第一章ー9話

「いいえ。有意義な時間を過ごさせていただきました。お気になさらず」

 待たせたことを詫びる至高の女性に、ユーシスレイアは軽く笑むように頭を下げる。

 過度な礼がエルレアの意に沿わないと知っているため、炎彩五騎士は他者の目がない場所ではこの程度の軽い礼をとるのみだった。


「 ―― そうか? それならよかった」

 意外なことを言う青年を不思議そうに見やり、改めて彼に着席するように促すと自分も手近な椅子に腰を下ろす。

 座りしな、テーブルに匂りのよいお茶が飲みかけで置いてあるのを見つけ、エルレアはわずかに笑むようにグレイの瞳を細めた。

「マリルが淹れたカミツレのお茶は、美味しいだろう?」

 一瞬その意味を捕らえかねたユーシスレイアだが、すぐに思い当たったのか、皇帝に促されるまま椅子に腰掛けながら納得したように頷いた。

 先ほどの婦人が淹れてくれた甘くふくよかな香りのするお茶は、庭園に咲き広がるカミツレで淹れたものだったのだろう。


「はい。初めて頂きましたが、不思議な甘さがありますね。とても心が和むような気がしました」

「私もカミツレの香りは好きだ。だが、まさかこんなにリラックスした碧焔の表情を見られるとは思わなかったよ。さすがはマリルだな」

 くつくつと、皇帝は肩を揺らすように笑った。


 緋炎の騎士から、今日の五騎士会議で碧焔にリュバサ攻略の指揮を一任したという報告は受けていた。

 そしてカレンからは、先ほど交わされた二人のあまり友好的とは言いがたい会話についても聞いていた。

 だからこそ、ユーシスレイアがこんなにも柔らかな表情をしているとは思わなかったのだ。


「…………」

 そんなことで皇帝に嫌な顔を見せるぐらいなら、最初からになったりはしない。そう思いはしたものの、なんと応えていいものか。少し困ったようにユーシスレイアは眉根を寄せた。

 自分でも気付かないうちに、ずっと神経を張り詰めいていたのだということは、先ほどマリルのお茶を飲みながら気がついたことだった。

 だからといって、ずっと不機嫌そうな顔をしていたつもりもなかったのだが、自分自身ではその真偽もわからない。

「……それで、どのようなご用でしょうか?」

 ひとつ息を吐き出してから、ユーシスレイアはけっきょく考えるのを諦めたように話題を変えた。


「ああ、そうだった」

 エルレアは笑顔を消してちらりと背後に佇むカレンを見やった。そうして碧焔の騎士に再び視線を戻す。


「リュバサについて、もう少し話を聞いておこうと思ってな。この世界に在る街や遺跡のことをカレンは知り尽くしている。そのカレンでさえリュバサの街の存在を知らなかったというのだから、興味は尽きない」

 皇帝のグレイの双眸が知識を求めて炯々と光る。

 世界統一を望む自分ががあることは許されないのだと、強く煌めくその眼光はどこか心地よい。


「わたしにも知らない場所はたくさんありますよ、エルレア様」

 深い青緑の瞳をふわりと細めて、皇帝の背後からカレンは微笑んだ。

 確かにこの世界に自分が知らない場所は少ないけれど、すべてを熟知しているというのは大げさに過ぎるだろう。

 万能の神ではない以上、知らない町や遺跡の一つや二つあっても不思議ではないのだから。


「 ―― そうなのか?」

 すこし不満そうに、エルレアは背後に佇む側近を見上げた。

 しかしいつもどおりの柔らかな微笑をたたえているだけの相手に軽く肩をすくめると、すぐに気を取り直したように、目の前にいる、つい数ヶ月前まではと思っていた青年を楽しげに見やる。

「まあいい。リュバサに興味があるのは、それだけが理由じゃない」

 凛とした皇帝の力強い眼光を受けて、ユーシスレイアは頷いた。


 カスティナの国王が逃げ込んだ場所。湖の底にある街。

 その街のことをしっかりと思い出すように、彼はゆっくりと瞼を閉じ、そうして再び白金の目を開く。


「 ―― 湖底都市リュバサは、太古に起きた『人魔大戦』の際に人類が劣勢となったため、カスティナ王国が作った隠れ都市避難場所だと聞いています。当時は人間の中にも存在していたという、不思議な力を持つ者の協力を得て、再起をはかるための拠点として建設されたのだと。結局そのときカスティナは滅びず、大戦も魔族の封印という形で終結したのはご承知のとおりですが、街は非常時の備えとして残されたようです」


 今回の王都シェスタ陥落がなければ、その存在を一般に知らされることは決してなかったであろう街。

 その街に住む者は太古から脈々と受け継がれた人々であり、そこで生まれ、街から出ることもなく一生を終えるのだという。

 リュバサに出入りすることが出来るのは王族と、それに随行し許可を得た者たちだけという徹底した秘匿ぶりだった。


 ユーシスレイアも騎士として多くの功績を挙げ、名実ともにカスティナを担う将の一人として数えられるようになった頃、ようやく知らされたのだ。

 国王フィスカと父アルシェ。そして宰相のリファラスに連れられてリュバサの街を訪れたのは、まだほんの五年前のことに過ぎない。


 リュバサは、カスティナの王都シェスタの中心にある城郭都市をいくぶん縮小させてそのまま湖底に造営されたような、立派な街だった。

 鍾乳洞で繋がった別の場所には農地や牧地なども広がっていて、自給自足も叶えられるのだと、そのとき宰相リファラスは誇らしげに教えてくれたものだった。


 それは一見するとで、まさか湖の底にこれほど広大な居住可能な地域が在るなどと、それまで思ったこともなかった。

 陸から見れば、それはただの湖にしか見えないのだから当然だ。いや、おそらく空から見下ろしたとしても、湖底に街など見えはしないだろう。

 今朝の五騎士会議で緋炎が白炎に言っていたとおりに、潜ってみたところでそれを見つけることは、決して叶わないのだから。


 ―― それはすべて、『リュバサの天井』と呼ばれるの力なのだと。そのとき国王フィスカから聞いた覚えがある。


「魔族との戦い……力を持つ人間。そして奇跡、か?」

 ふと、皇帝が硬い声をもらす。

 その口調がどこか冷たい嘲笑のように聞こえて、ユーシスレイアは思わずまじまじとエルレアを見やった。


「カレン、例のに関わりがあるか?」

「……おそらくは。まさかそのような街を創っていたとは思いませんでしたけれど」

 静かにカレンは微笑んで見せる。

 エルレアは頷くと、凛としたグレイの瞳をじっとユーシスレイアに向けた。


「碧焔。その街を、三日で陥落おとす自信はあるか?」

 そう言って放たれる眼光は、厳しくも心地よい。

 ユーシスレイアは背筋を伸ばすようにその眼光を受け止めた。


「それが、リュバサ攻撃を開始した後の日数だというのでしたら、可能です」

「 ―― ふん。もちろんそういう意味だ。おまえの軍は、まだ何も整ってはいないからな」

 言いながらエルレアはすっと立ち上がり、窓際に歩み寄る。

 ほんの少し窓外を眺めるように遠い目をした皇帝が何を見ているのか。それはユーシスレイアには分からない。

 ややして彼女は軽く目を閉じ、そうして何かを決めたように鋭く碧焔の騎士を振り返った。


「だが、ひと月以内だ。軍備を整えるのに、それ以上長くは待たん」

 すべてを短期間でやってみせろと言うその口許に浮ぶあざやかな笑みが、窓からこぼれる陽の光に彩られて力強さを増す。


「承知、いたしました。碧焔の騎士のを、迅速な勝利にておさめさせていただきます」

 皇帝を彩る鋭い覇気に、思わずユーシスレイアは膝をついてそう応じた。


 リュバサの話をしていた自分の言葉の何が皇帝の覇気に火をつけたのか。

 それを知ることは出来なかったけれど、そのによって彼女が、カスティナの国王フィスカを捕らえるための攻略ではなく、リュバサのを欲したのだというのは分かった。


「楽しみにしていよう、碧焔」

「はい。それでは、すぐに準備に入らせて頂きます」

 幕僚にと今までリストアップしてきた人物たちの顔を思い浮かべながら、ユーシスレイアは退席許可を願う。

 すべての人事を数日中に終えて、すぐにでも戦の準備へと取り掛かりたかった。

 既に意識は戦いへと向き、祖国であるカスティナの攻略を考えているというのに、こうも気分がしている自分自身が少し可笑しい。

 けれども ―― 心はなぜか充足感を覚えていた。


「もう少しリュバサの話を聞きたいが、今はそっちの準備を優先させよう。話はいつでも出来るが、戦いには"機"があるからな」

 エルレアは強いグレイの眼差しをわずかに楽しそうに細め、戦意に満ちた騎士を頼もしげに見やる。

「ありがとうございます。機を逃さぬよう努めます」


「ああ、そうだ。リュバサの攻略が成れば、そのおまえに居館を与える。碧焔の騎士が、いつまでも緋炎の屋敷に居候というわけにはいかないだろう?」

 颯爽と部屋を出て行く碧焔の騎士の背に、淡々と皇帝はそう告げる。何の功もなく何かを与えることはしないという、エルレアらしい言葉だ。

 ユーシスレイアは振り返ると、それについては何も言及せず、軽く一礼だけして蒼昊の宮をあとにした。



「 ―― を、彼に与えるつもりですね?」

 二人になるとカレンはやんわりと皇帝に問い掛ける。

 彼を待たせるのに、わざわざここに通したことを考えればそう判断する他はない。互いに考えることはたいてい分かるほどに、二人は同じ時間を共有していた。


碧炎の騎士ゼア・カリムの旧屋敷をあてがうわけには行くまい? 白炎が怒る」

 エルレアはふっと笑った。ユーシスレイアが居る時よりもほんの少しだけ、くだけた表情になる。

 カレンは軽く息を吐き出し、ゆうるりと頭を振った。

「……あなたにとって、ここはでしょうに」

 幼い頃をこの宮で過ごしていたエルレアには、たくさんの想いがこの邸宅にはあるはずだった。

 それを、惜しげもなく誰かに渡そうとしていることが信じられない。


「思い出は、自分の心の中に持っていれば良いだろう。場所や物がその思いを持っているわけではないからな。それに私は、過去にすがるつもりはない」

「……ええ。そうでしたね」

 きっぱりと言い放つエルレアの強い眼差しに、カレンは静かに頷いた。気を取り直すように微笑んで、皇帝の視線を見つめ返す。


「そんなことよりも、まさかこんなふうにに遭遇するとは思いませんでしたね。ユーシスレイアが我が国に来たことを、わたしは初めて神に感謝しましたよ」

 悪戯っぽく青緑の瞳を片方だけ閉じて、カレンはくすりと笑った。

 エルレアはそんなカレンをちらりと見やってから、大きな窓を開けて見晴らしのよい露台へと出た。


「カレンがそんなことを言うとは珍しい。でもまあ、気持ちは分からないでもないな。我々の目指すべきものを、見失わずにすみそうなのだから」

 ふいに、強い風が濃い藍色の髪を巻き上げるように吹き荒び、ラーカディアストの皇帝の身体に激しく叩きつける。それにも構わず、エルレアはここにはない何かを見据えるように、すうっと目を細めた。

 そこに強い意志と力があふれるように載せられて、周囲に鋭い覇気を放射する。炎彩五騎士が魅せられる、皇帝のグレイの眼差しだ。


「そのためにも、碧焔には頑張ってもらわないといけませんね」

 そっと風を遮るようにエルレアの隣に佇んで、カレンも同じものを見る。

「 ―― カスティナ王国もいろいろと秘密を持っていそうだし、わたしはもう少しあの国を調べてみましょう。貴女はただ、信じる道を進めばいい」

 優しく耳元でささやくように、カレンは微笑んだ。

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