最後の月曜日:2

 校舎の上階まで駆け上がり、窓から見下ろした俺は思わず息を呑む。

何人もの人間の返り血を浴びながら、嬉しそうに震えるミミズの姿は気色悪かった。血管を浮き立たせ、はち切れんばかりに膨らんでいる充血した肉塊。赤く照り光る巨大な姿は、生理的な何かに訴えかけるおぞましさを発散していた。

「ちんこよ!」冴子が叫ぶ。「あいつ、ちんこにそっくりだわ!」

「うるせえ! 俺もそう思ってたけど黙ってたんだよ!」

 ミミズの殺戮が続く。

体育館の小さな入り口を破壊して外に出ると、目を見張るような俊敏さで、四方八方へ逃げる生徒たちをどんどん捕まえていく。いまやミミズは獲物に噛みついたりしない。その身体は大きく膨張し、人ひとりを丸ごと呑み込んで口の中で咀嚼していく。

「けけけ」冴子が嗤う。

 ミミズは数人の生徒を丸呑みにして、さらに別の生徒たちに向かった。単独の者よりも、数人で固まっているグループの方が目立つので狙われやすいようだ。今、校舎の壁際に何人かの男女が追いつめられている。互いを押しのけ合いながら、少しでも自分がミミズから遠ざかるようにしていた。


 そのうちのひとりは、相川志保だった。


「そうだ、あのミミズは俺が殺す」

「なんでいきなり」真顔になった冴子は、意外そうに俺を見る。

 校舎広しといえども、マシンガンを持っているのは俺くらいのものだ。業務用スーパーで買ったみたいに大量の手榴弾もある。みんなの前で化け物を殺せば、俺はヒーローになれる。夢にまで見た状況が、整いすぎるほど整っている。相川志保から熱いまなざしが注がれ、佐々木が嫉妬するかもしれない。あのミミズは俺たちが育てました、と白状しない限りは。

 俺はバックパックから、乾いた血がこびりついたままのマシンガンを取り出した。

「ねえ、あれだけ大きいなら、そんな鉄砲で撃ってどうにかなるの?」

 窓から見下ろすと、今のミミズは相当巨大になっていることがわかる。俺はマシンガンを一瞥したが、これでは突進してくる列車を、爪楊枝一本で止めるくらい無謀に思えてきた。

「やってみたら?」冴子は面白そうに言う。「せいぜい、まずは撃ってみなさいよ」

 映画やらなにやらで仕入れた知識、殺し屋が行っていた操作などを思い返しながら、俺はマシンガンを構えた。グリップがべたべたするけど、文句を言ってはいられない。ミミズに狙いをつけて、引き金にかけた指をゆっくりと絞る。

 なぜか引き金が全く動かない。

「何やってるのよ、きっと安全装置とかいうやつよ、多分そこらへんかどこかに」

「うるせえな、今やってんだよ」

 ああでもないこうでもない。あちこちいじっていると、ガチャッと何かのパーツが噛み合ったような音がして、

「あ」

 マシンガンが火を噴いた。瞬く間に、装填されていた45口径弾とかいうものを全て撃ち尽くしてしまった。ミミズではなく、向かいの校舎に向けて。窓が割れ、壁に穴が穿たれ、生徒の悲鳴と怒号が聞こえてくる。殺人ミミズと銃撃犯が同時に出現するとは、この学校は実に救われない。

 俺は急いでマシンガンを投げ捨てた。

「何も見なかったことにしといてあげるわ」

 冴子はケラケラと嗤い、床に落ちた薬莢もカラカラと鳴った。

 しかし、肝心のミミズはしっかり見ていたようだ。俺たちのいる窓に顔を向けると、大口を近づけてくる。

 いまや鎌首をもたげるだけで、俺たちのいる校舎の3階に届くほど巨大になっていた。

 ミミズの口から女性の脚がはみ出している。

 間違いない。あの美しい脚は相川志保だ。

 じたばたともがき、それも空しくミミズの口中へと消えていく。ミミズの口から赤い血が雨だれのように滴り落ちた。

 彼女の顔や声を思い出そうとする。なぜか頭の中に浮かぶのは、地下室の床に堆積したミミズの糞だった。それが尚更悲しい。

 何かの道が絶たれた。わけもわからず、俺はそう思った。

 ミミズは校舎の壁をせんべいみたいにかみ砕きながら、俺たちを追いつめてくる。

 今度は手榴弾を使うことにした。これに関しては、マシンガンよりもさらに使い方がわからない。輪っかに指をひっかけて安全ピンを抜く。ミミズに向かって投げる。

 どうやら最悪の使い方だったらしい。手榴弾はミミズの頭に命中すると、そのままバウンドして下の階の窓に転がり込んでいった。そして腹を揺るがす轟音を発して爆発した。これでこの学校は爆弾魔にも襲撃されたことになる。

 冴子が「あーあ、やっちゃった」という顔で俺を見る。

「もっとタイミングを測りなさいよ。爆発するのに2、3秒かかるんでしょう」

 二発目のピンを抜く。今度はタイミングを遅くして投げてみた。

 ちょうどミミズの顔の目の前で爆発した。普通の生き物ならば死ぬか大怪我を負うに違いないが、ミミズはまったくの無傷だ。

 ミミズの顔が迫ってくる。

 目の前に、歯がびっしりと並んだ巨大な口が広がっていた。

 俺はミミズから逃れようと走りながら振り返った。

 冴子はまったく動いていなかった。

 彼女は死を受け入れようとしている。翼のように手を大きく広げて、顔は見えないがおそらく満面の笑みで。

 俺の身体が、俺自身も思いも寄らない動きを行った。

 俺は後ろから冴子に飛びかかると、一緒になってミミズに突っ込んだ。

 ミミズは逃げる獲物をたくさん噛み殺してきただろうが、まさか自分から口に飛び込む奴は見たことがないだろう。ミミズの歯は俺たちを捕らえ損なった。俺の左足すれすれに歯が噛み合わされ、二人とも無傷のまま巨大な環状生物に呑み込まれた。

 俺は冴子の腕を掴みながら、柔らかい肉の上を、滑り台のように落ちていく。そして広い空間へ到達した。

 そこはピンク色の地獄だった。

 外の光が届かない場所のはずなのに、なぜか全体がぼんやりと輝いているようだ。幾重もの軟らかい肉の襞が蠕動し、そこから分泌された粘液が滝のように流れている。凄まじい悪臭が爆風のごとき勢いで押し寄せてきた。もはや気体なのか液体なのかもわからない臭気は、全身にまとわりつき、空気とともに肺にまで入り込んでくる。

「げほっ、うぇっ」

 俺はむせながら、上下すらもわからずにもがいた。

 ミミズの体内には、まるで電車がすぐ頭上を走っているような轟音が鳴り続けている。規則正しくリズムを刻んで、俺たちの耳を震わせる。巨大なミミズの発する、おぞましい生命の音だった。

 死に物狂いで俺と冴子は肉襞にしがみついた。なんとか一息つくことができた。

 背後を振り向いた。

 赤い滝が流れている。ミミズに喰われた者たちがバラバラになりながら、撹拌され、こね合わされ、一斉に落ちていくのだった。途方もなく大きな血と肉の奔流だった。今まで俺たちもあそこを流されていたのだ。なんだ、ここは地獄か。地獄に堕ちてしまえば、誰も彼も皆平等だった。人間なんてただの肉片じゃないか。

 冴子は大きな瞳を俺に向けて、口をぱくぱくと動かした。何か話しているのだが、周囲の轟音のせいで何も聞こえない。しかしそのまなざしには俺に対する憎しみが込められていた。


 なぜ私を助けた。彼女はそう言っている。


 死を眼前にすることで、その研ぎ澄まされた精神状態によって、俺ははじめて彼女を理解した。彼女は死にたがっていた。でもどうせ死ぬならば、ひとりでも多く道連れにして死んでやる。ミミズの引き起こした殺戮は、彼女の自爆行為のようなものだったのだ。


 この腐りきった醜い女が、この一瞬だけ愛しく思えた。


 俺は手榴弾をひとつ取り出した。ピンを抜いて起爆状態にすると、バックパックに入れた。何発もの手榴弾が詰まったバックパックを肩から下ろすと、ミミズの肉襞のひとつに押し込んだ。

「まずはここから出るぞ」

 俺の声が冴子に届いたかはわからない。しかし彼女は抵抗しなかった。俺は命綱となっていた肉襞を離すと、冴子とともに赤い滝へ投身した。凄まじい濁流に呑み込まれていく。

 遙か向こうで、手榴弾の爆発する音がした。赤い闇の中にぽっかりと開いた光の穴。

 流れる血が、肉が、胃液が、俺たちが、すべてが逆行して、その光に向かって吸い込まれていく。気持ちいいのか恐ろしいのかもわからない。痛みも、快感も、なにもかもどうでもよくなった。腸、目玉、手足、すべてが一緒くたになった無数の人肉の波に乗って、俺たちは白い閃光に向かっていく。

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