薄氷、共生、血路

 薄氷を踏みしめるような音がどこからか響いた。



 鬼島きじまはベンチから立ち上がり、銃を手にする。

 錆びついた「きさらぎ駅」の看板が震え、一滴の血が滴り落ちた。流れ出す血が自動改札機を伝い、ひび割れた床に流れ出す。

 赤い雫は地に触れた途端重力に逆らって立ち上がり、するすると蛇のように再び天井を目指した。


 氷下魚こまいが小さく息を呑む。

 銃を構えた鬼島の前で赤い液体が四角形を作った。床に広がった血が歪に線を結んだそれは逆さにした鳥居に似ていた。


 割れるような衝撃音。

 それとともに血の鳥居から一斉に泥が雪崩れ込んだ。

「氷下魚、退がれ!」

 大波のように押し寄せた泥が鬼島の足に絡みついた。

 泥が人型を作る前に弾丸で撃ち抜き、空いた穴を蹴り上げる。


 門から溢れる泥は瞬く間に擦り切れた僧服を纏い、独鈷杵を持った影になった。

「くそったれ……」

 鬼島は先頭の影の頭と腕を射撃して後退した。

「氷下魚、ホームまで戻るぞ!」

 背後の彼女は呆然とベンチに座り込んだまま動かない。鬼島は銃を構えながら反対の手で氷下魚の腕を掴んで階段へ駆け出した。



 追手がすぐ後ろまで迫っているのがわかる。敵の獲物の切っ先の軌道と風圧を首筋に感じた。振り返らずに引き金を引くと、血の代わりに散った泥が跳ねた。

「店長!」

 鋭く叫んだ氷下魚を反射的に引き寄せて身を捻る。

 熱が背中を駆け抜け、激痛に鬼島は足を踏み外した。

 転げ落ちながら氷下魚を庇ったせいで階段の段差が傷口を抉る。

 ホームに飛び込むと打撲の鈍痛と独鈷杵で切りつけられた鋭い痛みが同時に襲ってきた。


「氷下魚、平気か!?」

 点字ブロックの上に倒れた彼女は返事をしなかったが目立った外傷はない。

 無理に身を起こし、銃を構えながら片手を後ろにやる。破れたシャツから煤と混じって黒くなった血が滲んだ。


 銃口を上げ、焦点を合わそうとする目が霞んだ。

「店長……」

 足元で掠れた声が聞こえた。

「もう、いいです……」

 手をついて起き上がろうとする氷下魚は泣きそうな薄笑いを浮かべていた。

「もういいから……店長だけでも逃げてください」



 濁流のように階段を影が滑り落ちてくる。

 視界の隅にもうひとりのホームに横たわる女の姿が映る。

 乾いた血の跡に悪夢が蘇る。

 震える手に力を込め、引き金に手をかけた。

「どいつもこいつも潔く諦めやがって……」

 手が震えるのは痛みでも恐怖でもなく怒りだった。

「俺が弱いからか……?」


 ––––私のこと憎んでもいいよ。

 まだ新しい記憶の中の声が響く。

 影の波は目の前まで来ていた。

 妖怪でも人間でもない、自分が何より憎かった。

「くそったれの大馬鹿が……」


 目の前で影が広がる。鬼島は引き金を引いた。

 狙いも定めず、一心に放つ弾丸が雨のように影を穿つ。爆ぜた泥の奥から次から次へと影が現れる。

「来いよ、やってやる!」

 薬莢が跳ね、引き金が虚しく前後した。弾切れだ。

 闇の中で無数の武器が踊った。



 銀色の光が闇を切り裂く。

 突然の斬撃に真一文字に斬られた影たちが断末魔を上げる間もなく泥の塊に変わった。

 土と腐った水の匂いとともに駱駝色のトレンチコートの裾が広がった。


「時間外労働だ、店長! 昨日からの残業代はつくんだろうなあ!」

 振り返った男が獰猛な笑みを浮かべる。

浅緋あさひ!」


 立ちはだかった浅緋の脇を真っ赤なアロハシャツの残像が擦り抜ける。

 へたり込んだままの氷下魚を掬い上げて跳躍した冬瓜とうりが影から距離を取って着地した。

「冬瓜さん……」

 噎せ返った氷下魚を下ろして冬瓜が手を振るう。鉤爪が刀を抜くような鋭いを音を立てた。


「感謝の言葉ならいくらでも後で聞いてやる。来たぜ」

 顎をしゃくった冬瓜の先で影が左右に割れた。



「陰陽師を出してくると思ったんだが……妖怪とはね。相変わらず東京の連中は型破りだな」

 湿った笑い声とともに闇の中から一段と濃い黒が滲み出した。

 インバネスコートの陰陽師がホームから三段上がった階段に立っていた。浅緋が無言で長ドスの刃を返す。



「お前か……!」

 唸った鬼島の喉に鉄錆の味がせり上がった。血の混じった唾を吐いてから言葉を紡ぐ。

「お前が首謀者か。何で陰陽師が怪異の味方をする……」


 陰陽師は蒼白な顔に苦笑を浮かべた。

「まさか、頭なわけないだろう。この力も分け与えられたものだよ」


 冬瓜が周囲を警戒して視線を走らせる。影は壁に張りついて襲ってこない。

「理由の方だけ答えよう。何で東京での人間と妖怪の均衡を壊すのが目的だ」

 問い返そうとした鬼島を遮って陰陽師が続けた。


「妖怪と人間が共生できるはずがない。人間は数の暴力で、妖怪はそれより大きな力でお互い睨みを利かせてる。どちらかが押せば崩れる均衡だ。俺は似非霊媒師をやっていたが、本物の怪異を目の当たりにしてわかったよ。敵うはずがないと」

 風もなく揺れるインバネスコートの端が回遊するよう魚のような影を落とした。


「だから、俺は怪異の側につく。いつ牙を剥くかわからない妖怪に怯えながら生きるよりは、妖怪を排斥して目に見える新しい怪異の傘下に入った方が安全だ」


 陰陽師は真っ直ぐに鬼島を見据えた。

「猿夢から聞いたよ。君も怪異の恐ろしさは知ってるはずだ。協会の言うことを聞かない妖怪もゼロじゃない。また奴らに奪われてもいいのか」

 鬼島は歯を食いしばる。新しい血の味が口に広がった。


 切れた唇を開く前に浅緋が一歩踏み出して、白鞘の先でホームを叩いた。

「そうかよ、怖気づいて新しい怪異とやらのカキタレになったのがそんなに自慢って訳だ」

 浅緋が犬歯を覗かせて鬼島を振り返った。

「どっちにつくだまどろっこしいことは抜きにしようぜ。お前、こいつを許せるか?」

 金の瞳孔に血と泥で汚れた鬼島の顔が写っている。



 鬼島は銃を放り捨てた。

 浅緋が眉をひそめ、陰陽師が小さく笑みを浮かべる。


 何か言う代わりに鬼島は袖口に隠した針を抜き、指に突き刺した。

 心臓が鎖で縛られたように軋む。指先から逆流した血が黒い籠手と斧を形どった。


 陰陽師が片方の眉を吊り上げ、浅緋が満足げに笑った。

「いいのかよ、坊ちゃん。あいつは一応人間だ。ひと殺しになるぜ」

「知るか。それよりお前は? 東京の妖怪は陰陽師に手出しできないんじゃないのか」

「俺はヒダルガミだ。どっかの怖え女ならともかく並みの陰陽師の決め事に縛られるかよ。野郎の腹わた引きずり出して食い尽くしてやる」


 長ドスと斧の先端が陰陽師を指した。

「行くぞ、浅緋。お礼参りだ」



 同時に地を蹴った浅緋と鬼島の前に泥の壁が立ち上がる。ふたつの斬撃で壁が砕け散り、無数の泥の雫が舞う。

 地を濡らす前に泥が影になって起き上がった。


「天邪鬼、雑魚は任せた!」

 赤い旋風がホームを駆け抜けた。

 冬瓜が跳躍し、回転し、跳躍し、回転する。

 ホームの天井や掲示板を足場に天地の境なく冬瓜が飛び回るたびに、ずだ袋の紐を解くように皮を切り裂かれた影が泥を飛び散らせて崩れ落ちた。



 開けた視界に鬼島が斬り込む。刃が届きかけた矢先に新たな影が躍り出て、独鈷杵で斧を防いだ。

 体重を乗せた刃先で獲物ごと影を押し切る。


 鬼島の目の前が白く霞み、重心が後ろにずれた。次の影の追撃が来る。体勢を立て直そうとしてふらついた鬼島の背を浅緋が支えるように押した。

 背中の手が肩に移動し、鬼島を足がかりに飛び出した浅緋が影を蹴り抜く。


 破れた点を修復しようと蠢いた泥をドスが切り捨て、浅緋が鞘を投擲した。

 防御が遅れた陰陽師の肩が返す刃で袈裟斬りに裂かれた。

 擦り切れた革靴が地面を叩く間に噴き出した血がホームに降り注いだ。


「浅緋、お前、足場にしやがって……」

「手助けでも期待したか?」

 荒い息をしながら鬼島は前を見る。半身を赤く染めた陰陽師が血の気のない顔を更に白く染めて佇んでいた。


「本気を出すべきかな」

 陰陽師が片手で傷口を抑え、もう片方の手で印を結ぶ。傷口から勢いよく溢れ出した血が陰陽師の全身を包んだ。


 浅緋が長ドスを上段に構え直した。その肩越しから見る陰陽師の姿が偉業に変貌していく。

「あれは……」

 血が硬質に変わり、陰陽師の身に纏わりついた。



「きさらぎ駅は鬼門。鬼の領域だ」

 目の前に現れた、鬼島の腕を包む籠手に似た赤錆色の甲冑の中から陰陽師の声が反響した。

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