4:今日からわたしは彼のデザート
子どもの頃に憧れていたのは、自分の顔を他人に分け与えるヒーローだった。
愛と勇気だけが友達だと歌っていた彼は、自らの身を犠牲にして目の前の人を助けることを厭わなかった。だからこそ彼は、誰からも慕われ必要とされているのだ。
何のために生まれて、何をして生きるのか。昨日までのわたしは、きっと答えられなかった。
それでも、わたしの血を夢中で貪る彼を見た瞬間、唐突に理解した。わたしはきっと、このために生まれてきたんだ。彼ならきっと、わたしのことを必要としてくれる。
「……えーと。一番ヶ瀬さん、ど、どういうこと?」
じりじりと迫るわたしに、薙くんは戸惑ったような声を出した。キョロキョロと周りを見回したけれど、暗幕カーテンの閉じた暗室には、彼とわたしの二人しかいない。
薙くんはしらばっくれているけれど、さっきからチラチラ首元を見てくるし、きっとわたしの意図するところはわかっているはずだ。素直になれない彼のために、わたしはきっぱりと言葉にしてあげる。
「わたしの血、飲んでください」
「…………い、いやいや、それはダメだろ」
青ざめた薙くんはぶんぶんと首を横に振ると、わたしの両肩を掴んでぐいと遠ざけた。
どうしてそんなに頑なに拒絶するんだろう。本当は薙くんだって、わたしの血を飲みたいはずなのに。いったい何がダメなんだろう。わたしは「なんでですか?」と首を傾げる。
「い、一番ヶ瀬さんだって嫌だろ。噛みついて血飲まれるんだぞ」
「わたしは全然嫌じゃないです。お互い同意のうえでの吸血行為は、犯罪じゃありませんよね?」
「そうだけど……こういうのは、ふ、普通もっと親しい間柄でやるもので……」
「もう飲んじゃったんだから、一回も二回も同じですよ。ね?」
わたしの誘惑に、薙くんは「でも」と口ごもる。ええい、まどろっこしい。とにかくわたしは、どうしようもなく必死でわたしを欲しがっていた、昨日の彼をもう一度見たいのだ。
「献血でも、ペットボトル一本分くらいの血抜かれるんですよ。ちょっとくらい薙くんに飲まれてもへっちゃらです」
「き、昨日倒れてたし……」
「うら若き処女の血が一番美味しいんですよね? そういうことならわたし、お役に立てると思います」
「しょっ……!?」
発言があまりに直球すぎたのか、薙くんは絶句して両手で顔を覆ってしまった。少しばかり慎みが足りなかっただろうか。
わたしは彼の両手を掴んで、まっすぐに目を見つめたまま詰め寄る。
「薙くんは、わたしの血飲みたくないんですか?」
わたしの問いに、彼は戸惑ったように目を泳がせた。
今まで気がつかなかったけれど、薙くんは結構整った顔立ちをしている。俯きがちだからわかりにくいけど、目元が涼しげで睫毛が長くて鼻筋がすっと通っていて、わりと美形だ。クールな顔立ちなのにあまり冷たい印象を感じないのは、優しげな目のせいだろうか。
「……………………飲み、たい」
観念したように絞り出された声に、わたしの胸は歓喜に震えた。ぞくぞくとした愉悦が背中を駆け上がってくる。
わたしは満面の笑みを浮かべながら、「じゃあ、どうぞ」と彼に迫った。
「ま、待って。首はまずい」
「どうしてですか?」
「そんな太い血管から飲んだら、また貧血で倒れるよ」
「うーん……では、手首とかどうでしょう?」
「……いや……ゆ、指で……」
「わかりました! わたし右利きなので、左手でお願いします」
そう言ってわたしが左手を、薙くんは躊躇いがちに掴んだ。身長はわたしとあまり変わらないけれど、手は結構骨張っていて大きかった。
そっと包み込むような手つきは意外なほど優しく、緊張しているのか小刻みに震えていた。
「……い、いただきます」
わたしの手を取った薙くんが、お行儀よくそう呟く。わたしは笑って「どうぞ召し上がれ」と答えてあげた。
彼は躊躇いつつも、そっと中指に唇を寄せる。なんだか遠い昔にアニメで見た、王子様がお姫様の手の甲にキスをするシーンを思い出した。もちろん、わたしたちの関係はそんなにロマンチックなものではないけれど。
中指の側面に牙を立てられた瞬間に、ちくり、と指先に鋭い痛みが走る。献血で採血をしたときと似たような感じだ。なんだか首に噛みつかれたときよりも痛い気がする。指先の方が神経がたくさん通っているからかもしれない。
指だけだと、おそらく少量の血しか得られないだろう。それでも彼は恍惚の表情で、一生懸命わたしの血に吸いついていた。赤く染まった瞳が薄暗闇に浮かび上がるのを、わたしはうっとりと見つめていた。ああ、やっぱりすごくきれい。
彼がわたしの血を吸っていたのはほんの一分ぐらいで、すぐに離れてしまった。やや荒い息を吐いて、必死で衝動を押さえ込んでいるように見える。そんなに我慢しなくても、もっとがっついてくれてもいいのに。
「えっ、もういいんですか?」
「も……じゅ、充分です」
「そっかあ……」
ちょっと不完全燃焼だけど、彼がもういいと言うなら仕方がない。わたしは中指をティッシュで軽く押さえると、ポーチから絆創膏を出して巻いた。すぐに血は止まるだろう。
「美味しかったですか?」
「あっ、うん……ごちそうさま、でした……」
瞳も頰も真っ赤になった薙くんが、わたしに向かって深々と頭を下げる。わたしはなんだか嬉しくなって、彼の両手をぎゅっと握りしめた。
「ね、薙くん。明日から毎日一緒にお昼ごはん食べませんか?」
「え!?」
「それで、デザートにわたしの血飲んだらいいと思います! ぜひぜひ、そうしましょう!」
「ちょっ、ちょっと待って一番ヶ瀬さん……!」
「いいですよね? 薙くん」
そう言って顔を覗き込むと、彼はしばらく「あー」とか「うー」とか唸っていたけれど、やがてこくんと首を縦に振った。嬉しくなったわたしは、彼の手を握ったままぶんぶんと振り回す。
それから赤い瞳が茶色に落ち着くまで、わたしは彼の手を掴んで離さなかった。
バイトを終えて帰宅した頃には、もう夜もどっぷりと更けていた。眩しいほどの街頭の光が、アスファルトを白く照らしている。みゃあ、とどこかで猫の鳴く声が聞こえたけれど、姿は見えなかった。
わたしが住んでいるのは、築三十年の木造アパートだ。階段を上るたびにギシギシと嫌な音がする。二階の一番奥にある扉の前まで来ると、鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。扉を開けて玄関で靴を脱ぐと、電気も点けず敷きっぱなしの布団にふらふらと倒れ込んだ。
わたしが暮らすこの部屋には、生きていくうえで必要最低限のものしかない。家具といえば小さなタンスひとりきりで、冷蔵庫と洗濯機くらいはあるけれど、テレビもパソコンもない。友人と雑談をするための情報収集なら、スマートフォンで事足りる。
十五分ほど動けずそのままでいると、降り出した雨がパラパラと窓を叩く音が聞こえた。次第に強くなる雨音が恐ろしくて、わたしは顔を歪める。嫌でも蘇ってくる記憶に必死で蓋をして、誤魔化すように鼻歌なんて歌ってみる。全然ちっとも、ご機嫌な気持ちにはなれなかった。
夕食はバイト先で済ませてきたけれど、明日のお弁当は作らなければならない。しかし、自分のためだけに食事を作るのはどうにも億劫だ。わたしはいつまで経っても立ち上がれずに、布団の上でゴロゴロしている。
そのとき、中指に貼ったままの絆創膏が目に入った。ぺりぺりと剥がすと、すっかり血は止まっていて、皮膚がふやけているだけだ。
ふと思いついて、彼がそうしていたように、傷に歯を立ててみる。ガリっとと皮膚を噛みちぎると、じわっと口の中に鉄の味が広がった。
……やっぱり、全然美味しくない。こんなに価値のないものを喜んで飲んでくれるなんて、薙くんはなんて素晴らしい人なんだろう。
わたしの血を飲んでいた彼の姿を思い出すだけで、頰がゆるゆると綻んでいく。明日のお昼も飲んでもらえると思うと、不思議とお弁当を作る気力が湧いてきた。必要としてくれる人がいるって、素敵なことだ。
わたしは布団から勢いよく跳ね起きると、鼻歌混じりに冷蔵庫を開けた。不快な雨音は、もうそれほど気にならなくなっていた。
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