(三)家康の影武者
■歴史はミステリー
『駿府政事録』、江戸時代初期の儒学者・林羅山の残した日記がある。
慶長十六年(一六一一)八月一日から元和元年(一六一五)十二月二十九日の間、
駿府城における政治録、全九巻。その中に徳川家康七十一歳の時の雑談として、
「儂は九歳のころ銭五貫で売り飛ばされた」と語ったという記録がある。
他にも家康の経歴については不自然な記述が多く散見される。晩年の家康を若き日
の家康の延長とするには辻褄の合わない点も多く、それ故「家康二人説」は昔から
存在していた。
不自然の最たるものが『徳川御三家』である。何故に九男義直、十男頼宣、十一男
頼房が尾張・紀州・水戸の藩主となり『御三家』として扱われるようになったのか。『徳川』を名乗れるのは『徳川宗家』と『御三家』のみ。家康を神格化する一方で、
数多い兄弟の中で秀忠の血筋のみを宗家とし、宗家の血筋が途絶えた時には御三家
から後継を出すと定められた理由が腑に落ちない。
九男義直が誕生したのは八男仙千代が生まれてから六年も経った後のこと。家康は
既に還暦間近の高齢であったはず。ところが義直の後、二年続けて頼宣、頼房が誕生している。急に家康が若返ったとしか思えない。
家康が『駿府』で隠居したのは何故か。家康にとって駿府は、幼い頃に今川の人質となって暮らしていたところ。当時の人質は両家の同盟を強固にするためのものであり、大切に扱われていたであろうことは間違いない。しかし自由に城下に出ることなど許されるはずもなく、それほど駿府にこだわりがあったとも思えない。それよりも二人目の家康にとって、駿府がよほど思い入れの深い土地であったと考える方が自然ではないか。
家康は死後、駿河国久能山に埋葬され、後に『東照大権現』の神号が勅許されて日光山へ改葬されている。しかし何故に久能山に埋葬したのか、そして何故に日光山に
改葬されることになったのか。駿府で晩年を過ごした第二の家康が当地に埋葬され、徳川家の始祖である家康の遺骨が江戸の鬼門を守る日光山に祀られた、素直にそう
考えた方が腑に落ちる。
■歴史は勝者の物語
歴史とは時の権力者が自らに都合良く解釈し、或いは事実を捻じ曲げて記録に残す
などままあることである。また、後に娯楽として創作された小説や演劇の脚本などであっても、後世に生きる我々は結末を知るが故に安易にそれらを受け容れてしまう。
日本の中世史は江戸時代中期に形成されたもの、全て徳川に都合良く手が加えられていると言っても過言ではない。
例えば関ヶ原の合戦、我々は家康が勝利して天下を手中にしたことを知っている。
それ故、「家康が石田三成を挑発し豊臣恩顧の大名を手玉にとって戦に勝利した」
という筋書きを何の疑いもなく信じてしまう。
しかし事実を一つ一つ検証してみると、秀吉の死による混乱の中で、家康は豊臣家
を敵に回すような戦は避けるべく腐心していたことが伺える。むしろ三成の方こそ、
豊臣家の安泰を守るため如何にして家康を除くかという点に固執していた。
よくよく考えれば分かるはず、徳川の所領は遠く離れた江戸である。上方で戦に
なれば分が悪いこと、火を見るより明らかではないか。
また、関ヶ原の戦いは「豊臣対徳川」の構図で描かれることが多い。しかし実態は
豊臣家中の争い、即ち、加藤清正ら尾張閥と石田三成ら近江閥との内輪揉めである。それ故、秀吉亡き後の豊臣家を三成の好き勝手にさせてたまるかという豊臣恩顧の
武将が家康を担ぎ、家康の勢力が拡大することを恐れた外様大名が三成を支持する
という捻れた構図が出来上がったのである。
家康が天下を狙うと決めたのは関ヶ原の戦いに臨む決意をした時のこと、そこから
豊臣家を滅亡に追い込む(大阪夏の陣)まで十五年もの歳月を要している。
あれこれ思いを巡らせるのが歴史の醍醐味、これ即ち「歴史はミステリー」と言わ
れる由縁である。
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