第20話 嗣子



 慶長10年(1605年)4月に家康は将軍職を辞して、その後を秀忠に譲ったが、後継者を誰にするかで、さすがの家康もかなり迷ったようである。


 実子がなかなか生まれなかった豊臣秀吉とは異なり、家康は子に恵まれた。

 もっとも、有望であった嫡男の信康は天正7年(1579年)、9月15日に切腹した。その理由については諸説あり、定かではない。

 次男、秀康は秀吉の養子となったが、後に結城家を継ぎ、結城秀康を名乗っていた。体躯にも優れ、豪胆ではあったが勘気が強く、これまでも問題を多く起こした。

 三男、秀忠が実質的に嫡子の扱いとなり、秀吉に人質として大坂に置かれていても、他家とは違い、破格の待遇であった。秀忠も体躯に恵まれていたようだが、目立った武功は立てていない。

 四男の忠吉は、関ヶ原合戦で福島正則と先陣を争い、中央突破を図る島津を追撃し、島津豊久を討ち取る功を上げていた。


 家康は後嗣について、重臣たちに諮った。本多正信は結城秀康を、井伊直政は娘婿の松平忠吉を、大久保忠隣は秀忠を推した。

 『治世の時代には調和を保つことこそが求められ、それには他の者の意見に耳を傾ける秀忠様が向いている』――と秀忠を推した忠隣の意見を家康は酌んだのだろう。

 秀忠を後嗣と決めた。



「家康殿は、秀頼が成人の折りには将軍職を譲るのではなかったのかっ!?」

「はっ。将軍職は、嗣子の秀忠殿に譲った由にございまする」


 金切り声で怒りを露わにする淀殿に、秀頼の護役の片桐且元は平伏した。こうなった淀殿は、誰にも止められない。ひたすらに、怒りが治まるのを待つしかない。

 確かに、美女と謳われた織田信長の妹〝お市の方〟の面影を残し、年の割には妖艶さもあり、淀殿は美しい。

 しかしながら……。それらを台無しにしているのが、


「いかがいたすつもりじゃ!? 且元殿っ!!」

「ははっ!! 面目次第もございませぬ」


と、眉間に〝しわ〟を寄せ、怒りを家臣にぶつけるこの姿。且元もこの頃、胃が痛く、登城が辛い。


「家康殿なら老い先短いであろうが、秀忠殿はまだ若い。これでは、秀頼の将来が気掛かりでならぬ」

「はっ、ごもっともでございまする」


 家康が将軍職を後嗣・秀忠に譲ったことで、〝将軍職〟は徳川家が世襲するもの――と明らかにし、秀頼が成人しても、政権を返すことはない。

 それをはっきりとした形で天下に表明した徳川家に対し、当然ながら豊臣方は反発した。特に、淀殿は顕著であった。


「それと、もう1つ……」


 申し訳なさそうに、且元は切り出した。まだ、話さねばならないことがある。


「何じゃっ!?」

「は。徳川殿より、秀頼様に『二条城に謁見に馳せ参じよ』――と」

「何と! 秀頼に〝来い〟となっ!?」

「は、秀忠殿の将軍職就任の祝辞を述べよ――との仰せにございまする」

「それが主家に対する態度かっ!? ええいっ、図に乗りおって!!」


 やはり、お怒りになられたか――。

 今や、〝武家の棟梁〟〝源氏長者げんじのちょうじゃ〟は徳川家。豊臣家も、ただの大名家の1つに過ぎぬ。それも分からぬとは――。

 且元は内心で嘆息した。それでも、問わねばならない。


「では、『馳せ参じよ』との件。如何いかがいたしましょうや?」

「捨て置け。秀頼はここを動かぬ。そう、伝えい」

「はっ」


 豊臣方は家康の要求を拒否した。家康も豊臣家と無暗に争うつもりはなく、秀吉の遺命に従い、慶長8年に、孫の千姫を秀頼に嫁がせた。何とか、争いごとにせずに、ことを穏便に収めようとしていた時期もあったのである。

 だが、豊臣方では家康――徳川家を警戒し、戦も辞さじと、関ヶ原合戦以降、多くの改易された大名家からあぶれた浪人たちを集め、穏やかでない。


「やれ、あの母御が傍に居っては、秀頼も捨て置けんのぉ……」


 紆余曲折を経て、慶長19年(1614年)。方広寺鐘銘事件を機に、家康は豊臣家を除く決意を固めたのである。



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