【Ⅱ】3

「違うよ。だって、一緒にいる奴は全然イケてない。彼女とは不釣り合いだよ」


 そういう自分が彼女に相応しいかどうかは考慮していなかった。


 少し考えれば分かったはずなのに。


 彼女はイーストエンドに住んでいたかもしれないけれど――いや、たまたま何度も遊びに来ていただけで住んではいなかったかもしれない――リアーナは金髪碧眼の生粋のアングロサクソンで、たぶん大学生で、可能性の豊かな人生を歩んでいるように見えた。


 ツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)の一員なのだ。アラブ系の僕とは住む世界が違う。身分が違う。


 その瞬間には理解できなかったけれど、イギリスはいまだに階級社会なのだと結果的に彼女が教えてくれた。あの頃の僕はまだ夢を見ていたんだ。そんな時期はとっくに終わっていたというのに、僕は性懲りもなく夢を見ていた。トモが僕に夢を見させていた。


 トモを恨んでいるかって? それは有り得ない。心から感謝している。本当だよ。だから、トモも僕を恨まないで……


 お願いだ(Please)――


 カタン、と何か硬いものが床に落ちる音が響いて振り向くと、リアーナが落としたプラスチックのディスクケースを拾い上げるところだった。


「もう帰るの?」


 僕が声を掛けるとリアーナは困ったように微笑んだ。


「ええ、明日の朝は早いの」


「そうなんだ」


 もう少し話したくて話題を探していると、リアーナと一緒のテーブルにいた金髪の男が、彼女と僕の間に割り込んできた。


「おまえ、クズ集めの業者だろ? うちの事務所で見たことがあるぞ」


 ハッキリと悪意を滲ませた口調に僕は一瞬気圧された。知らない奴に面と向かって厭らしく挑発されたのは初めてだったし、僕はまだ甘えていたから、不意の見下しに驚いたのかもしれない。とにかく、明らかに侮辱する意図で発せられた言葉だった。


「それが何だよ?」


 ムッとしてそいつを睨み付けた。


 金髪のエリートぶった男。六フィート以上ありそうな長身で筋肉質な体をしている。大学を出たばかりという雰囲気で、ナイスガイを気取っているのが鼻に付く。どこのオフィスにも一人か二人はいる、上司には媚を売り、利用できる同僚や女性には愛嬌を振り撒き、自分より格下の相手にはとことん横柄に振る舞う下衆野郎だ。


 目を見ればわかる。僕を見るこいつの目は獲物をいたぶる喜びを滲ませていた。


 もう一人の意地の悪そうな赤毛もしゃしゃり出てくる。こいつも金髪と似たり寄ったりの下衆野郎だと思う。にやにやとだらしない笑いを口元に浮かべて、バカにした態度で僕を指差す。


「ああ、こいつ、俺も見たことあるぜ。うちのオフィスが契約してるクリーニングサービスの清掃員だ。なんだ、英語が出来たのか。移民だと思ってたよ」


「悪かったな。僕はイギリス育ちのイギリス人だ」


 低い声で言いながら、僕はほとんど立ち上がりかけていた。


 金髪がリアーナの肩に気安く手を置きながら言った。


「リアーナ、こんな奴と口利いたのか?」


「やめて、レイ。彼に失礼でしょう」


 レイと呼ばれた金髪は、憮然として鼻を鳴らした。リアーナは奴の手を振り払う。


「ごめんなさい、アミン。もう帰るから」


 リアーナが場を収めようとしてくれているのは理解出来た。理解は出来たけど、納得は出来なかった。謂れの無い侮辱を受けた。僕が清掃員だからなんだっていうんだ? クズを集めているからクズだとでもいうのか? 冗談じゃない。僕と、その金髪野郎と赤毛野郎の何が違うっていうんだ? 僕は清掃員で、奴らはオフィスでデスクワークをしているから、それが人間の差になるっていうのか? 何が違う? 収入か? 学位か? そんなもの、奴らの生まれた場所が僕より少し良かっただけじゃないか。


 僕は、ただ僕より少しばかり金持ちの家に生まれただけのツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)に一生見下され続けるのか?


 唐突に沸騰するような怒りが込み上げて、自分自身に驚いた。


 今、気付いた。子供の頃からずっと押し殺して来た不満が、僕の心の底には澱のように溜まっていたんだ。


 僕だって、好きで移民三世に生まれたわけじゃない――


「アミン、本当にごめんなさい」


 リアーナはもう一度、僕の傷に塩を塗るように優しい声で言い、金髪と赤毛は僕の後ろを通り抜ける時わざとらしい声で言った。


「サラーム」


「サラーム、アミン坊や」


 サラームはムスリムの挨拶だ。イーストエンドにはムスリムも多いから知っている。同僚のマスードもムスリムで、いつも「平安を(サラーム)」と挨拶してくる。


 でも僕はムスリムじゃない。


 アラブ系の容姿をあてこすられたってことだ。


「What do you mean?」


 喧嘩腰で振り向いたら、金髪が中指を立てていた。


「アラブへ帰れ、タオルヘッド(アラブ野郎)」


 さすがにブチ切れた。


「老眼かよ、オッサン? 僕はターバンなんて巻いてない」


 金髪と赤毛を交互に睨みながら、僕も中指を立ててやった。


 ハハ、と金髪は僕を見下して卑しく笑う。


「Holy fuck I was joking about that.」


 くそったれな挑発だ。金髪がにやにやしながら、来いよ、と手招きする。僕は椅子を蹴って立ち上がった。そこまで言われて黙っていられるか。


「アミン、よせ。相手にするな」


 トモが心配そうな顔で僕の腕を掴んで引き寄せようとする。カッとなっていた僕はトモの腕を乱暴に振り払ってしまう。いざ間近で向かい合ってみると、金髪は僕より頭半分は背が高いし、いかにも格闘技をやっていそうな体つきだった。ヤバイかな、と頭の端でチラリと思ったけど、そんな躊躇は次の言葉で吹っ飛んだ。


「臭え、臭えな。ラクダの臭いがするぜ」


「今なんて言った? 取り消して謝罪しろ!」


 僕は一歩踏み出した。それと同時に赤毛が一歩下がり、金髪が僕を叩きのめす場所を作る。金髪は余裕たっぷりでにやにやと厭らしい笑いを浮かべ続けている。


 不意に、ママのろくでなしの恋人で、ミドルティーンの男の子が大好きだった変態ホモ野郎のダリルに殴られていた時のことを思い出した。あの頃は殴られっ放しだった。子供だったから反撃の仕方が分からなかった。けど、もう大人だ。それに僕は殴られ慣れている。少しくらいの怪我じゃ怯まない。


 やられる前に、せめて一発くらいは入れてやる。


 僕が金髪と睨み合うと、囃し立てるように赤毛が口笛を吹き、泣きそうな顔のリアーナが金髪の腕に縋り付いた。


「やめて、レイ。こんなところで喧嘩なんてしないで」


 気遣ってくれるのは嬉しいけど、女に庇われるなんて趣味じゃない。


「リアーナ、引っ込んでてくれ」


 金髪と赤毛が声を立ててチンパンジーのように笑う。まったく、品性ってやつをどこに置き忘れて来たか訊きたくなるような下劣な笑い方だ。


「アミン、ダメだ。No, Amin, please!」


 トモがもう一度下手な英語で必死に取り縋って来たが、僕は今度もトモの手を振り払った。完全に頭に血が昇っていた。トモの顔なんて見ていなかった。


「謝罪しろ、この白人野郎(vanila ice)」


「Are you booby hatch?」


「You Bloody Wanker」


「Hey dick in a mouth. Do you know what am saying?」


「fuck me if that. Suck your dick yourself.」


「Shut the fuck up!」


「dumb ass.」


 奴の胸倉を掴もうとしたら逆に突き飛ばされ、ふらついてカウンターに衝突した。手を突いたはずみでグラスが倒れ、残っていたトモのスタウトが床に零れる。


「喧嘩なら外でやってくれ」


 バーテンダーは呆れた顔で舌打ちし、バーカウンターから出て来た。力づくで追い出されるのかと思ったが、彼はレストルーム横の用具入れからモップを取って来て、不機嫌そうに床を拭き始めた。トモが僕の代わりに謝罪してくれている。


 僕は引っ込みがつかなくなっていた。


「外に出ろ。話をつけてやる」


「望むところだ。ぶっ殺してやるぜ、このアラブ野郎」


 金髪と連れ立って店の外に出ようとしたら、リアーナが僕の前に立ちはだかった。彼女はスマートフォンをバッグから取り出して握りしめていた。


「やめて、レイ。やめてくれなければ警察を呼ぶわ」


「リアーナ……それはないだろ?」


 金髪は心底情けない顔で両手を広げた。


「アミン、あなたもやめて。お願い」


 涙を浮かべた彼女にプリーズと言われて、僕は弱気になった。


「帰るのよ、レイ。もう彼に構わないで」


 リアーナは金髪の腕を掴み、赤毛にも「ジェム、あなたも帰るのよ」とママのように声を掛けた。二人の男を引っ張って、リアーナは振り返りもせずに店を出て行く。


 リアーナを追い掛けようとしたら、金髪が振り返って吐き捨てた。


「付いて来るな、クズ(Don't follow me trash)」


 取り残されて僕は呆然とする。


 こうなって、やっと、店中の客の視線が自分に集まっていることに気付いた。


 惨めだった。何も出来なかった。ダリルをやっつけたように奴らもやっつけたかったのに、ただ侮辱されただけで終わってしまった。殴り合いにすらならなかった。


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