【Ⅵ】3

 大仰に思えるが、イギリスは二〇〇五年の対テロ法の改正で管理命令(control order)を発動する権限を国務大臣に付与している。テロを起こす危険があると見做される人物を事実上の軟禁状態にすることが出来るということだ。対象になった個人は、居場所の報告など幾つかの義務を課せられている。戦地から帰国した直後、サラディンは些細な問題で警官と揉め、殺してやる、と恫喝したため管理命令(control order)の対象になったらしい。サラディンと接触すれば、その情報は当局に記録され、場合によっては危険因子の疑いをかけられる──と、厳しい顔をしたイマーム・カーディルに言われた。


 僕とラティファは、それでもいいから会わせて欲しいと頼み込んだ。


 サラディンは、管理命令(control order)の対象になっているとは思えないほど穏やかに、濃いイギリス風の紅茶を啜りながら、機嫌良く僕達の話を聞いてくれた。カップに角砂糖を三つ入れていたので彼は甘党なのだろう。


「それで、どんな奴? 会ったかもしれない」


 アミンの特徴を訊ねられて、写真を差し出しながら答える。


 まだ十代の少年です。背は高いけれど、痩せていて、癖のある黒髪で、目も黒い。少し俯いて喋る癖があります。寂しがり屋で、人見知りだけれど、心を開くと五月の木漏れ日のように笑います。ああ、そうだ、左腕にタトゥーを彫っています。


 ル・カレを気取って「OUR GAME」と──


 不意に、いなくなった人の匂いが濃密に立ち昇る。アミンが僕の近くにいないなんて信じられない。こんなにも彼を強く感じるのに、どうして側にいてくれないんだ?


 ラティファはハンカチを目元に当てて悲痛なすすり泣きを漏らした。サラディンは持て余したように肩を竦め、それでも精一杯気を遣った感じの抑えた声で言ってくれた。


「すまない。ちょっと分からないな。こいつみたいな奴は大勢いた。ISに身を投じたアラブ系移民のイギリス人なんて珍しくもない。大半が若い奴だよ。髭も生えそろわない十代のガキも大勢いて、みんな似たような顔をしてたよ」


「そうですか、ありがとうございます」


 アミンの名前も厄介だった。誠実を意味するアミンという名前は、アラブ世界ではとてもポピュラーな名前なのだ。アル・アミン(この者こそ誠実)はイスラムの創始者ムハンマドの呼称のひとつだから……


 サラディンは、渋い表情で首を横に振った。


「たぶん、そいつは別の名前を名乗らされているはずだ。アラブの習慣に従ってアラブらしい名前を与えるのが、奴らの仲間への歓迎の仕方だからだ。一人前の戦士であることを示すためのアブー(~の父)と、アル・ブリタニー(イギリス生まれの)の付く名前を貰っているだろう」


 アミンを探すことがより困難になったと分かり、僕達はショックを受けた。


 ISの活動に参加したイギリス人は五百人を下らない。もっと多いはずだと僕は思う。だけど、イラクとシリアの内乱、イスラム過激派などに関係する情報は錯綜していて正確な数字は分からない。アミンは、その数字の中に溶けてしまって、データ上では個を消失させていた。僕達にとっては、かけがえのない、たった一人の愛しい人なのに……


 丁寧に挨拶をしてサラディンの家を後にし、僕とラティファは、有力な情報をひとつも得られなかった虚しさに耐えながら無言で歩いた。


 アミンのことばかりが思い出される。そういえばあのタトゥーは、ある日突然入れてきたのだった。「OUR GAME」はジョン・ル・カレのスパイ小説だ。二人の男の複雑な友情の物語だった。ル・カレはアミンのお気に入りだったし、僕も日本語版の本を持っていたなと思い、首を振る。いや、順番が逆だ。そもそもは僕のお気に入りだった。僕を真似てアミンはル・カレを読み始めた。アミンはいつも僕の後を追ってきた。そして、僕のためにタトゥーを彫り、僕がシリアへ行くと言ったから……


 僕だけがロンドンへ逃げ帰り、今では僕が君を追い求め、探している。


 あてもなく、シリアへ向かう勇気もなく、ただただ無為に君を探している。


 不意に、ル・カレの小説「われらのゲーム」に出てきたパリに住む聖女ディーの台詞を思い出す。


「わたしは彼女の友人をさがしているんです。彼女の恋人を」


「彼を許してやるためにですか」


「そんなようなことです」


「彼もあなたを許さなくてはいけないんじゃないかしら」


 ディーは少しのやり取りを重ねて言う。


「はっきりいいましょうか。あなたは友だちをさがしているんじゃないと思います。自分がその友だちになりたいだけなんです」


 うっ、と息が詰まった。唐突に涙が溢れて止まらなかった。


 僕はアラブに──アミンになりたかった。


 今や、アミンが生きるはずだった人生を僕が生きている。アミンの代わりにラティファと結婚して、アミンの代わりにARGENTO RECOVERY WORKERSで資源ゴミの回収業務に就いている。社長のデヴィッドはご丁寧にも僕とマスードをペアにした。英語が下手な外国人の僕に気を利かせてくれたのか、それとも遠回しな厭味なのか。マスードがアミンの話をするたびに、僕は悲鳴を上げそうになる。


 こんな風になりたかったわけじゃない。僕はアミンになりたかったけれど、こんな風になりたかったわけじゃない。


「アミン、アミン、アミン……」


 ラティファはすすり泣きを漏らす僕を無視した。彼女も泣いていたはずだ。でも、アミンを見捨てた僕と涙を分かち合うのは嫌だったのだろう。絶対に許さない、と一歩前を歩く彼女の真っ直ぐな背中が語っていた。


 優しい慰めの言葉など望むべくもなく、どうしたの、というただの問い掛けすら投げてもらえず、徹底的に見捨てられた惨めな気分で、僕はあられもなく泣いた。


 アミン、どうして今すぐ顔を見せて僕を許してくれないんだ──


 僕は行けない。ラリーを追ってチェチェンまで旅したクランマーのようには行動できない。どこにいるか分からない君を追って紛争地域にまで行く能力が無い。シリアか、イラクか、僕にはそれすら探る手立てが無い。アミン、君のエマは逃げ出したりせず、憎むべき僕の側に踏み止まって、罪人を罰する看守になったよ。僕とラティファには取り成してくれる聖女ディーはいない。誰も君のエマを慰められないし、癒せるはずもない。彼女は僕を恨み憎み続けて、深く傷付き続ける。


 アミン、僕には何も出来ない。何も出来ないんだ。


 何をすべきか分からない。


 薔薇が咲いている。一瞬、強い風が吹き付けて、優しく透き通った水色の空に無数の白い花びらが蝶のように舞い上がった。


 二〇一四年、六月二十九日──イスラム国が建国を宣言した。


 元は、イラク・大シリア・イスラム国=Islamic State in Iraq and al-Shamという名称で、武力闘争を行っていた過激派武装勢力だったらしい。二〇〇三年のイラク戦争とその後の混乱、米軍の引き上げによって権力の空白が生じたイラク・シリアにかけて急速に支配地域を広げ、シリア北東部の古都ラッカを首都に前述の宣言に至ったらしい。


 かつての同志アル・ザルカウィと袂を別ち、アルカイダの指導者アイマン・ザワヒリとも今は敵対していると言われている。


 インターネットで情報は得ていたものの、夜のトップニュースに、イスラム国の指導者アブー・バクル・アル・バグダディとかいう男の顔が映し出されて、改めて、深刻な事態が進行している実感が湧いた。


 紛争地域にいるアミンはどうなる?


 シャワーを浴びていて僕に遅れてニュースを知ったラティファは、バグダディの顔を見るなり悲鳴を上げた。


「アル・バグダディなんて名前じゃないわ。彼はサッカー選手よ」


 彼女の剣幕に、横にいた僕の方が驚いた。ラティファがテーブルを揺らしたはずみに、ガラスの花瓶が倒れ、生成りのテーブルクロスに濡れ染みを作っている。生けられていた白いジャスミンの花は何事も無かったかのように優しい香りを放っていた。


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