややあって沈黙を破ったのは、「つまるところ」という、聞き取るのもやっとなほど掠れた千花の声。


「親子水入らずで入るお風呂って、いいもんじゃないですか? 単純に、それだけのことですよ」

「ふーん。そういうもんかねえ」


 わからない話でもない、と秋葉は思う。

 未来にいる実の父親 (まあ、俺なんだろうけど)がどう考えているかは知らないが、成人も間近となった年頃の娘と風呂なんて、頼まれたとしてもそりゃあ断るもんだ。だから、知り合って日が浅い俺なら雰囲気で流されるんじゃないかと、半ば強引に押しかけてきたのかもしれない。

 だが、異性として意識するのは今の俺とて同じこと。むしろ年齢が近い分、千花だって余計に恥ずかしいんじゃないのか。

 読点が三つ並ぶくらいの時間考え、導き出した答えを秋葉は口にした。


「未来に住んでいる俺と比べたら、気兼ねせずに頼めた。とかそういう話なんだろ? それだけ体が成長してしまったら、一緒にお風呂に入ろうなんて、いくら親子でも照れくさいもんな」


 ちゃんと見ていました、と認めているようで、妙に気恥ずかしい。冗談めかして言った台詞だが、予想に反して千花は笑わなかった。「そうですね」と寂しそうな声音で呟くに留める。

 直後、彼女は湯船から上がる。突然立ち上がったことに驚いた秋葉の視線をかい潜り、浴室の扉を開けた。


「今度は私が逆上せそうなので、先に上がってますね」


「おう」とだけ答え、出て行く背中を秋葉は見送った。

 彼女がいなくなった湯船に浸かる。顔を半分ほど沈めたところで、暫定娘の裸体が触れたお湯だと気が付き、飛び跳ねるように顔を上げた。小さい息と呟きを、彼は同時に落とした。


「千花の行動は、時々よくわからないな」



 タオルで頭を拭きながら、秋葉がリビングに吸い込まれると、ガラステーブルの前にちょこんと千花が座っていた。

 パジャマを上下ともちゃんと着ているじゃないか、と感心して声を掛けると、悪事を働いていた子供みたいにびくっと千花が肩を震わせた。慌ただしく手元にある何かを手で隠した。


「どうした? なーにこそこそやってんだよ」


 半ばからかい目的だったが、千花は質問に答えることなく、首だけを回してジト目で睨んできた。


「驚かせないでくださいよ。いつの間に上がったんですか」

「いつの間にって、お前は俺を茹蛸ゆでだこにでもするつもりか? そんなに早く上がったつもりはないし、いい加減、上がってくる頃合いだろうに。それよりも──?」

「日記です」


 今度は、不自然なほどの即答だ。


「日記?」

「そうです」と言って千花は顔を逸らした。「一週間もの間、若い頃のパパと暮らすんです。この機会に日記くらい付けておかないと、もったいないでしょう?」


 そう言いながら、手帳サイズの何かをこそこそと旅行鞄の中に仕舞いこんだ。


「日記、ねえ」


 千花の一連の行動を分析し、なんらかの嘘をついてるんだろうな、と秋葉は思う。

 だが、きっと言えない事情でもあるんだろうと、これ以上詮索するのは止めておいた。隣に腰を下ろすと、何の気なしにカレンダーに目を向けた。


 ――実質。あと四日なのか。


 喉が渇いたーと、冷蔵庫の方に向かった彼女。はらりと落ちた髪の毛から、ふわりとシャンプーの香りが湧きたって、何故だか無性に悲しくなった。

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