スノードロップが咲くころに

桃本もも

第1話

 わたしには透明になれる場所が必要だった。


 クラスに友だちがおらず浮いている、という訳ではない。

 普通におしゃべりする子はいるし、お弁当を食べるグループにも困っていないし、たぶん平均的な高校生になれているとは思う。


 だけど、クラス内でのわたしの重要度など、綿毛よりも軽いものだ。

 人数あわせのために誘われることもあるし、逆に容易に切り捨てられる存在でもある。そのくらいの重要度。


 それがつらいとか苦しいとか嘆きはしないけど、ときどき逃げたくなる。


 素知らぬ顔で輪から抜け出して、いなくなっていることにも気づかれなかったら。

 何にも縛られることのない場所があったら。

 わたしは最初から透明だったかのように、すごく楽に呼吸ができるようになるだろう。



   *



 やっと4限目終了のチャイムが鳴った。

 まだ重要な文法の説明が済まず、話し続ける英語教師の声を遮るように、教科書やノートを閉じる音が続出する。財布を握りしめ、購買に向かう準備を整えている者もいる。

 こんな状態では頭に入らないだろうと諦めたのか、先生は仕方なさそうに授業を終わらせた。

 一気に教室がにぎやかになり、少しだけ呼吸がしずらくなる。面倒なお弁当の時間がはじまる。


 高校入学から3ヶ月が経ち、クラスにはだいぶ馴染んできた。積極的に友だちを作ろうと思っていた訳じゃないけど、流れに身を任せていたら、大人しくて目立たないような子たちのグループに入っていた。もちろん、わたしもどちらかというと「大人しくて目立たないような子」だ。

 教室の隅、ふたつの机に4人が寄り集まってお弁当を食べ、ときどきお菓子を持ち寄ってシェアし、それが終わると5限目開始のチャイムまで話すことがもたないような、そんなグループ。

 それぞれの趣味も、よく聴く音楽も、休みの日に何をしているかも分からない。知っているのは、どんなお菓子を持っていったら喜ぶか。それだけ。


 なるべく遅い動きで教科書やノートをしまっているわたしの周りでは、派手でイマドキって感じの子が集まるグループがもうお弁当を広げはじめている。

 いつもわたしの机も使っている子たちだ。早く席を明け渡さないわたしを鬱陶しそうに見てくるのが、目をあわせなくても分かった。


 財布とスマホとカロリーメイトをカーディガンとスカートのポケットに詰めこんで席を立ち、教室の隅に向かった。見るとため息をつきたくなるような、でも笑顔を浮かべなきゃいけない3人が、もう揃っている。律儀にわたしのことを待ってくれていて、誰もお弁当を開けていなかった。

 空いている席には座らず、手をあわせて申し訳なさそうに見えるような顔を作った。


「ごめん。今日お弁当なくてさ。購買行ってくるから、先食べてて」

「え、今から購買? 絶対、激混みでしょ」


 購買には、街の老舗のパン屋が来るのだけど、大人気だからものすごく混む。4限目終了のチャイムとともにダッシュするくらいじゃないと、いちばん人気のクリームボックスにはありつけないという、戦場のような様相を呈する。今ここでのんびりしているわたしには、おそらく選択肢など残っていないはずだ。


「雪野って結構のんびり屋だよね~。ほら、早く行かないとごはん抜きになっちゃうよ」

「うん。行ってくる」


 わたしは教室を出て、購買に向かった。ものすごい長さになっているパン屋の行列を横目に、自動販売機でお茶だけを買う。教室の前を通らずに済むよう、遠回りして昇降口から外へ出た。

 よし、離脱成功。あとはひとりになれる――透明になれる場所を探すだけだ。


 わたしは週に1度、購買に行くとのたまって、こうして教室から抜け出すことにしている。そうでもしないと、ひとりになれないからだ。

 学校というのは面倒なところで、ひとりでいる人間に優しくない。ひとりが平気という人間はおかしいという共通認識がある。誰も明言していないけど、そういう雰囲気があるのは確かだ。


 わたしはそんな空気の中、普通の人間ぶっているけど、ひとりでいることを苦に思ったことはない。むしろ、ひとりになれる時間が必要なタイプの人間だ。

 それを説明するのも面倒くさいし、理解してもらうのはもっと骨が折れるだろうから、こういう目くらましみたいな作戦を取っている。理解しあうより、小さな嘘をつく方がお互いのためになることもある。


 さて、今日はどこに行こう。

 学校内で透明になれる場所……しかも、透明になっているのを見られずに済む場所は限られている。いや、ほとんどないと言った方が正確だ。


 当たり前だけど、教室には必ず誰かしらいる。空き教室や特別教室には使用時以外は鍵がかかっている。校庭や中庭は、部活の自主練やピクニック気分の生徒たちが占拠している。残されている場所なんてほとんどない。

 学校でひとりになることは本当に難しいのだ。


 わたしはお茶を開けて飲みながら、校舎裏をうろうろする。今年は空梅雨らしく、6月末だというのに晴れの日が続いている。

 教室はクーラーで寒いくらいだったけど、やっぱり外は暑い。しかも、盆地だから湿気の多い、じめっとした暑さだ。ポケットからものが落ちないように気をつけながら、カーディガンを脱ぐ。


 今日はもっと足を伸ばして、部室棟の方まで行ってみよう。手で庇を作り、校庭の向こうに目を向ける。

 桜の木陰が、本校舎から部室棟への道筋を示すように伸びている。部活に所属していないから縁がなく、どんなところか前から気になっていた。


 まだひんやりしているペットボトルを首筋に当てながら、葉桜の下を歩く。初夏の日差しがぽろぽろと、湿り気のある地面に転がっている。

 苔のような濃い緑色の植物が生えており、踏むとじわっと水が染み出してくるようだった。


 部室棟は2階建て。創立当時から変わらない本校舎と違って、20年ほど前に建てられたらしい。本校舎よりも簡素な造りで、外壁の劣化は少ない。

 部室棟の周りにはさらに、プレハブの物置やトレーニングルームなどが、地下茎で繋がったつくしのように増設されている。部活動がさかんな学校だから、必要に応じて増やしていった結果だろう。

 まとまりがないものの、その分死角は多くなる。放課後でもなければ、出入りする生徒は少ないだろう。たまにくる隠れ場所としては持ってこいかもしれない。


 部室棟の周辺に人気はないものの、建物の中に入るのははばかられたので、校庭と反対側の南側に回ってみることにする。

 部室棟の影から抜け出すように、裏へと足を向ける。建物のわきを歩くうちに、裏側には桜の木が生えていないことが分かった。何にも遮られることなく、日光が降り注いでいる。土の地面はからっと乾いて、ちらほら見られる雑草は、水分がほとんどなさそうな薄っぺらい葉のものばかりだ。


 裏側には休めそうなところがないかもしれない。冬なら日向ぼっこになるけど、これからの季節には向かないな……。

 引き返そうか迷いつつ部室棟のわきを抜け、視界が開けた瞬間――。


 太陽の光のまんなかに、ガラス張りの建物があった。


 まるで、陽光が集まって形づくられたかのようだ。夜になったら霧のように消え、朝になるとまた現れる――そんな儚いもののように感じられた。

 わたしは踵を返そうとしていたことも忘れ、ふらふらとその建造物に歩み寄った。

 上から見ないといくつ面があるか分からない、多角形のガラスの壁。ほとんど円形に近い。屋根ももちろんガラス張りで、テントのように三角形に張り出している。建物全体の大きさは、直径10メートルくらいだろうか。高さは校舎の2階の中ほどまである。


「これ……もしかして、温室?」


 中には植物が所狭しと生い茂って、ガラスの内側が少し曇っている。暖房設備まではさすがにないみたいだけど、閉め切っておけば冬でも温度をある程度は保てそうだ。

 この学校に園芸部があることは知っていたけど、まさか温室が完備されているとは……。私立なら分かるけど、普通の公立高校にあるのは驚きだ。


 もう少し近くで見てみたい。足音を忍ばせて、そっと近づいてみる。こっち側に入り口はない。

 ガラスの壁に沿って歩いてみると、多面体のひとつの面がドアになっており、開け放ってあるではないか。高鳴る鼓動をおさえ、中を覗きこむ。


 中はやはり、植物で埋め尽くされていた。作りつけの花壇は、壁に沿って1周と、通路を空けてまんなかに円型のものがひとつ。

 それだけでは足りないらしく、通路にも鉢植えやプランターが乱雑に置かれている。足の踏み場を何とか探し出して歩かねばならないような、そんな散らかり具合だった。


 名も知らぬ花が咲き乱れる室内は、異空間のように感じられた。むせ返るような土と花のかおりにいざなわれるように、1歩、足を踏み入れた。さらにもう1歩……は、叶わなかった。


 中に人がいる。


 入り口の外では、木の影になって見えなかったのだ。1歩踏み出した途端、煉瓦でできた花壇の縁に座る姿が急に現れた。

 小柄な女子生徒だった。白くなめらかな肌に、華奢な手足。まっすぐ伸びた長い髪は、染髪が禁止されているから黒なのだろうけど、光の当たり具合のせいか、グレーにも銀色にも見える不思議な色をしている。その髪に見え隠れする横顔は、陽の光で透けてしまいそうなほど儚く感じた。


 靴の下で鳴った砂の音には気づかれなかったようだ。まるで妖精のように静かに佇む彼女は、手にした花を見つめている。伏せたまつ毛に落ちる陽光が、まばたきのたびにちらちらと輝き、少しだけ泣いているように見えた。

 たぶん今、彼女も透明になっているのだ。

 誰にも見られない場所で、ひとりきりの時間にたゆたっている。邪魔してはいけない。わたしが透明になっているとき、邪魔されたくないように、彼女だって侵入者を望んでいないはずだ。


 それなのに、どうしても立ち去ることができない。彼女に見入ってしまい、動くことができない。

 もう少し……ほんの少しだけ――。


 妖精のような少女は、手にした花の花びらを1枚ちぎった。高校生が、花占い? 他の生徒がやっていたら、そう思わざるを得ないだろう。

 だけど、浮世離れした雰囲気を纏う彼女には、不思議と似合っていた。他人に興味などないわたしが、どんな願いをその花にこめているのか、知りたくなるくらい。


 そうだ、その花の名前は知っている。たしか、ガーベラだ。花占いをするならこの花にしたいと思うような、そんな花。


 彼女はちぎり取った花びらを宙に放つ――かと思いきや。


 その花びらを口もとに寄せ……。


 ぱくっと食べた。


 えっ、食べた!?

 驚くわたしには気づきもせず、彼女は次々と花びらを口に運んでいく。好き、嫌い、好き――とか、そんなの唱えてなんかいない、淡々とした表情。たぶん、わたしがカロリーメイトを食べているときと同じ顔。


 衝撃の光景に、知らず知らず呼吸が荒くなっていたらしい。身動きひとつ取っていないのに、彼女がこちらを振り向いたのは、そのせいだろう。

 目と目があう。その瞳も、髪のように何色か定かでない、不思議な色をしていた。


 わたしは慌てて駆け出した。彼女の呼び止める声がかすかに聞こえた気がする。腕にかけたカーディガンが、ばたばたとはためく。


 目があった瞬間の、泣きそうな、不安に押し潰されそうな彼女の瞳が、まぶたの裏に張りついていた。

 人に見つかって、透明じゃなくなったとき――自分に色がついていくのを感じるときの表情だった。


 わたしがいちばん絶望を感じる瞬間を、彼女に味わわせてしまったことが、申し訳なかった。

 だけどきっと、彼女に気づかれなかったら、ずっと見つめていただろう。


 花を食べる、夢のように美しく儚い姿に、魅入っていただろう。

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